アヴェスターにはこう書いている?
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前田健太郎 『市民を雇わない国家 日本が公務員の少ない国へと至った道』(その1)

 他方、日本の公務員数が少ないという認識を共有する論者の間でしばしば見られるのが、その理由を公共部門が他国よりも効率的に運営されていることに求める議論である。……(中略)……。しかし、本書はこの見解には与しない。第1章で詳しく述べ得るように、公務員数が少ないことは、公務員ではない主体が公共サービスの供給を担っていることを示すものではあっても、公共部門が効率的に運営されていることを示すものではないからである。(p.3-4)


なるほど。ここで略した部分で批判されている稲継紙の著書は私もかつて読んでおり、日本の公務員数は少ないが効率性は高いという議論にそうだったのか、と当時は思った覚えがある。

本書の批判は正しいと思うが、本書では、公務員と公務員以外の主体を合わせた広義の公務員数で比較しても他国より日本は公務員数が少ないことが指摘されている。公共サービスの供給量自体が測定できれば(あるいは代理指標となるものがあれば)効率性が割り出せるのだが、そうした方法はあるのだろうか。「公共サービスの総供給量/(広義の公務員数×サービス残業込みの一人当たり総労働時間)」を比較すれば効率性を一応出すことができるように思う。行政の効率性を改善すべきなのかそれほど必要性がないのかという点には興味があるので、この点は是非知りたいところである。



ただし、1980年代の新自由主義的改革を政策理念の産物として理解する見方に対しては、Prasad(2006,20-21)による強力な反論がある。すなわち、新自由主義の理念を掲げる政治勢力が影響力を行使しえたのは、それに先立って既に政権を獲得していたためであって、思想それ自体が独立に影響を及ぼしたわけではないというのがその主張である。(p.12)


なるほど。確かに。「政権を獲得したということは民意が反映しているはずだ」と推論したがる人もいるかもしれないが、政権を獲得しているかどうかは「選択のためのルールに従った結果」ではあっても、もともと投票していた人々が持っていた思いを反映しているとは言えないのだから、余り単純にそのように言うことはできない(※)。そう考えると、新自由主義の思想自体が政策に影響を与えたとは単純に言えない。

(※)かつてのドイツにおけるナチスも、投票した人は少ないし、投票した人もユダヤ人虐殺を支持していたわけではない。現在の日本でも安倍政権が5年にわたり続いているが、選択のためのルールを都合の良いように使い――創価学会などの組織票の土台がある中での小選挙区制という極めて自公にとって有利な選挙制度の下で恣意的に解散を繰り返している――、また、メディアによる批判も封殺されるように働きかけられていることなどが作用している結果として安倍政権が残っているだけのことであって、それほど強い支持を得ているわけではない。



20世紀のアメリカ連邦政府における機構改革の試みを包括的に調査したジェームズ・G.マーチとヨハン・P.オルセンによれば、改革提言によって業務の効率化などの実質的な成果が出たことはほとんどない。行政改革を実施すべきだという「適切性の論理」が関係者に共有されても、行政改革によって達成すべき成果が何であるのかを示す「結果の論理」は必ずしも共有されないからである。従って、短期的に見れば、そうした行政改革の試みは政治指導者の意欲を表現するための文化的な儀式に過ぎないのである(March and Olsen 1989,69-94)。(p.15)


なるほど。ただ、政府が発信する言論の影響力は考慮に入れるべきかも知れない。




齋藤尚文 『鈴木商店と台湾 樟脳・砂糖をめぐる人と事業』

また昭和9年末に完成した日月潭水力発電所によって、安価で安定的な電力供給が可能となると、高雄港一帯が「台湾工業化」の拠点として開発される兆しが見え始めた。昭和11年に日本アルミニウム株式会社の高雄工場が操業を開始したのはその先駆けである。さらに昭和12年の日中戦争開始をきっかけに、総督府の「台湾工業化」政策の方針が整備されると、南日本化学(高雄)・旭電化(高雄)・東邦金属(花蓮)・台湾セメント(高雄)・台湾化成(台北・蘇澳)などが設立され、高雄を中心として台湾全域に及ぶ工業化が一挙に進展した。(p.267-268)


日月潭水力発電所と高雄が工業化の拠点となることの繋がり、日中戦争と台湾工業化政策との繋がり、こうした動きは台湾の歴史を考える上でも重要な変化であると思われる。

なお、日本の右派が日本による台湾統治は台湾にインフラを残してやったかのごとく(良いことをしたと)発言することがあるが、統治者側が都合の良いように動いた結果として工業的なインフラなども残ったというに過ぎないということは銘記すべきだろう。

日本アルミニウムという会社はこの時代の台湾を調べるとしばしば目にする。この会社についてももう少し詳しく知りたいところである。


赤江達也 『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』

 神戸中学校の校風は忠雄に大きな影響を与えた。創立以来の校長・鶴崎久米一は、クラーク博士が教育の基礎を築いた札幌農学校の二期生で、内村鑑三、新渡戸稲造と同級生であった。鶴崎校長の指導によって、神戸中学校には「質素剛健」「自重自治」をモットーとする校風ができあがっていた。「自重自治」とは、クラーク博士が一期生に説いた「紳士たれ」という教えを意味していた(二期生が入学したときには、クラーク博士はすでに帰国していた)。(p.6)


矢内原は札幌農学校の二期生と縁が深いが、中学校時代から既に縁があったとは興味深い。また、札幌農学校をはじめとする明治初期の高等教育機関の卒業者は、官僚になる以外には教育者としての役割が大きかったと考えられるが、そうした社会の傾向も垣間見えて興味深い。



新渡戸の植民政策講義には、元植民地官僚らしい実際的なところがあった。だが、その基調にはリベラルで人道主義的な立場があり、台湾の原住民討伐について語るときには講壇を拳でたたき、激しい怒りをあらわにした。矢内原が四年生のときに取った講義ノートの結論部には、「植民は文明の伝播である」という新渡戸の言葉が記されている。(p.26)


東京帝大での講義。新渡戸の植民政策学の講義がどのようなものだったのか興味がある。できるものなら私自身がその講義を聴いてみたい。「植民は文明の伝播」というのは、なかなか含蓄がある言葉であるように思われる。いろいろな意味で解釈しようと思えばできる。新渡戸はどのような意味でこれを語ったのか知りたい。



 だが、『帝国主義下の台湾』は台湾の青年読者から熱烈に支持された。この書物は刊行後すぐに台湾総督府によって台湾への持ち込みが禁止される。そのため、内地へとやってきた台湾人の留学生たちはこの本をむさぼり読んだといわれる。
 台湾の青年たちから強く支持された理由としては、矢内原が台湾議会設置請願運動に共感的であったこと、長期的には植民地の独立を支持していたことが挙げられる。しかし、より重要なのは、台湾の資本主義化を論じる『帝国主義下の台湾』の議論が「台湾」という想像的な共同性とその発展の可能性を示唆していたことにある。
 日本統治下の台湾では、議会設置による自治の推進か、あるいは中国への祖国復帰かといった複数の選択肢のなかで、「台湾」という共同性への想像力が生じつつあった。『帝国主義下の台湾』は、そのような「台湾」の想像力と共鳴し、それを触発する役割を果たしたのである。(p.74-75)


日本統治下で「台湾」という想像的な共同性についての意識が芽生えたということはしばしば指摘されるが、矢内原のあの名著もそうした想像力と共鳴し合っていたというのは、なるほどと思わされた。



 岩波茂雄は矢内原の言論活動を高く評価していた。そして、矢内原が大学を辞めた直後には、その自宅を訪れて金一封を置いていった。岩波は矢内原事件の際に発禁となった『民族と平和』の発行人であったため、警視庁や検事局に呼び出されている。しかし、そうした言論統制のなかでも、岩波は矢内原に執筆を依頼しつづけた。その象徴が岩波新書である。
 1938年11月、岩波書店は、岩波新書のシリーズを立ち上げる。これはその当時イギリスで流行していたペリカン・ブックスを参考にしたもので、日本における「新書」の判型のはじまりとなる。その岩波新書の第一冊目・第二冊目として選ばれたのが、矢内原の翻訳によるクリスティーの『奉天三十年』(上・下)であった。この本は、奉天(瀋陽)で活動したスコットランド人伝道医師の自伝である。そのような本を矢内原の翻訳で出版することは、矢内原への支持と時局への抵抗を意味していた。(p.145)


興味深いエピソードであるだけでなく、新書というものがどのようにして生まれたのか、どのような意味があったのか、ということも考えさせられる。そして、それは現在の新書がどのような役割を果たすべきかということまでも考えさせてくれる。



 矢内原は戦中に大学を離れていたこともあり、学問上の弟子は少ない。ただ、戦後の東京大学には、南原のほかにも、大塚久雄、西村秀夫、藤田若雄、前田護郎といった無教会キリスト者の人脈が広がっており、学生たちにキリスト教的な感化をおよぼしている。とくに大塚史学で知られる大塚久雄の存在は、南原・矢内原とともに戦後の知的世界における無教会キリスト教の名声を大いに高めることになる。(p.209)


大塚久雄は無教会派だったのか。知らなかった。矢内原と大塚にはどのような接点や関係があったのかが気になる。


社会思想史学会年報 『社会思想史研究 №22 1998 シンポジウム:社会システムの現状と問題点』(その2)
細見博志 「マックス・ウェーバーと価値判断論争」より。

 反講壇社会主義者は、自らはあらゆる価値判断を排除して、経済学を浄化すると主張しているが、ウェーバーによれば似非価値自由論者であり、一見中立的な装いのもとで密かに大資本の利益を代弁しており、それによって甘い汁を吸っているのだ、というのである。「懲罰教授」や「迎合教授」の存在をみれば、そのような疑いは色濃く残っている。しかしここでは彼らに対するウェーバーの非難の当否はひとまずおいて、事実として確認すべきは、反講壇社会主義者は、存在と当為を峻別し、その上で経済学からあらゆる当為を放逐せよ、と主張したということである。その放逐すべき当為とは、なかんづく講壇社会主義者の説く労働者保護政策である。しかし経済学が実践的学問である限り、やはり当為は不可欠である。その当為は、反講壇社会主義者の場合、「事実をして語らしめる」という彼らのお気に入りのスローガンの通り、まさに存在から導出されたのである。しかしながらそのようにして導出された彼らの当為には、反社会政策という一定の方向性が常について回っていた。「事実をして語らしめる」とは、事実の選択、その因果付けの方向、に聞くものをして意識せしめない誘導がなされている。とすれば、政治のレトリックとして、極めて有効で洗練された技法であるが、知的に誠実な学問の方法ではない、とウェーバーなら言うところである。(p.68-69)


価値判断論争に関する論争の背景についてこの論文で論じられているということを知り、この論文を読もうと思い、この雑誌を手に取ったのだが期待通り興味深い事実がわかった。ウェーバーとシュモラーらの社会政策学会内での論争の背景には、社会政策学会外に社会政策を否定しようとする反講壇社会主義者(その背後には産業資本)がおり、彼らは価値自由論を誤用することでその主張を正当化しようとしていた。ウェーバーの方法論を読むときには、単に相手方のシュモラーらだけでなく、反講壇社会主義者にも配慮しながら書かれたことも念頭に置く必要がある。

また、当時と同じ論法を使うかどうかは別として、経済政策について発言する学者やエコノミストなる者たちの中には、ウェーバーの時代の反講壇社会主義者と同様、大資本の利益を代弁し、甘い汁を吸っているような輩も多い(メディアへの露出のチャンスも多い)ということは念頭に置く必要があり、彼らの使う「知的に不誠実な政治的なレトリック」には常に注意が必要であろう。



渡辺孝次 「マルクス・エンゲルスとマイノリティの論理」より。

 近年、マイノリティ研究がさかんである。そのことは、近代をもっぱら自由と解放の時代と見る単純な「進歩史観」から脱し、近代こそある意味で抑圧が強化された時代であったとする、近代再考の動きと関係が深い。近代に解放されたのは、結局のところマジョリティにほかならず、それまで容認されていたマイノリティの権利は、かえって制限されていったとする認識において、両者はあい通ずる。(p.134)



私としてはあまり近代を「解放の時代」とは考えていなかったが、私より少し上の世代にはこのようなイメージで近代が捉えられていたのだということに久しぶりに思い至った。本書は1998年に出ているが、この頃にはまだ80年代や70年代以前の感覚を持った人がそれなりの数活動しており、その時代の考え方も参照しながら批判していくような作業がされたと思われるが、それから約20年も経過すると、ここで言う「近代再考」により修正されてきた「近代観」が常識になってきたのかな、という気がする。



藤野寛 「ユダヤ人問題との関連においてみられたホルクハイマー/アドルノの「非同一的なもの」概念」より。

一方の解釈では、ユダヤ人は、近代化過程に必死でしがみついている者たちから、あたかも啓蒙的近代の艱難辛苦から自由であるかのような存在として恨みを買う、とされるのに対し、他方では、その同じユダヤ人が近代化過程の成功者、成り上がり者とみなされ、そこから落ちこぼれた者たちに妬まれる、という話になるのである。ほとんど正反対の議論が二つながらまかり通っている、というしかなく、『啓蒙の弁証法』も、その両方に目配りすることを忘れていない。
 この事態は何を物語っているのか。要するに、反ユダヤ主義者にとっては、ユダヤ人が何者であるのかは、実は問題ではない、ということである。反ユダヤ主義の根は、ユダヤ人の側にあるのではなく、反ユダヤ主義者の側にこそ見出されるものなのだ。反ユダヤ主義は「ユダヤ人を必要としている。(215)」そして、このメカニズムに光をあてるのが「投影」についての分析に他ならない。(p.184)


これは反ユダヤ主義だけでなく、恐らくほとんどあらゆる人種差別及びそれに類する差別に当てはまると思われる。現代日本においてこれに類するものとしては、在日コリアンらへの排外主義的な差別や中国や韓国の人々に対するネトウヨ的な嫌悪などを挙げることができよう。そうだとすれば、差別や嫌悪の対象となっている人々が問題なのではなく、差別や嫌悪を表明している側に問題があるのである。



齋藤哲郎 「ネオ・マルクス主義と台湾」より。

 やがて、85年8月にレーガン大統領が台湾に民主化を勧告し、87年7月15日、戒厳令が正式に解除され、11月には中国大陸への親族訪問が許可され、さらに、蒋経国死去による李登輝総統時代の開幕(88年1月)以降、いわゆる政治的民主化・自由化が進み、表現の自由も大幅に許容され、学術・思想の分野も様変わりした。注目すべきことは、多くの台湾知識人や青年が、解禁されたマルクス主義出版物を貪るように渉猟し始めたことである。マルクス主義は、サルトルやウェーバーと同様に、台湾の知的ブームの一つになったのである。(p.201-202)


日本でも60年代頃はウェーバーや実存主義が流行した時期があったが、この思潮は台湾でも同様に流行していたということか。マルクス主義が90年代台湾で知的ブームになったことについては正直あまり驚きはないが、ウェーバーやサルトルが台湾でどの程度、また、どのように読まれたのかというのは興味が惹かれる。



安川寿之輔 「白井厚編著 『大学とアジア太平洋戦争――戦争史研究と体験の歴史化』」より(書評)。

「初めから国家目的に従属」していた戦前日本の大学が(だからこそ)専門教育・職業教育に偏向し、侵略戦争の進行に傍観者的で無力な知識人の形成しかできなかったという反省から、新制大学は、一般教育を大学教育の「根幹的意義を有する」中核に位置づけることを目ざし、その「成否こそ、新制大学の運命を決するカギ」と考えた。90年代の大学「改革」は、その一般教育を縮小・解体する歴史邸な誤りの道を歩んでいる。(p.228)


この見方は参考になる。この本も手に取ってみたい。


社会思想史学会年報 『社会思想史研究 №22 1998 シンポジウム:社会システムの現状と問題点』(その1)
佐藤康邦 「システム概念の可能性について」より

ルーマンの社会システム論が依拠する「環境の複雑性の縮減」の原則は、環境への適応、自然選択に関するネオ・ダーウィニズム的発想をサイバネティックス的に言い換えたものとみなせましょうが(ルーマンがシステムの歴史に「進化論」という概念を当てはめていることは、それを裏書きする)、それは、環境を、ただその複雑性を縮減させる対象に過ぎないものに切り下げてしまうことによって、著しく貧困化する結果をもたらしたと言うべきであります。(p.26)


確かにシステムが自己準拠的に境界を区切っていくことでシステムとして立ち上がっていくとき、環境は「非システム」としてしか捉えられない。環境をそれ自体として捉えていこうとする発想には繋がらない。というか、そうした発想を拒否する所から出発していると言ってもよいのかも知れない。



水島茂樹 「ふたたび社会に経済を埋め込む」より

平等な人間から構成される透明な世界であるという市場の特性は、長所である反面、資本主義からの圧力に容易に屈服させられてしまう弱点ともなる。理想的な市場概念に近い町の市にさえ、資本主義が、市場の透明性や公正なルール、競争をかいくぐって入り込み、情報の独占や巨大資本に基づく特権的地位を利用して高利潤を上げることが稀ではないとブローデルは注意している。この曖昧さもまた市場と資本主義の混同を容易にすることになる。この曖昧な関係が捉えられず、市場と資本主義が唯一同一の現実と見なされるため、経済的自由主義の説得力が高まると上で指摘したが、マルクス主義は逆の方向でこの関係を捉え損ない、資本主義の悪を市場に直接投影してしまった。悪=資本主義と戦うためには、その根っこにある市場を廃棄しなければならないという、悲惨な結果を引き起こしたボルシェビズムの認識はこの混同に由来するのである。(p.51)


ブローデルの市場と資本主義の概念は非常に役立つ見方である。リバタリアニズムや新自由主義のような発想は、「市場」の論理によって人々を説得するが、「資本主義」の動きを捉え損なわせるミスリーディングな(人々を誤導させる)ものである。マルクス主義とリバタリアニズムが同じ混同に基づいて議論しているという指摘は、こうした議論をする人に対して気づきを与えさせるには役立つかも知れない。



資本家は専門化しない。彼らは状況次第で、海運業者にも保険業者にも、銀行家にも産業資本家にもなる。大きな利潤が上がる分野が変化するにつれて、活動や投資の分野を容易に転換する。こうした「急旋回を切る」能力を持っていること、これが資本主義の強みなのである。(p.52)


この見方は重要。グローバルなヒト・モノ・カネの移動の自由化が進むことは、事実上、この「急旋回を切る」能力を規制することが最大級に難しくなることを意味する。この意味で、20世紀後半の人類は大きな過ちを犯したと考える。



 まず福祉国家の危機について。それは財政危機だけの問題ではない。平等化という福祉国家の目的がかなり達成されたために平等という目標が疑われるようになったこと、そして国家を媒介とした再分配を通じて間接的に社会的連帯を実現するという福祉国家の仕組み自体が自動化・自立化しすぎて個々の市民に連帯の事実が見えなくなったところに問題の根がある。したがって現在の危機を乗りこえるためには、連帯に伴う義務を国家から社会に取り戻さなければならない。こうして問題の核心に福祉国家の達成が効力の限界にぶつかっているという事実がある以上、経済的自由主義に対して福祉国家の原理を唱え続けるだけでは後ろ向きの批判にしかならないことは明らかだろう。(p.58)


90年代以後のリベラルが保守派から押されて(多少の振り子の揺り戻しを続けながら)後退を余儀なくさせられているのは、こうした福祉国家が限界にぶつかっているという現状が背景の一つである。より積極的な批判をしようとすると、反保守の立場においても違いが出てくることになり、一つにまとまることは容易ではない。この問題をどう解決していくか。


マーティン・バナール 『『黒いアテナ』批判に答える(下)』

ギリシアの数学は、宗教セクトによってではなく、タレス〔西暦紀元前625?-547? ミレトスのタレス。ギリシア自然哲学の創始者〕やアナクシマンドロス〔西暦紀元前6世紀中期の自然哲学者。世界の根源はアペイロンという無限のものだという説をとなえた〕のような「著名」人を通じてのみ発展したという彼の提案は、彼にそのつもりはなかったとしても、「合理的」ギリシアと「非合理的」オリエントの密儀という明確な対比――私は筋の通らない対比だと考える――を創り出すという結果をもたらした。(p.484)


確かに中学や高校で古代ギリシアの歴史を学んだとき、こうした「著名人」の名前が次々と列挙されていたのが想起されるが、確かに、当時の印象としてバナールがここで述べているような印象を暗黙裡に植えつけられた面はあると思う。



保守的なギリシア人、とりわけプラトンは、統一的な君主制と農業経済的な基盤をもつエジプト社会の安定性と階層性を称揚したが、ギリシアの小さい都市国家にとって(おそらくスパルタは例外だろうが)、エジプトは適切なモデルにならなかった。ギリシアの都市ポリスは小さく、その土地基盤は限られていたので、多くの場合、製造業と商業に力を入れた。したがって、彼らにとってはるかにふさわしい政治=経済のモデルは――エジプトではなくむしろ――フェニキアだった。(p.608-609)


ポリスにとっての政治経済のモデルはフェニキアの都市国家だったという点は本書で得た収穫の一つ。



古代の奴隷制社会もそれ以後の奴隷制社会も、海と関連していたが、これは偶然ではない。船による必需品の大量輸送が容易でなければ、食糧不足の専門的製造業経済の発達は不可能である。このことは、ある程度は川を基盤にした社会でも可能だが、海を基盤にした社会のほうが発達する範囲はずっと広い。動産奴隷制には海が必要である。このため、古代の奴隷制社会でも初期の資本主義でも、富裕で力を持つ者は海路を独占した。したがって、奴隷が故郷に逃亡することは不可能だった。(p.615)


動産奴隷制には海が必要という認識も本書から得た収穫の一つだった。大変興味深い指摘であり、掘り下げてみる価値もあるように思われる。



プラトンの世代から二、三世代たたないうちに、彼のもっとも早い注釈者クラントルは次のように書いている。「プラトンの同時代人は、彼の国家論は彼の創作ではなく、エジプトの制度の引き写しだと言って彼をあざけった。……(略)……」(p.640)


確かにプラトンとエジプトからの影響を認める説は昔からずっとあったようだが、このことはあまり一般には知られていないように思われる。



「民主主義」という語は1790年代末に使われるようになったが、この場合、「共和制」あるいは「代表制」という修辞語をつけてのみ使えるようになったにすぎない。アンドリュー・ジャクソン〔1767-1845〕が大統領に当選し、ギリシア賛美の機運が高まってはじめて、「民主主義」と「民主主義者」はそれ自体として使われ始めた。(p.710)


民主主義という言葉はその当時はかなりイメージが悪い言葉であったということは押さえておきたい。



一般に保守派は、彼ら自身を守るために自分たちの著述の客観性を当然視する一方で、現状に異議を申し立てる著作を「政治的」と称する傾向がある。(p.711)


現在の日本であれば、いわゆる「保守派」は、彼らに都合の悪い事実を報じるメディアに対して「偏向している」「中立でない」といった類の攻撃をすることがある。ちなみに、これらは明らかに「レッテル貼り」である。


マーティン・バナール 『『黒いアテナ』批判に答える(上)』(その2)

 啓蒙の17、18世紀からロマン主義と実証主義の19世紀へという変化は、新しい「科学的な」人種差別を強烈かつ顕著に増進させたにすぎなかった。(p.278)


19世紀に人種差別が顕著に増進されたことは、ヨーロッパ諸国の帝国主義的な支配が拡大していき、自らの優位性を信じるようになっていったことが大きな要因である。ロマン主義は自民族中心主義的な傾向があり、「民族」を実体化し、普遍の本質があると考える傾向があるため、ヨーロッパの「民族」の普遍の本質は他の有色人種たちより優れているという観念に容易に到達できるし、そうした信念が強固な場において、実証主義はそうした信念に都合の良い事実を(意識していない場合もあるが)恣意的に選びだし、それに「科学」によるお墨付きを与えることを可能にする。



 前述したポプキンのリストの最後はイマニュエル・カントである。彼の「純粋」哲学を見れば、のっぴきならない証拠がよりはっきりする。カントは論理学、形而上学、道徳哲学の講座で講義するよりも、むしろ、「人類学」の講座で講義するほうが多かった。内省的なのはヨーロッパ人だけであり、内省的でない非ヨーロッパ人は、「正確には」人間でないと彼は主張した。
 しかし、カントにとって、「劣等」人種にはそれぞれ違いがあった。彼はアメリカ先住民は教化できないと考えたが、黒人は訓練できると考えていた。ただし、「使用人としてのみ」だったが。カントにとって、打擲は訓練の一環であり、その場合、「鞭のかわりにささらの竹棒」の使用を勧めた。そうすれば、「黒人は死ぬことはないだろうが、苦痛にひどく苦しむだろう。[黒人の皮膚は厚いため、鞭でたたくくらいでは十分な苦痛を与えることにはならないからだ]。(p.294-295)


現代の人権の感覚や基準から見ると、ほとんど「狂っている」としか言いようがない酷い考え方。カントと言えば、一般には偉大な哲学者と見なされており、認識論におけるコペルニクス的転回などには歴史的に大きな意義も認められる大思想家と言いうる人物である。さらに、普遍主義的な志向の倫理学も有名であり、正・不正や善悪、公正ということを考える上でも示唆に富む議論を行った人物であった。その彼においてもここまでひどい人種差別的な観念を持ち、それを堂々と語ったというのは殆ど信じられないほどである。



まず第一に、社会科学では自明だが、「政治的」というレッテルが張られるのは、権威を支持・擁護する研究ではなく、ほとんどつねに権威に異議を申し立てる研究に限られる。(p.320)


現代日本の(主にネット上の)言説で使われる「偏向」という言葉の使われ方は、ここで指摘されているのと同様のものである。

ネット上の右派や反動政治家(いわゆる「保守」などと自称する右派系の代議士のこと)は、政府や与党に都合の悪い事実を報道したり議論したりする者に対して「偏向」しているとレッテルを貼る。しかし、「公正」とはどのようなことなのかについて、彼らは考えていないか、又は意図的に無視しており、彼らにとって「心地よい」言説上の地点が「中立」の地点だと勝手に見なしているに過ぎない。



功利主義者のジェイムズ・ミルは、ギリシア人が古代エジプトを尊敬していたことに不信と嫌悪を抱いていたが、この不信と嫌悪を強力に補強したのがゲッティンゲン学派のK・O・ミュラーであり、ミュラーは<古代モデル>の神話の扱いを批判し論破していた。ミュラーは証拠の立証に必要な条件を確立し、立証責任を<古代モデル>を批判したいと考えている人びとではなく、<古代モデル>を擁護しようとしている人びとに転嫁した。(p.386)


バナールはゲッティンゲン学派とその史料批判の考え方に対してしばしば批判するが、その理由がよく分かる箇所。実証主義的な手続き論を確立することで、客観的な事実を証明できると考えられがちだが、いかに手続きが適正であっても、証明しようとする事実の選び方が恣意的であれば妥当な結論は導かれない。より広い文脈を考慮に入れながら妥当性を競うべきだという競合的妥当性の考え方をバナールが主張するのは、こうしたゲッティンゲン学派に対する批判でもあるだろう。

広い文脈を考慮すれば、相対的に妥当性が高いのは「アーリア・モデル」ではなく「古代モデル」であり、それゆえ、「古代モデル」を否定しようとする場合の立証責任は「古代モデル」を批判する側になければならない、ということになる。ミュラーはそれを――不当にも――ひっくり返してしまった。これを元に戻すべきだというわけだ。



この要因の印象的な例は、アラビア語dār aṣ ṣina'a(「工場」)からイタリア語が借用した二つの語――おそらくジェノヴァ方言から来たであろうdarsena(船舶の武装解除や修理を行う港湾の屋内施設)と、ヴェネチア方言から来たarsenale(「海軍工廠、造兵廠」)――のなかにも見ることができる。(p.408-409)


ヴェネツィアの歴史などを学ぶと「アルセナーレ」は重要な位置を占めるものだったことが語られるが、これもアラビア語から来た語だったとは興味深い。



マーティン・バナール 『『黒いアテナ』批判に答える(上)』(その1)

また、歴史叙述や説明にたいして、「正しい」とか「間違っている」とか、はっきりしたレッテルを貼るべきではなく、私が「競合的妥当性」と呼んでいるものさしで測るべきだと考える傾向もある。
 その上で次のことが言える。「歴史的方法」という魔法のお守りはない。また、過去の再構成には多くの異なった方法がある(p.114)


本書は『黒いアテナ』に対する批判に対する反批判の書だが、研究方法についてはこの「競合的妥当性」が主張の中心の一つである。バナールに対して「立証」を求めて、それに足りないとしてその説は採用に値しないと切り捨てるような議論に対して、より広い文脈やそれを支持する諸々の証拠を考慮した上で、他の説とどちらに妥当性があるかという比較によって採用すべき説を選ぶべきだという。批判者側の主張も立証されているわけではないにも関わらず、立証責任を相手方に一方的に押し付けようとする姿勢に対する反論としては妥当なものだと考える。

昨今の日本にも見られる歴史修正主義者は、やたらと「正しい」歴史観というような言葉を使いたがるが、そのような姿勢は不誠実なものであり信用に値しないと私は考えるが、バナールがここで述べているとおり、彼らが用いる「正しい歴史」という言葉は、内実のないレッテルに過ぎないということは指摘しておきたい。

引用文の後段は、歴史を研究・叙述する際に、科学的・学問的に認められた唯一の方法があり、それに従って研究すべきだという前提に立った批判に対する反批判ということになろう。これは歴史に限らず、社会科学一般にも当てはまる。恐らく自然科学にも適用可能な考えだろう。



 ジェイサノフとヌスバウムはこの怠慢を正当化し、「原則上、名前の意味はほぼ何でもありだ」(p.190)と述べている。名前はたんに名前として反復される場合も多いが、もともと、とりわけ地名のばあいには必ず意味があるので、このアプローチは受け入れられない。私たちが地名の意味を理解できない理由は、多くの場合、たんに地名を構成している言語について私たちが知らないか、あるいは気がついていないからだ。(p.250-251)


地名には意味がある。なるほど。確かにそうかもしれない。少なくとも、このような想定をして地名の語源などを調べることには意味がある。



モンゴルや中国のように、圧倒的多数の住民の眼の色が茶色である多くの社会では、青い眼は伝統的に獰猛さのしるしと見られてきた。ギリシアでは、古代でも近代でも、青い眼は「邪悪な眼」と関連づけられ、あらゆる種類の悪い特性を示していた。(p.269-270)


確かに、現代の中東でよく売られているお守りevil eyeの色も青だ。



伊藤章治 『ジャガイモの世界史 歴史を動かした「貧者のパン」』
 中世の森林開墾(破壊)の先頭に立ったのは、意外にも修道院だった。ベネディクトゥス派やシトー派は「清貧」「貞潔」「労働」などを掲げて未開墾地(ほとんどの場合が森)の開墾に力を注いだ。

また、教会のステンドグラスづくりには大量の鉄、そしてその鉄を精錬する大量の木が必要だった。ひとつの教会堂のステンドグラスのために数千エーカーの森が切り尽くされたという。(p.99)


教会堂のステンドグラスを見るとき、こうした点に思いを馳せたことはなかった。



 1919年(大正8年)、孫三郎は、日本における民間初のシンクタンクといわれる「大原社会問題研究所」(略称社研)を設立する。1918年(大正7年)7月、富山に端を発した米騒動のすさまじさを目にした孫三郎が、社会に山積する問題を解決することの重要性を痛感したためという。社研の所在地は当時の経済の中心地だった大阪。初代所長には日本を代表する経済学者のひとり高野岩三郎(1871~1949)が就き、研究員には大内兵衛、森戸辰男、宇野弘蔵、長谷川如是閑、笠信太郎など錚々たる顔ぶれが並んだ。『日本労働年鑑』『日本社会衛生年鑑』の発行やディドロ、ダランベールの『百科全書』70冊、カント叢書などの文献収集などで、「日本における社会科学の聖地」といわれた。1937年(昭和12年)、社研は東京に移転、法政大学に引き継がれていく。(p.113-114)


大原社会問題研究所が法政大学に引き継がれたという件は興味深い。1949年に新制大学になった際に合併したようだが、どのような背景や理由があったのかが気になるところである。



 大原孫三郎は1923年(大正12年)、「大陸進出計画を最終的に取り決めるため」、中国視察に出かける。北京で孫三郎を案内したのが、北京・朝陽門外のスラム街で孤児らの教育に取り組んでいた清水安三(1891~1988)だった。
 ……(中略)……。安三は校舎や教材のすべてを残して日本に引き揚げ、東京西郊の町田の地に桜美林学園を築く。桜美林の名は安三が学んだオハイオ州の大学名に由来するだけでなく、アルザスの谷間のジャガイモの村に生きた聖職者ジャン=フレデリック=オベリンにちなんだものでもある。(p.118-119)


桜美林学園の名前の由来がこのようなものだったとは知らなかった。変わった名前だとは思っていたが、オベリンの当て字とは…。


矢野久美子 『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』

 ヤスパースは戦後ハイデルベルク大学の再建に尽くし、戦後ドイツの良心として47年にはゲーテ賞を受賞していたが、翌年にはバーゼル大学哲学教授としてスイスに移住していた。ハイデルベルク大学や市議会はヤスパースを失うことに強い抵抗を示したが、アーレントはヤスパースの選択を全面的に支持した。ヤスパースは「国民的英雄」ではなく哲学教師であることを望んだのである。(p.121-122)


ハイデルベルク大学だけでなく市議会もヤスパースの移住・移籍に抵抗を示したというのは興味深い。戦後のヤスパースの名声は確かにそれなりに高いものがあったようである。



彼女は『六つのエッセイ』に収めた「実存哲学とは何か」という論稿で、1933年にナチに入党したフライブルク大学総長となったハイデガーの行動様式を、自分のことを天才と思い込み責任感をまったくもたない「最後のロマン主義者」のそれと見なしていた。彼の哲学から導き出される自己は、自己中心的で仲間から分離した自己、完全に孤立し原子化された自己たちであり、そこから「民族」や「大地」といった概念、つまり一つの「超-自己」への組織化が生まれる、と彼女は書いた。(p.122-123)


ハイデガーの行動様式及び思想に対する適切な評価と思われる。



短期間で総長を辞職したとはいえ、ナチに関係したハイデガーは、当時まだ戦後ドイツの大学での講義を禁じられていた。(p.124)


1950年のこと。こうした禁止が解かれたのはいつなのかが気になる。ドイツにおけるナチ関係者への公的な場面での扱いと評価はどのようなものだったのだろう。日本でも戦前に対する評価について(歴史を知らないにもかかわらず「正しい歴史」を知っていると自惚れる)「歴史修正主義者」たちが跋扈するようになってきている中、ドイツやイタリアなどでの戦前に対する評価のあり方を知っておくのは有益であるように思われる。



ハイデルベルクには当時学生も巻き込んだハイデガー派とヤスパース派のようなものが形成され、後者に属したシュテルンベルガ―は、ハイデガーのナチ協力について、その思想そのものに有罪判決を下して捨て去るような姿勢をとっているように見えたのである。(p.125)


ハイデガーの思想は政治的には右翼や保守・反動と相性が良いのに対し、ヤスパースの思想はそれと比べるともっとリベラルで平等主義的な志向が強い。そういった政治思想的な面でも両者に対する好みは分かれやすいのは理解できる。



 アーレントによれば、イデオロギーとテロルの支配下で現実や経験の意味は消え去り、人間が複数であるという事実が破壊される。現実の世界が余計なものとなるのである。複数の人間のあいだにあり、人びとが同じものを見ているという意味で共有している世界の解体は、他の人びとからも世界からも、そして自分自身からも「見捨てられている」(Verlassenheit, loneliness)という孤立化の事態、人間が根こそぎロンリーであるという事態をもたらした。(p.128)


今回、アーレントの思想に関して、このあたりの考え方に興味が惹かれた。恐らく90年代以降だと思うがアーレントの思想に対する再評価が起こったと思われるが、それはこうした部分に対する関心もあったのではないか。



人間を自動化し自然化することは、人間を予測可能な自動機械に変えることである。そのことを全体主義的支配者は理解していたし、現代社会でもその危険性は十分にある。(p.140)


このあたりからは、法を法とも思わずに恣意的な衆院解散を繰り返す安倍晋三の選挙戦略が想起される。政治的な問題に対して日頃から十分に関心を持ち理解している有権者はほとんどおらず、それを求めるのは「強い個人の仮定」をすることになってしまうような状況において、一方的に情報を発信することができる立場から、ほとんど法的に裁かれる心配がない(日本の裁判所は政治的な判断にはほとんど入り込んでこない)ことを利用して、都合の悪い事実・情報を隠蔽し、一方的に政権に都合の良いアジェンダを押し付ける。ほとんどの有権者は「語られていない(政権に都合の悪い)事実」を十分に考慮しないまま投票してしまう。これはまさに「人間を予測可能な自動機械に変えること」と重なるところが多いと思われる。



 大衆ヒステリーは主観的で「私的」なものであるとアーレントは言う。前章ですでに述べたように、アーレントによれば「私的」であるとは奪われているということを意味する。奪われているのは、世界の多様な見え方、すなわち世界のリアリティである。(p.156)


この箇所が本書を読んで最も啓発された箇所である。言われていることの大部分は2つ前の引用文と同じ考え方だが、大衆ヒステリーが主観的で「私的」なものだという指摘は、現代の世界におけるポピュリズムの台頭という現象を想起させ、ポピュリズム政党を支持する人々の状態を的確にとらえていると思われる。彼らはまさに「世界の多様な見え方」を奪われている。世界のリアリティが欠けている。(それでいながら彼ら自ら「現実的外交」などと言うのが滑稽だが。)彼らの言説には公共性が欠けているが、世界の多様な見え方が欠けているところに公共性などあるはずもない。そうしたことが非常に腑に落ちた。



思考に動きがなくなり、疑いをいれない一つの世界観にのっとって自動的に進む思考停止の精神状態を、アーレントはのちに「思考の欠如」と呼び、全体主義の特徴と見なしたのである。
「思考の動き」のためには、予期せざる事態や他の人びとの思考の存在が不可欠となる。そこで対話や論争を想定できるからこそ、あるいは一つの立脚点に固執しない柔軟性があって初めて、思考の自由な運動は可能になる。(p.174)


ポピュリズムなどによる「民主主義の暴走」にもこれは当てはまるように思われる。少数の投票で巨大な権力が獲得できる現在の日本の選挙制度は――比例代表と組み合わせていることや、二院制や参議院の選挙制度など、こうした危険を多少は緩和する要素も持っているにせよ――ポピュリズムがなくても政権与党がかなりの程度まで暴走できる制度になっており、こうした暴走により、一つまた一つと民主主義の抑制装置を解除されているのが現状で起こっていることであり、これらの抑制装置が解除されたことを利用する政権が現れた時、破局へと一気に進む危険がある。現在の政治に対する私の懸念はこの点にある。



 アーレントは「真理と政治」という論稿のなかで、政治的な領域をかたちづくり人びとが生きるリアリティを保証すべきものであるはずの歴史的出来事や「事実の真理」が、数学や科学や哲学の真理といった「理性の真理」よりもはるかに傷つきやすいものであると論じた。「事実の真理」は、それが集団や国家に歓迎されないとき、タブー視されたり、それを口にする者が攻撃されたり、あるいは事実が意見へとすりかえられたりという状況に陥る。「事実の真理」は「理性の真理」とは異なり、人びとに関連し、出来事や環境に関わり、それについて語られるかぎりでのみ存在する。それは共通の世界の持続性を保証するリアリティでもあり、それを変更できるのは「あからさまな嘘」だけであると言う。「歴史の書き換え」や「イメージづくり」による現代の政治的な事実操作や組織的な嘘は、否定したいものを破壊するという暴力的な要素をふくんでいる、とアーレントは指摘した。(p.207-208)


本書は2014年に出た本だが、最近1年前後の情勢を念頭に置いて書かれているかのような錯覚に陥る。アメリカのトランプが大統領となり、事実の報道に対して「フェイクニュース」というレッテルを貼ることで都合の悪い真実を消し去ろうとする姿勢や、安倍政権による森友学園、加計学園に関する問題で、政権にとって都合の悪い事実が隠蔽されている。政権側は質問されてもはぐらかし、質問の機会をつくることを求められても応えず(臨時国会は実質的に開かれていない)、都合の悪い事実を口にする者(前川氏)を攻撃し(読売新聞が加担した記事)、時間を稼いでいる間に証拠を隠滅していること(財務省のパソコンの情報などを想起)は明らかだろう。

歴史修正主義者たちの言説も「あからさまな嘘」であるが、それでもそれを否定するために立証しようとすると、込み入った専門的な議論や知識が必要になったりするため、一般に広く理解されることはなく、それらが公衆の面前であからさまに論破されないまま垂れ流されているうちに、次第に嘘が真実であるかのように受けとめられていくという方向に流れている面がある。

「事実の真理」の脆弱性をよく認識した上で、それをどのように守っていくのか、学問だけでなく政治的にも非常に重要な課題である。