アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

越野武 『北海道における初期洋風建築の研究』(その3)

 明治初期の初等学校の建設が、しばしば地方における洋風建築伝播のさきがけとなったことが知られている。北海道でも同様であったように思われる。
 ……(中略)……。日本海沿岸の有力都邑では、明治11年以降ようやく本格的な洋風小学校が建てられるようになったのである。
 ……(中略)……。
 これらの小学校建築は、基本的には開拓使の――後志の五小学校は札幌本庁の、江差は函館支庁の――設計と考えられる。ただし『開拓使事業報告 第二編 家屋表』にはいっさい記載されておらず、通常の開拓使営繕事業とはされていない。いずれも「公立」学校であって、建設および学校経常費は住民の寄付によった。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 量徳以下、後志地方の小学校の、特にポーチまわりのデザインは、札幌本庁の洋風建築の特質からはやや異質に思われる。学校建設の資金が住民の直接負担であったこと、つまり建築主体の過半が地元にあったことが、建築の意匠に反映したということも考えられよう。ただし小樽量徳、江差柏樹の両学校は、開拓使が地方都市に洋風の小学校を普及させるためのモデルとしてもくろまれたはずで、明治11年11月26日の竣工開業式に黒田開拓長官、調所大書記官以下が臨場したのはそのことを示している。翌12年以降の余市、岩内、古平、美国は、開拓使直接の設計というよりは、小樽をモデルとして建てられていったのではないかと思われるのである。(p.318-321)


いろいろと興味深い一節。

公立学校の建設や運営の経費が住民の寄付によるというのは現在の常識とは全く異なっており驚くところである。

小樽量徳小学校と岩内の小学校の写真を見たとき、あまりの類似に驚いたことがある。この件を読んで、その理由がよく理解できた。



桧山郡役所遺構は明治20年の創建であるが、この庁舎も、岩内などと同様警察署を併設していた。明治19年12月の北海道庁官制改正により、植民地での便宜的制度として、郡区長は警察署長を兼務することとされたのに従ったものである。(p.322)


確かにこの遺構には警察署としても使われていたという解説があった記憶があるが、そのことの背景がよく分かった。



これらから推して、日本海沿岸部の漁家建築に見られる「軒コーニス」は、開拓使期の函館の洋風建築をルーツとし、海路をつたって伝播していったと考えてよいであろう。(p.329)


北海道の日本海沿岸部の漁家建築は幾つか見たことがあるが、あまりコーニスなどに注目したことはなかった。この観点から見直してみたい。



泊村田中家住宅(明治30年。現小樽市。図16-7)がこれと類似の事例である。田中家は全体としては切妻の雄大な大屋根をかけた伝統的様式の民家であるが、正面左手、和風の真壁のなかに三箇所だけ縦長のガラス窓があけられている。(p.330)


田中家住宅は現在小樽市に移築されており、「鰊御殿」として知られる建物であり、私も何度も訪れたことがあるが、この点は全く気付かなかった。しかし、本書の写真を見ると確かに縦長の窓が三つ並んでいる。



越野武 『北海道における初期洋風建築の研究』(その2)

 軒飾りは持送りを並べる形式である。……(中略)……。このような持送り形式は、やはり開拓使建築の後半期にめだつもので、札幌農学校演武場と同じ系統のデザインである。(p.200)


豊平館についての記述だが、豊平館の軒飾りと札幌農学校演武場(現・さっぽろ時計台)のそれが同系統のデザインだとは気付かなかった。



 西側一、二階の広間および前室には、計六個の暖炉が設けられていた。昭和33年移築時に大半が撤去され、二階広間前室に一個のみが――六個の部材を寄せ集めてつくっていた――遺存していたが、昭和61年修理で、形だけではあるが旧状に復原された。マントルピースの装飾、仕上げは磨き漆喰で、鼠漆喰上塗り表面に黒漆喰を斑にぼかし磨いて、大理石模様をつくりだしている。天板mantel shelfのみ白大理石(寒水石)を使用している。(p.204-205)


これも豊平館についての記述だが、私も今年2017年に豊平館を初めて訪れたのだが、この暖炉は非常に印象に残っている。一見、大理石風の暖炉なのだが、質感が何か違うと感じさせたので、よく見ると漆喰を磨いてつるつるにしたものを大理石風に見せていたことを見て驚き、印象に残った。本物の大理石で作ったものの方が確かに高級感はあると思うが、工夫を凝らして作られたものには、見るものを感動させる力があると感じた。



 一般商店の階数は『盛業図録』で49棟中37棟、『明細図』では100棟中80棟が二階建てであった。函館が九割強、札幌が五~六割強であったから、その中間程度の市街密度であったことになる。(p.303)


明治20年代前半の小樽の市街地についての記述。二階建ての建物の割合によって市街地の密度を推定するというのは、興味深い見方である。



 港、入船町はその後も商業街のひとつとして継承されていくが、小樽全体の都市中心としての地位は過渡的なものであった。明治13年、手宮に石炭積出桟橋と幌内鉄道が完成し、これによって都市活動の中心は北寄りへ強力に引きよせられていくことになったからである。
 明治22年、堺町立岩から手宮鉄道事務所まで、つまり色内町地先海岸の埋立てが竣工、北浜、南浜町が成立し、船入澗が新設された。25年には早くも両浜町の地価が港町を抜いて第一位になっている。
 『盛業図録』『明細図』はちょうどこの時期、港、入船町の市街成立から色内、両浜町の形成へと転換する過渡期をあらわしている。……(中略)……。
 小樽の木骨石造店舗は、函館の洋風防火造商家がその立地や商種を反映していたほどに、くっきりとした傾向を示すわけではないが、それでも信香、山上町などの旧市街には少なく、入船、港、色内などの新市街に多く建てられたことは読みとることができる。また、初期の石造店舗は、米穀、海産物、回漕業など、小樽経済の基幹をなしたであろう豪商に多い、ということはできよう。(p.307-308)


小樽の中心地は、信香、山上町などのあたりから(明治10年代頃?)港町、入船町へと移り、さらに(明治20年代以降)色内、北浜・南浜町へと海岸に近い地域を順次北上していく。さらに函館本線と手宮線が繋がる頃であろうか、山の方へも市街地が拡大して稲穂町のあたりも開けてくるというような流れで展開したと考えられる。

時期の区分などは(上には曖昧な記憶で書いた部分もあるため)もう少し検証しなければいけないが、基本的な流れはこのように理解してよいだろう。小樽の港は、北側の方が波も高くなりにくく、港としての適性が高かったという地理的な要因が背景として効いているように思われる。



 前節で見たように、木骨石造の小規模な事務所建築は明治20年代中頃にはあったと思われるが、小樽新聞社のような中層の規模、形式を整えたものが建てられるようになったのには、明治39年の日本郵船小樽支店(佐立七次郎)や明治40年の小樽郵便局など、本格的様式をそなえた事務所建築の出現が刺激となったであろうと考えられる。(p.313-314)


中層の木骨石造の事務所建築が建てられたというのは、小樽の特徴の一つのようである。明治40年代頃に建てられたものがよく知られており、大正半ばに鉄筋コンクリートが普及するまでの僅か10年余りの期間のことであったため、現存する事例は少ない。

小樽市内で現存する建物で、こうしたものの事例として紹介できるものは、第百十三銀行がそれにあたるということが、本書を読んで理解できた。



なお浜益村濃昼の漁家木村家番屋の倉庫が木骨煉瓦造で、煉瓦は半枚積みであった。創建は明治30年前と推定されている。木村家の本拠は小樽にあって、この建物も小樽の系譜につながるものと考えてよいであろう。(p.316)


浜益村は現在は石狩市の浜益区になっているが、木村家番屋はまだ現存しているようだ。公開はしていなさそうだが、機会があれば見てみたいものである。この地区の近くには同じ頃に建てられた白鳥家の番屋もあり(現在、はまます郷土資料館として活用)、白鳥家も小樽にいたことが想起される。鰊漁の漁場として連続性があるからであろうか。



 このような木骨モルタルないしコンクリート造は、大正以降施行された鉄網モルタル造の応用であり、小樽特有の構造手法ではないが、小樽ではちょうど木骨石造が衰退するのと期を一にしてあらわれるように思われ、明治期の木骨石造の代替構造という性格が指摘されるであろう。(p.317)


この類の建築はあまり残っていないかもしれない。


越野武 『北海道における初期洋風建築の研究』(その1)

 これら二つの大工事は、幕府および諸雄藩による幕末期の洋風軍事、産業建築の一環を占めるものであり、開港場の居留外国人の建築とは別の、もうひとつの洋風建築導入の系譜を示す事例として位置づけることができる。最初期の洋風建築は、次節以下で述べるように、居留外国人の必要に応じて実現していくのであるが、それは必ずしも一方的なものではなく、日本人の側にも主体的に洋風建築を受入れる契機が存在したのである。
 ただ、函館の場合、建築というよりは土木建設の傾きが強く、その後の洋風建築への影響という点では、過大に評価することはできない。むしろ、これらの大工事を機に函館に集まり、建設をになった請負人や工匠、建設労働者が、その後の函館、さらに北海道の建設活動の基盤を形成したことの方が重要であった。(p.25-26)


二つの大工事とは、弁天岬砲台と五稜郭の建設のこと。設計した建築家というより、多くの人が実際の作業をする経験を積んだことが影響を及ぼすという見方は興味深い。



 函館支庁営繕係は、明治7~9年の中間縮小期をはさんで、前後期に分けられ、それぞれスタッフ構成も一変している。前期では在籍期間の短い者が多く、設計能力をそなえた主体的組織としてはまだ確立していなかったように思われる。確証は得られなかったが、官外の大工棟梁らによる設計関与といったこともあったであろう。それが右に指摘したような、和風要素を混淆させた前期の素朴な洋風建築にあらわれたのではないかと考えられるのである。
 これに対し、明治10年後半以降の支庁営繕組織は、本庁からのテコ入れによって、いちじるしく整備された。それは明治11、12年大火後さらに強化され、復興事業に取りくんでいったのである。あきらかに設計能力をそなえた数名の技術官を擁するようになっており、在任期間の長い、安定した組織に変わっている。また、本支庁間の連携はより密接になっており、建築の設計内容についても札幌本庁からの指示がおこなわれている。「会堂」や公立富岡・弥生学校、博物館第二館で、屋根を札幌器械製柾葺き(またはこれに倣って)としたのは、その一例である。にもかかわらず、全体として札幌とは違った建築の性格を保持したのは、洋風建築に習熟した多くの大工、工匠の存在を前提にできたからであろう。一口にいえば開港場以来の伝統である。(p.68-69)


建築行政に関する組織に着目するのは興味深いアプローチ。

函館支庁の営繕係が変化したことで函館の洋風建築が変化した(素朴な和風要素混在からより本格的な洋風建築へと変化しつつも、開港場以来の伝統を受け継ぐ職人たちによって、装飾の要素が少ない札幌の官製洋風建築とも異なる装飾的な要素を持つ建築が特徴となったという。組織の変化と建築のスタイルの連続性というのは参考になった。



 開拓使の建築へのアメリカの影響では、もうひとつ、明治10年以降札幌農学校のアメリカ人教師によってもたらされたバルーン・フレーム構造がよく知られている。
 バルーン・フレームballoon frameは、別名Chicago constructionが示すように、1830年代のシカゴで発明され、中西部フロンティアにひろがって、19世紀後半には「全米住宅建設の60ないし80%」を占めるにいたった。(p.136)


バルーン・フレームについてはもう少し詳しく知りたい。



半円ポーチのコリント・オーダー吹寄せ円柱に代表されるヨーロッパ様式建築の咀嚼、室内天井の漆喰メダイオンに代表される日本建築意匠の引用、そしてアメリカ風木造建築の技術及び表現という、いわば10年間にわたる開拓使の建築実践の蓄積が集約統合されたのが豊平館であるということができよう。(p.137)


豊平館に欧風、和風、アメリカ風の要素の統合が見られるという指摘はなるほどと思わされた。



つまり、開拓使前期の洋風小屋組構造はまだ未消化の点を残した過渡的な段階にあって、簾舞小休所はその最初期の姿を伝えるものと考えられる。(p.147)


キングポストトラスなどのトラス構造が明治期の北海道の建築ではよく見られるが、初期の頃は和風の手法が残ったものだったという。簾舞小休所(通行屋)はまだ行ったことがないので、是非機会を設けて訪ねてみたい。


谷岡一郎 『「社会調査」のウソ リサーチ・リテラシーのすすめ』

 「大学の先生」というステイタスは大変に高い。もちろん「大学の先生」といっても、ピンからキリまであるのは他の多くの職業と同じで、中にはかなり世の中に不適応な者や、どう考えても頭の出来がよくない者も混じっている。
 はた迷惑なのは、たまにヘンな奴がいて、常識から大きくズレた思想や意見を述べることがあるが、それがいかがわしい宗教団体やマスコミの主張に取り上げられ、いかにも学者全体の意見であるかのように喧伝されることである。なまじステイタスが高いため、不出来な構成員の利用価値まで高くなるという、不思議で逆説的な世界なのである。(p.94)


確かに、日本会議系の「大学の先生」にはまさにこのことが当てはまる。さすがに学者全体の意見であるとは受け取られないだろうが、右派系のメディアでは人数の割に登場頻度がやたら高いようで、こうしたことにより彼らと同じような意見の研究者がそれなりの数いるかのごとく錯覚されてしまう。



 国立大学などでは、教授、助教授、講師といった縦割りの身分組織である講座制をとっているところが多いため、教授の一言がなければどうすることもできない。(p.95)


講座制にもいろいろな種類があるようだが、どの程度の割合の大学で講座制がとられているのかを知りたい。また、国立と公立、私立でどのように相違があるかということも。

本書で展開される研究者に対する批判の多くはデータや調査結果に基づくものではなく、筆者の個人的な経験や見聞に基づくものでしかないように思われ、自分自身の主張に対してもっと批判的であるべきではないかと指摘しておきたい。


阿部謹也 『北の街にて ある歴史家の原点』(その2)

その当時はソヴィエト・ロシアとポーランドに分かれて支配されていた旧プロイセンの歴史を研究するにはソヴィエトとポーランドの学会と協力して行うしか方法はないのだが、その方法をめぐって対立していたのである。特に歴史教科書の編纂をポーランドと協力して行うか、ドイツ人だけで行うかという問題であり、その際にポーランド人と協力して行うことに異論はなかったのであるが、どのような形で協力し合うかが議論の的であった。
 私は日本の歴史教科書の編纂に際して朝鮮人や韓国人、中国人と協力し合うという発想が全くないことを知っていたので、この議論に深い関心を持っていた。(p.114)


1970~71年頃のドイツでの議論。確かに歴史教科書の編纂に関係する国における歴史研究の成果をも取り込んでいくという発想はあった方が良い。

日本の場合、韓国や中国の歴史観には排外的な国家主義の要素が政府の政治的な正当性を主張するために喧伝された要素が多く含まれている点に懸念がないわけではない。ただ、日本でもそうした歴史観と同レベル化それより劣るような復古主義的反動主義者(「保守」と自称することが多い極右的な歴史修正主義者)たちの歴史観が次第に台頭してきているため、相互に反発を生じさせやすい状況となっている点に問題を感じる。



中世の学校は市民や敬虔な人々の寄進によって成立したものが多かったが、そこには規律などはなく、優れた教師がいるところには多くの学生が集まったが、その教師がいなくなれば学生の姿も見えなくなった。学生の数が多くなるとひとつの町では全員を養育できなくなり、問題となったのである。(p.246)


横尾壮英『中世大学都市への旅』によるとヨーロッパ中世初期の大学は、土地も建物もない人間だけの大学であったという。



エリートの学問は基本的に禁欲を旨として営まれ、自己の関心をひとつの分野に限定しようとする。いわゆる専門家の発生である。(p.248)


阿部謹也はここで16世紀ころからヨーロッパではエリートの文化と民衆の文化とが分かれて行くとしており、その上でエリートの学問を禁欲的だと述べている。エリート文化と自己抑制・自律は、確かに親和的かも知れない。この指摘が面白いので記録しておく。



安丸良夫による解説より。

 時代はちょうど戦後史学史の大きな画期、社会史のはじまりにあたっていた。この時代に社会史を代表した研究者は、日本史では網野善彦さん、西洋史では阿部さん、ともに中世史を専門とする異端の歴史研究者だった。近代を実態としても到達すべき目標として理念化する幻想が崩れたとき、網野さんや阿部さんの中世史研究は、近代を相対化して、さまざまの問題を根源から考え直すためのさまざまな手がかりを提示しているように受けとめられた。(p.296)


なるほど。


阿部謹也 『北の街にて ある歴史家の原点』(その1)

東京の人は自分の育った環境が普遍的だと思いかねない傾向があるが、そのことに気づいたのもこの地にきてからのことであった。
 しかし挨拶で「おばんでございます」ととっさにでてこなかったので、ある老婦人から「『こんばんは』などといわれると冷や水をあびせられたような気がする」といわれ、困ったことがあった。何でもないことのようであるが、北海道に住んでいると日本の社会がゆがんでいることが時によく解った。(p.39)


このあたりの感覚はよく分かる。



 小樽にきて一年経たない内に東京にいたときとは日本の社会を見る目がちがってくることに気づかされたのである。(p.40)


地方から社会を見るのと政治経済文化などの中心地から見るのでは、見えるものは異なる。北海道や沖縄のような旧植民地から見るとき、その差異は特に大きいだろう。



 小樽港を見下ろす高台にある小樽商科大学は、明治43年に小樽高等商業学校として創立され、昭和24年に全国86の新制大学と共に小樽商科大学として設置された沿革を持っている。単科の国立商科大学は現在にいたるまで他になく、かつては仙台以北に人文・社会系の大学がなかったために俊秀が多数集まったところであった。戦前の小林多喜二や伊藤整はいうまでもなく、戦後も特に一橋大学と関係が深かったために多くの著名人が訪れていた。戦前には三浦新七教授や福田徳三教授も講義をしているし、戦後は上原専六、大塚久雄、大塚金之助、中山伊知郎、高島善哉、山根銀二などの諸氏が講義をしている。
 全国の高等商業学校がそうであったように、西欧的合理主義をわが国の商慣行に取り入れようとする目的で創られたのが高等商業学校であったから、学生たちもモダンで、自由の気風にあふれていた。大正14年10月のいわゆる軍事教練反対事件はその良い例であろう。(p.60)


確かに仙台以北には長らく文系の大学や高等教育機関はなかった。東北帝国大学に文系の学部(法文学部)ができたのは大正11年だったが、経済学部は昭和24年になってからであり、北大に文系の学部ができたのは昭和22年のことである。

高商の学生たちがモダンだったというのは、なるほどと思わされる。軍事教練反対事件については、このブログでも『小樽の反逆 小樽高商軍事教練事件』『早稲田大学小史』に言及がある。



あたかも1969年に始まって日本全国を席巻した大学紛争がどこでもこの寮の負担区分問題から出発していたことは象徴的であった。しかも東大や日大などから始まったいわゆる学園闘争は、まさに高度経済成長の中で起こったのである。特に私立学校で学科増設と定員増がすすめられ、特に理工系学生の増加がはかられていた、いわば高度経済成長に合わせて、私学を中心として学生定員が増加し、そのために教育条件が急速に悪化していったことを背景としていたのである。(p.67)


1968年に象徴されるような全世界規模での学生たちの異議申し立ての背景については、待鳥聡史が『代議制民主主義』で指摘しているように、戦後生まれのベビーブーム世代が大学生となり、それ以前の世代が築いてきた代議制民主主義に対する懐疑が要因だという見方がある程度説得的だと考えているが、ここで阿部謹也が言及していることも、関連はあるのかも知れない。他国の状況なども見て妥当性を判断したい。



北海道 『北海道の古建築と街並み』

 「えぞ地」が「北海道」と改称された明治初年、本道の町まちは、石置き屋根一色であった。……(中略)……。
 石置き屋根は、江戸末期には、東北・北陸の日本海沿岸地帯に、とくに広く存在した。本道の石置き屋根の母型は、これらの地方の民家にある。本道と同地方との交流の歴史関係から見て不思議のない話だが、明治改元前後の本道の住民の多くは、こうした家屋形式しか知らなかった。大工の大半もまた、これ以外の家屋形態を造る技術をもってなかった。つまり、当時の北海道が、裏日本の経済、生活文化、建築技術の支配圏下にあったことから生ずる、当然の姿であった。(p.29)


確かに明治初期の北海道の民家には石置き屋根が多い。これも東北や北陸に由来するものだったと分かったのは収穫。ここにも当時の一般の移民は東北や北陸から来た者が多かったことが反映している。



 函館・札幌両都市の建築洋風化方向は、対照的である。函館のそれは商館を主体とする民間主導型とすれば、札幌は開拓使関係施設に限定された官庁主導型である。函館が在野建築家による設計であるのに対して、札幌は官僚建築家の設計である。函館の作品のスタイルは、和洋折衷を基調とし、他地域の擬洋風建築と共通感覚のものが多い。これに対して札幌のそれは、米国木造建築様式を祖型とするものにほぼ統一され、同時期の道外他都市に例をみない、高い純度をもつ。また、函館では防火建築への強い志向がみられ、レンガ造、石造、土蔵造でカワラ葺きの建物が相当数出現する。これに反し札幌では、木造マサ葺きの構造形態から脱却できず、防火に対する配慮が希薄であった、という対照も見逃せない。(p.30)


この比較対象は興味深い。いずれも両都市の歴史的特質から説明できるように思われる。函館は幕末の開港地として他地域に先駆けて洋風化の条件を持っていた地域であるだけでなく、それ以前からある程度の人口があった。これに対し、札幌は開拓使が置かれてから開かれたのに近く、明治初年の人口はごく限られたものだった。それぞれの地域の民と官との力関係を見れば、民の力が大きい上に行政の中心でもない函館と民の力が小さい上に行政の中心とされた札幌という対比が見出せるが、そのことが建築にも素直に反映している。また、防火への志向の違いも、函館は地形的な要因(風の強さなど)もあるが都市内部の家屋の密度が高かったのに対して、札幌は明治期には密度が低かったということが反映していると考えられる。

もしかすると、北海道の沿岸都市と内陸都市に同じような対比がみられるかもしれない。この視点から比較してみると面白そうである。今後の研究課題のひとつとしたい。



 本道が板ガラス使用の先進地であった、という意外な事実がある。寒冷な気象条件を克服する好適な建築材料として、明治20年代から、紙障子や板戸を駆逐して、民間建築にも積極的に使用され、その外観を大きく変えてゆく。ストーブの導入に伴う煙突の付設も、本道以外の民家では見ることのできない外形要素である。板ガラスの使用と並び、道内建築にユニークな印象を与えてゆく。
 こうして北海道の建築風景は、道外のそれとはまったく別個の風趣をもつものに、変貌する。(p.30)


板ガラス使用の先進地というのは気付かなかった。確かに明治39年竣工の旧日本郵船小樽支店ともなると二重ガラスが採用されるなど、防寒対策がかなり進んでいたことが見て取れるが、それは20年代からの蓄積の上に出て来たものと言えるのかもしれない。

道外の建築風景とは異なるものとなったという指摘は、先に引用した石置き屋根の家屋が東北や北陸の影響下にあったのに対して、そうした影響から脱して独自のスタイルを形成したということを意味する。これは明治30年前後のことと見てよいだろう。



 明治30年代後半期はまた、北海道経済の中央従属化が顕著となった変革期でもある。同時にそれは、“北海道建築”が中央建築体制の一環に組み込まれたことも意味する。建築における中央との同質化傾向が、この時期以後助長されてゆく。中央の金融・産業資本の本道進出に伴って、中央の建築家の作品が道内に出現する。その結果、第1期、第2期の都市景観が、どちらかといえば対照的に、この時期以後のそれは、すこぶる多彩となってゆく。(p.30)


確かに先ほど言及した旧日本郵船小樽支店も佐立七次郎により設計されたものであったし、明治45年竣工の日銀旧小樽支店も辰野金吾や長野宇平治などが設計している。こう見て来ると確かに中央の建築家が進出してきたというのは、面白い見方である。

ただ、明治初期の北海道で活躍した建築家としては、豊平館を設計した安達喜幸などが想起されるが、彼は江戸出身であり、工部省から開拓使に配属された。安達は開拓使に所属していたことから、あまり道外から来たイメージでは語られないが、もともとは道外から来た人でもある。その意味では函館と札幌の対比が先ほどなされていたが、札幌の系譜は基本的に道外からの技術がもともと基本となっていたという見方もできるのではないか

とはいえ、(明治初期からの)政府によるものか(明治30年代後半からの)資本の進出に伴うものかという違いは残るかもしれない。



 函館、小樽のこうした都市景観は、道内としてはむしろ例外ともいうべきものである。他都市のそれは、札幌を含めて、木造建築の世界である。(p.31)


函館と小樽は大正期からは鉄筋コンクリート造などの不燃造建築が多く建てられたが、他の都市は木造建築が主体のままだったという指摘。



 当時は、鉄筋コンクリート造の黎明期で、多様な構造が存在した。そのため、銀座街には、こんにち存在しない構法の建築が多数建てられ、その一部が現存する。つまり銀座街は、“鉄筋コンクリート造歴史館”の感があり、貴重だ。(p.226)


函館における大正10年の大火後のこと。本書は1979年のものであるが、ここで指摘された「鉄筋コンクリート造歴史館」という状況は現在にも当てはまるのかどうか気になるところである。


俵義文 『日本会議の全貌 知られざる巨大組織の実態』

右翼団体の要求を連携する国会議員が取り上げ、それが国の政策として実現されるという恐ろしい構図がつくられているのである。(p.99)


確かに日本会議のような無茶苦茶な主張をする団体の要求が政策として実現されるルートが存在することは極めて憂慮すべきことだが、本書に足りないのは、このような手法を使う日本会議の勢力に対してどのように対抗していくべきかという実践的な見立てがないことであり、そもそも、そうした姿勢が希薄であると感じられる。

国会議員と連携して自らの主張を通していこうとすることやロビー活動をすること自体は代議制民主主義のルールとしては何ら問題のない行為ではないか。問題のある主張を通させないようにする方法やそれに反対する勢力をどのようにして政治力として動員していくのかということを左派やリベラルには考えて欲しい。むしろ、日本会議が「成功」した方法を昔の左翼から学んだのと同じように、日本会議の方法の「良いところ」を取り込んでいくような姿勢が必要ではないかと思うのである。


山谷正 『さっぽろ歴史なんでも探見』

 北海道に玉葱が入ってきたのは明治4年(1871)、開拓使がアメリカから輸入した種子を札幌官園(現在の北区北6条西6丁目付近)で試作したのが始まりで、その後札幌村でも小規模の玉葱栽培が行われるようになった。(p.85-86)


北海道ではなく日本全体で見た場合の玉葱の導入はどうだったのだろう?

西洋野菜の日本における普及は、食文化の歴史的展開を見る上で興味深いテーマだと思っているが、なかなかこうしたテーマを掘り下げて語ってくれる本がないのが残念である。



 昭和17年(1942)、当時の軍が農地約250㌶を買い上げ、学生や市民と強制連行の朝鮮人労働者を使って陸軍飛行場として建設させたものだ。そのため、太平洋戦争末期には米軍飛来機の攻撃目標にされ、爆撃をうけたこともあった。(p.89)


札幌の丘珠空港についての記述。軍事に関わると攻撃を受ける。広島や長崎が原爆投下の対象となったのも同じ理由が含まれていることは忘れてはならない。



 この建物は大正以降に流行したマンサード屋根を使った洋風住宅の先駆けとなったもので、大正2年(1913)に現在の北区北12条西3丁目に建てられた。(p.135-136)


現在は芸術の森に移築された有島武郎の邸宅についての既述。マンサード屋根が大正以降に流行した理由はなぜだろうか?

この時期のマンサード屋根と言えば、明治39年の旧日本郵船小樽支店が想起されるが、この建物はその近くに建つ建物に強い影響を与えたようで、いろいろな建物がマンサード屋根になっている。また、明治42年の古河記念講堂もマンサード屋根である。このように北海道の明治末期には、マンサード屋根がある程度使われ始めていた。大正期という中間層が育ってきて生活が洋風化していった時期に、個人邸宅にも使われるようになったということだろうか?



 しかし、簾舞地区の本格的な開拓は、明治21年(1888)に旧札幌農学校第四農場が開設された時に始まる。(p.139)


第四農場が南区にあったのは何かで読んだことがあるが、簾舞地区だったのか。跡地は現在、何になっているのだろう?



 昭和30年(1955)に旧琴似町と篠路村が札幌市に合併されたが、この頃から新琴似、屯田、篠路地区の市街化が進み、それまでの農業や酪農地が次第に姿を消していった。(p.150)


第二次大戦後の復興から立ち直り、高度成長へと移る頃、札幌が大きく変わっていったことが分かる。札幌の発展と反比例するかのように小樽の斜陽化が進む。これは一体の現象であろう。



 かつて帝国製麻琴似製線工場があり、麻布の生産が行われていた麻生、亜麻事業の名残が町名になっている。
 昭和53年(1978)、地下鉄南北線(北24条~麻生)が開通してからは急速な発展をとげ、麻生駅周辺は一大商店街となった。(p.163)


麻生の地名は確かにアイヌ語っぽくないが、その土地で行われていた産業が「そのまま」地名になるのが面白い。


権丈善一 『ちょっと気になる社会保障 知識補給増補版』(その2)

 また、政府規模の国際比較で押さえておいてもらいたいことは、図表54のように、基礎的なインフラが整備された後は、政府の規模を大きくしていくのは社会保障になるということです。
 これは動かしがたい事実でして、結局、小さな政府なのか、大きな政府なのかは、「貢献度」に基づいて市場が分配した所得を「必要度」に応じて分配し直している度合いが小さいか、大きいか、家計における人々への必要の充足を個々の家計の責任に強く求めるかどうかできまっているわけです。そして日本は、社会保障が小さいだけではなく、少し信じられないかもしれませんが、社会保障以外の政府支出も小さな国であるわけです。
 こう言うと、「だって公務員が多くて、ムダ遣いしているという話が多いじゃないか」という話になります。そこで、国際比較ができる形にOECDがまとめたデータを見れば、日本の「労働力人口に占める公務員の割合」は、図表55の一番右、すなわち最も少ないことが分かります。このあたりのことを詳しく分析した本として、前田健太郎東大准教授が2014年に上梓された『市民を雇わない国家――日本が公務員の少ない国へと至った道』などがあります。(p.124-125)


ここに書かれている基本的な事実は、私としてはほぼ「何を今さら分かりきったことを…」といった内容だが、社会保障や財政に関する問題が政治利用されており、厖大な「印象操作」が行われているため、あまりまともにこうした問題を調べたことがない人にはこうしたことをきちんと伝えなければならない状況となっている。

なお、『市民を雇わない国家』は面白そうなので読んでみようと思う。



そして厚生年金の適用拡大は、基礎年金全体の給付水準の引上げにも寄与することが、2014年(平成26年)の財政検証で明らかにされました。その理由は、厚生年金の適用拡大が進むと、数が減った第1号被保険者1人当たりの国民年金積立金が増えるからです。(p.153)


なるほど。厚労省が適用拡大に向けて動こうとしている気配があるのはこうした理由があるからだったのか。政府の動きはいろいろと胡散臭いものが多いが、この動きは推進してよい方向と見ておく。



 民主主義社会においては、そうした合理的に無知であることを選択した有権者の耳目にまで情報を運ぶコストを負担できる者、すなわちキャンペーンコストを負担することができる者が多数決という決定のあり方を支配できる権力を持つことができます。そしてキャンペーンを通じて有権者の耳目まで情報を伝達するコストの負担は財力に強く依存します。資本主義社会の下で財力を持つ集団は経済界ですから、民主主義というのは、経済界が権力を持ちやすく、そこでなされる政策形成は経済界に有利な方向にバイアスを持つことになるという民主主義の特徴を、僕は「資本主義的民主主義」と呼んできました。(p.181-182)


様々な政府による規制を緩和したり、資本移動のグローバル化を進めると、こうした経済的に豊かなアクターたちはより一層有利な条件を獲得できる。すなわち、デモクラシーの方法に基づいて権力を自己の利益のために利用できる度合いが高まる。これにより中間層以下の人々の生活は苦しくなるが、政府はこうした人びとの役には立たない。こうして「現在の政治体制」への不満が高まることで、ポピュリズムないし極右ポピュリズム政党の台頭(ヨーロッパ、アメリカ、日本など)をもたらしている。



もし、余命幾ばくと宣言されていない人が、当面の生活費を工面する方法があるのならば、可能な限り遅く受けとりはじめることをお勧めします。70歳で受給しはじめる年金は、60歳で受給できる年金額の約2倍になり、それを亡くなるまで受け取ることができるわけです。(p.188)


年金受給開始年齢をどう考えるかという問題について参考になった。年金が保険であることについて理解しておく必要がある。



 年金受給権のある人には、そのいくぶんかは生活保護の補足性の原理から外すということである。現在の生活保護制度のもとでは、年金収入があればその分は保護費が減らされる。結局、未納者と同じ生活水準となり、過去において保険料を納付したり免除手続きをとったりしてきた意味がなくなってしまう。(p.221)


なるほど。興味深いアイディア。ただ、生活保護の最低生活費は(世帯の人数にもよるが)水準が高すぎるので、その水準を少し削った上で基礎年金満額受給者の生活費は現行の最低生活費を若干上回るといったような設計が良いのではないかと思う。