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アヴェスターにはこう書いている?
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藻谷浩介 『世界まちかど地政学 90ヵ国弾丸旅行記』(その1)

 英国では1994年の国鉄分割民営化の際、「上下分離」方式が取られた。路盤と軌道は全国一括で国有の公益法人が所有・管理・保全し、車両の保有と運行は数多くの民間企業が競争して行っている。
 税金で整備・管理される道路の上を走るバスや自家用車との、競争条件同一化(イコールフッティング)が図られているわけだ。おかげでJR北海道の路線廃止問題のようなことは起きないし、車内は清潔でインテリアは近代的、PC電源も完備だ。(p.61)


上下分離方式がバスや自家用車とのイコールフッティングというのは、それなりに筋が通っている。民営化は基本的に好ましくなかったが、やるならせめてイギリスのようなやり方でやってほしかったものだ。それに引き換え、日本の国鉄民営化は地方を切り捨てるためにやったようなものである。



 首都圏への一極集中という、世界の先進国では日本と韓国でしかおきていない珍しい現象を、当たり前と思い込んでいる日本人には、浜松や静岡程度の大きさの都市で金融、情報、芸術の集積が高まっているという状況を、あるいは理解しにくいかも知れない。(p.69)


これはグラスゴーに関するコメントだが、確かに、日本では一極集中が当たり前と思っているかも知れない。ここからは、日本と韓国では一極集中が起きる原因は何なのだろう?という疑問が生じる。他国と比較してどのような条件が異なっているのかは気になるところ。



 第二次世界大戦は、化石燃料の産地や交通の要衝の争奪戦でした。ですが、化石燃料の出ない日本が戦後に大発展し、世界最大の原油埋蔵量を持つと言われるベネズエラが南米の最貧国に陥りつつある現実をみてもわかる通り、資源は買えばいいのであって、それよりも平和を前提とした貿易システムの中で勝者にならねばならない。そのためには、資源地帯だの交通の要衝だのを占領して経済制裁を受けては元も子もない。だから米国は占領地からは基地を除いて撤退しますし、中国も無人島や租借地での拠点構築はしますが、有人領土の侵略はしません。今の日本には、21世紀のこういう歴史的、地政学的変化を、理解できていない人があまりに多すぎます。(p.134)


藻谷の地政学的な見解の中でも重要な要素が語られている箇所。基本的な方向性としては私も同様に考える。



 地理を考えないと歴史の把握も難しくなります。たとえば邪馬台国論争ですが、魏志倭人伝の順路の記述は、対馬―壱岐―松浦郡―糸島郡―博多湾まで地理の教科書のように正確なのに、その先はまったくアバウトになる。もし邪馬台国が大和だとすると、なぜその途中にも数十はありそうな国への言及がほぼないのか。大阪湾から大和まで陸行一カ月というのも無理がある。つまり博多から先の記述の信頼性はがぜん低いわけですが、地理感覚なき文献史学では、博多までと区別なく金科玉条と扱ってしまいがちです。
 逆に歴史を勉強していない人が外国に行って書くことは、「建物がこんなにきれい」とか「ご飯がこんなにおいしい(あるいはまずい)」とか。どうしてこのような建物が建っているのか、どうしてこのような料理が生まれたのかという歴史的な経緯にまったく触れていない文章は、読んでいて面白くないのです。(p.135)


「地理は歴史の微分、歴史は地理の積分」との主張にも共感する。



 つまり、「“犬棒”能力」とは気づく力でもあるのですね。その際のコツは、「なぜここにこんなものがあるのか」と、頭を素にして考えること。そしてそれ以上に、「なぜここには、他所にはある〇〇がないのか」と考えることです。あと、強いて言えば、インフラのメンテナンスの状態は、国情をよく反映するのでチェックします。また、政府が外国人に見せたがる、劇作家・評論家の山崎正和の言葉を借りれば「グラマラス」な場所と、その対極にある庶民の住む場所を比較するようにしています。(p.136-137)


犬棒能力は、鍛えてみたい。旅行以外でも絶対に役立つに違いない。

また、グラマラスな場所と庶民の住む場所の比較は、確かにやった方がよい。権威主義的な国では表側のグラマラスな場所も、そのすぐ裏に入ると、もう別世界ということも多い。このように、グラマラスな場所と庶民の住む場所がどのような位置関係にあるかということも結構重要だったりする。


NHK「ブラタモリ」制作班 監修 『ブラタモリ5 札幌 小樽 日光 熱海 小田原』
札幌

 キャンパス内の北西に向かうと、第一農場(P13ⓓ)があります。……(中略)……。
「北大では、クラーク博士に続く外国人教師が、農地の排水技術をここから始めていったんですよ」と古沢さんが見せてくれたのは土管の写真です。(p.16)


札幌が200万都市になることができた要因のひとつとして、本書では低湿地の排水により宅地化を進めることができたことを挙げているが、北大の第一農場あたりが、その最初の場所(のひとつ?)だったとは。ただ、札幌の扇状地と低湿地の境目が北大キャンパスの中央ローンの少し北あたりにあるらしいということを踏まえると、そのことも見えやすくなった。



 すすきのの交差点に立って、周囲を眺めると……。歩道の幅が途中で変わっています。交差点をはさんだ2区画の約200m分だけ建物が引っ込んでいて、建物沿いをまっすぐ行くと、その先の区画のビルに突き当たってしまうのです。
 ……(中略)……。
 このへこみの部分にあったのは土塁。歓楽街で、土塁で囲まれていたところといえば……。
「遊郭だ」とタモリさん。(p.19-20)


現在ラフィラのある南4条西4-5丁目あたりの歩道。なるほど。すすきのに開拓使により官設の遊郭が作られたのは有名な話だが、未だに痕跡が残っているとは知らなかった。



 わずか150年で札幌が200万都市になったのには、世界規模での歴史的・地理的背景もありました。
 17~19世紀の地球は小氷河期のピーク。薪用に森林を伐り尽くしたヨーロッパに、木材と毛皮を売ることで力をつけたロシアは、次にアジアとの交易をもくろんで船を向かわせます。また世界地図の空白域だった北海道に、黄金の国ジパングを探すヨーロッパの船が来る。鯨油と交易を求めるアメリカ船も日本をめざす。一方、日本では次々に発生した大飢饉を受け、寒冷気候に適応する作物を研究栽培するため、欧米列強に収奪される前に蝦夷地の開拓を急ぎました
 それが、明治時代からの急発展の裏にある大きなポイント。(p.24)


なるほど。ロシアの進出に対抗するために北海道(蝦夷地)の開拓を急いだという話は、北海道の歴史を語る際によく言われることだが、さらに小氷河期という長期の歴史的な背景まで加えると、全体の流れがさらに見えやすくなる。日本側の要因としての寒冷気候に適応する作物というのも、説明として興味深い。(短期的な動きではもっと重要な要因もあったとは思うが。例えば石炭などの資源とか。)



小樽

 ニシン漁で栄えた町は北海道の日本海側にいくつもありました。小樽が格別に発展したのは鉄道があったからです。(p.49)


小樽の歴史を語る時、鰊漁で栄えたという話はよく語られる。ただ、それだけであれば、北海道の日本海側の多くの町と大差はない。小樽が明治から昭和初期の北海道にとって特別だったのは、港と鉄道の組み合わせがあったからである(と、引用文を補足してみる)。港はあまり観光資源にならないのであまり語られない。ただ、港湾を活用するための手段として運河が作られたこと(ほとんど活躍する前に時代が変わってしまったが)などと結び付けて上記の点を理解できると(運河-港湾-鉄道)、多くの旅行者にとって小樽の旅はより興味深くなるだろう。



 石炭の時代が終わった頃から、小樽は衰退への道をたどります。経済の中心は札幌に移りました。決定的だったのは昭和38年、苫小牧に広い埠頭をもつ新港ができたことです。(p.49)


なるほど。石炭の時代が終わったことで、幌内鉄道も有用性をかなり失い、港の価値もかなり減った。上で述べた二つの組み合わせが価値を失ったことで、小樽の他の地域と比較した優位性は失われた。冷戦時代になり大陸との交流や貿易は減り(韓国も当時はまだ貧しく)、アメリカとの関係がより重要となっていく中で太平洋岸に日本の中心はシフトしていく際に、北海道では苫小牧が新たに台頭していく。と同時に小樽は衰退していく。

経済の中心が札幌に移るにあたっても、石炭の時代が終わったことが札幌の巨大都市化を推進した面がある。空知などの炭鉱が閉山していく中で山を降りた人びとが札幌に移っていったことで、札幌への人口集中が進んだ。これを受け入れる余地を作ったのが低湿地・泥炭地の排水であり、それにより開かれた北区、東区、白石区などのエリア、という感じであろうか。


倉橋耕平 『歴史修正主義とサブカルチャー 90年代保守言説のメディア文化』(その3)

「つくる会」の藤岡信勝が「専門家の時代の終わり」を告げたように、アマチュアリズムの知性は、エビデンスに基づかなくても目の前の「ディベート」に勝ちさえすればいいという知的態度を推奨していった。それは実は「論破」に至らなくても(マウントをとって屈服させなくても)、有効な言葉を繰り出し、相手の主張を相対化することで価値を得られるゲームである。(p.221)


確かに、こうした「アマチュアリズムの知性」にとって、エビデンスに基づく科学的な知識を持っている側の「まともな知識人(専門家)」は、権威であり、正当な知識を持つ者として、その分野では他の人より一段上の者として扱われる人である。それに対して、「アマチュア」が相手の主張を相対化できれば、それと同列のレベルにあるかのように振舞うことができる。

このゲームにおいては、「アマチュア」は依って立つほどのものを持たないがゆえに、失うものがない駒であり、このため容易に負けることがないゲームである。「非専門家である」ということが、このゲームにおいては、相手(専門家)を攻撃するための土台であると同時に、自分を守る殻でもあるという構造になっている。このような安全地帯から無責任は言葉を放ち続けることができるという構造は、「商品化された言説」を、それが批判により否定されても繰り返し同じ主張を続けることと結び付いているように思われる。(なお、ネトウヨとやり取りをする際も、こうした構造的な力が働くように思う。)

こうしたゲームのルールを明らかにしたことは本書の功績であるように思われる。

余談だが、80年代から90年代頃にポストモダニズムなどと呼ばれて一部では人気があった思想について、私はその頃から違和感を持っていたが、ポストモダニズムの相対主義は、上記のようなやり方が歴史修正主義や右派の側に取り入れられていくにあたって、追い風になったのではないか。ポストモダニズムの中でも左派的な主張では、権力側を相対化することで人々の側に権利を取り戻せるかのような考え方がないとも言えないと思うが、今度は同じやり方を権力側(右派や反動側)が取り始めたことで、その手法の持つ位置価は大きく変化している。このやり方は権力側から使った方が効果が大きいやり方であり、安倍政権は、ここ20年ほど続けられてきた右派によるポストモダニズムの取り込みにより得られた「論破マニュアル」(より正確に言えば、ゲームで負けないためのマニュアル)を非常に有効に使っており、マスメディアやリベラルな知識人たちなども、それに対して有効な対処ができていないように思われる。(なお、同じやり方を使うなら政権側が有利なのだから、メディアやリベラル派は不利なゲームを強いられている、ということは付言しておきたい。安倍政権がとっている手法はそれ自体としては難しいものではなく、何らの特別な能力や卓越性を必要とするものではない。)



 本書では、歴史修正主義の「知」そのものの特質について、次の二つの側面を実証した。第一に、「相対主義」を絶対化するコミュニケーション様式である。ディベートの方式がまさにそれだったように、自説を主流派の説と同じ俎上に載せることで、たとえそれがマイナーな説であっても同じ水準で議論するための格上げを可能にする。そのうえで、相手の意気をくじくための知識だけでもって、思想の言葉をもてあそぶ。「相対主義」の絶対化は、個々の議論に付随しているはずの重要度や客観性を等閑視させるのである。第二に、正当化の「偽装」である。歴史修正主義は、実際のところ「事実」や「議論の新奇性」には興味がなく、手続き上正当化できない「歴史」への言及を、消費者の参加と商売を成り立たせるメディアの制度を利用してあたかも正当なものであるかのようにして通用させる。第3章で検討したように、「論壇」といういかにも理性的なメディアの姿を装って。(p.229-230)


前者の部分はこれまでも気づかれることが多かったが、後者に関連することを明確にしたことが本書のよいところであろう。本書は、多くの人に推薦できる良書である。


倉橋耕平 『歴史修正主義とサブカルチャー 90年代保守言説のメディア文化』(その2)

 歴史否定論の性格をもつ歴史修正主義が、保守や右派と結び付くのは、その歴史観(修正の仕方)が自国の戦争責任を否定し、復古主義的な側面をもっているからである。そもそも「保守」とは現実主義路線であり、現状の秩序を過去から存続するものと捉え、急激な変革に対して慎重路線をとる立場である。他方、「右翼」とは過去をまなざし、現在では失われた過去の価値や規範を持ち出して(復古的に)現在の変革を求める立場を指す。その場合、おおむね愛国主義になることが多い。このように、保守や右派(右翼)は、過去への関心から成り立っている側面は否定できない。そのために自国にとって不都合な歴史を否定する立場をとる歴史修正主義は保守や右派のイデオロギーと連動する傾向にある。(p.23)


なるほど。保守や右派が歴史修正主義と相性が良いのは、ここ30年ほどの歴史を見ると容易に見て取れるが、「過去への関心」が共通点としてあるという整理は興味深い。

ただ、現在の日本では、「保守」を名乗る人の多くは、実際には「反動」として規定されるべき立場であることが一般的であると思われ、急激な変革を求めないという保守の立場とは相容れない点が多い。むしろ、権利の拡張を要求するリベラルや左派を否定し、個人の平等や権利を縮小し、いわゆる「国家権力」を肥大化させる方向にできるだけ早く変えていこうとする立場として捉えた方が良いのではないか。その意味では、「保守」と名乗っている人々については、実際には、本書のこの個所で規定されている「右派(右翼)」の規定で捉えた方が妥当であるように思われる。



 保守言説の「商品」化の背景には、メディア市場の経済的な事情が影響している。「産経新聞」はたびたび経営難に陥っていて、1997年にフジテレビが上場するといよいよ資金援助を受け難い状態となった。2002年には夕刊を廃止し、その後も赤字決算の計上によってリストラを実行している。フジサンケイグループが「歴史問題」の積極的なキャンペーンを開始したのは、まさにこの経営不振の最中、1997年である。そして、他紙に比して極端に右派寄りの紙面を展開していく。その結果、斜陽産業と言われ、他紙が軒並み発行部数を落とすなか、現状維持したのは「産経新聞」だけだった(とはいえ160万部弱で全国紙としては最下位、「読売新聞」の五分の一程度である)。(p.66-67)


ニッチ市場としての「保守言説」の市場がこうして開拓されていく。批判を受けて否定されても、同じ議論が金太郎飴のように延々と垂れ流される理由のうち、いわゆる「保守言説」が、「思想」というよりは、こうしたニッチ市場で売れる「商品」だから(それにすがらざるを得ない経営難のフジサンケイグループなどの状況が背景にある)、というのは、かなり大きな割合を占めていると思われる。本書はこうした側面に切り込んでいるところが特徴であり、参考になったところ。

こうした戯言が、これほどまでに影響力を強めるとは、20年前の私には想像もできなかった。(この頃、私の周辺の友人たちはある種の危機感を覚えていたが、彼らは慧眼だったと思っている。)



 インターネットの動向はどうか。一時期、インターネットのニュースメディアはフジサンケイグループであふれていた。正確に計量することはできないが、「産経新聞」「夕刊フジ」「サンケイスポーツ」の記事が比較的多くネット上に流通しているのは、産経新聞社が経営不振からいち早く記事の無料公開に踏み切ったことによる。特に、2007年にマイクロソフトと提携してニュースをユーザーに無料で読めるようにしたことは話題を集めた(2014年まで実施)。翌08年にはiPhone向けのスマートフォンアプリを無料で公開した(2016年に有料化)。ほかの新聞社がwebサービスを一部有料にし、紙媒体の購読料から得られる利益を守る方針で運営したのに対し、産経はニュース記事を公開することでインターネットの特徴である無料コンテンツ文化に適応していった。こうした市場の力学の結果、ネットニュースという言説空間でのフジサンケイグループの発信力・占有力は、いまなお一定の割合で保たれている。(p.67-68)


ここで指摘されていることは、ネトウヨ的な勢力を一定数維持・再生産するような極めて問題のある構造である。これは改めていく必要がある事態であるが、どこから手を付けるのが良いか?



「ディベートは、次のような不誠実な思考を生徒にしいている。<相手に勝つという自己の目的のためには、目的達成に都合がいい事実だけをつまみ食いすることが許される。逆に都合の悪い事実は出来るだけ避ければいい>という思考である」(p.120)


これは池田久美子の指摘を本書が引用している部分だが、かつて右派が持ち上げたディベートに対する的を射た批判である。

さらに言えば、安倍政権あるいは安倍晋三という政治家の言動とこれほど一致する姿勢はないのではないか。例えば、森友問題、加計問題や、現在追求されいている「桜を見る会」などで様々な質問がされても、質問に答えない姿勢も、上記引用文の姿勢と完全に一致している。GDP統計などの不正・不当な改竄とも言うべき改定なども同じである。


倉橋耕平 『歴史修正主義とサブカルチャー 90年代保守言説のメディア文化』(その1)

「専門家」の共同体から疑義が呈されていてもなお歴史を書き換えようとする彼らはそれを繰り返し主張し、「出典」と「引用」をあげ、反論の根拠を要求する「論戦」を続けている。とりわけ、こうした論戦では「論破」への過剰なフェティシズムが垣間見られ、執拗に他者を追い回し、マウントをとるまで議論を吹っかける実践が日々繰り返されている。(p.10)


「論破」への過剰なフェティシズムという表現は、「右翼」「右派」「保守」などと呼ばれる「反動」的な言説を垂れ流す輩の特徴の一つを非常に的確に捉えており参考になった。



 歴史修正主義の著作は、すでに数多くの批判にさらされている。……(中略)……。彼らを「知的に取り合う必要がない」として棄却することは、豊富な知識をもつ者がとるべき妥当な態度なのかもしれない。だが、それでいいのか。内容の正否を問わず歴史修正主義の言説が広がっているならば、その拡散の方法こそ考えるべきではないだろうか。私は、むしろそこに彼らには彼らの「知性」と呼べるものがあるように思うのだ。(p.10-11)


本書はこの切り口でアプローチしているのだが、確かに言われてみればそうかも知れないと思わされた。非常に良い着眼点だと思う。明らかに間違っている言説が、壊れたテープレコーダーのように同じことが繰り返し語られ続ける。どんなに内容に対して批判があってもほとんど影響を受けずに同じ言説が繰り返される。それは何故なのか?語られた内容ではなく「どこで、どのように」語られたかに着目することで、こうした疑問にアプローチすることで、その理由が見えてくる。



「言論」や「言説」などと呼ばれるものは、少なからず存在の様式に内容を規定される。メディアは、ジャンルのルールをその形式から規定する。各メディアで異なるコミュニケーションのあり方、消費者の参加、デザイン、すべてが「メッセージ」である。もし歴史修正主義者に学術的批判の声が届いていないとすれば、そもそもまったく別のメディアに掲載される彼らの情報の存在様式やコミュニケーション・モードが批判者のそれとは異なり、別の論理で動いていることを意味している。
 本書が問いたいのは、この部分である。すでに述べたとおり、歴史修正主義の主張は学問のフィールドでは共感も評価も得ていない。学術出版社も距離を置いているのが現状である。他方で、歴史修正主義と親和性が高いのは、本書のなかで扱うビジネス系の自己啓発書、保守論壇誌、週刊誌、マンガなどの商業出版とインターネットである。それらは、言説内容の正しさよりも「売れる」かどうかを優先する「文化消費者による評価」を至上命題としているメディアである。テレビのバラエティー番組も視聴率重視、インターネットも閲覧数至上主義という側面が大きい。したがって商業メディアは、いわゆる「政治」には不向きなメディアと言われてきた。にもかかわらず、歴史修正主義者の主張が商業メディアで展開されるのだとしたら、その手法にこそ政治的側面を読み取ることができるのではないか。
 詳細な議論については、本編の分析を読んでいただきたいが、昨今おこなわれている歴史修正主義の言説政治をめぐる状況は「サブカルチャー」であり、「保守ビジネス」である。(p.12-13)


売れるかどうかが内容が正しいかどうかよりも重視される商業メディアで垂れ流されるからこそ、内容が批判されても同じものが金太郎飴のように次々と再生産される。これを是正するためには、商業メディアに対する規制が重要となってくる。



黄昭堂 『台湾総督府』(その2)

 台湾の建設が、在台日本人の努力のみに頼ったものではなかったにもかかわらず、支配者としての内地人の台湾人蔑視は無垢の子にも教えこまれていく。そして、せっかくつくられた中等以上の学校は公平な競争によらないで、こうした「二世」によってしめられた。そして台湾青年は台湾で高等教育を受ける機会が少ないから内地へ行く。ところが泉風浪も指摘しているように、「内地で高等教育を受け、郷土台湾へ帰へって来ると、大手を拡げて待っている筈の仕事は皆無と来てゐる」(泉、前掲書、341頁)。官学万能のためのみではない。台湾人が差別待遇を受け、採用されないからである。
 しかし、こうした差別待遇よりも、「蔑視」が台湾人の心を大いに傷つけた。親日知識人たることを自任して一生を終えたある台湾人は、「日本の台湾総督は“一視同仁”ひとしく日本人なりと唱えてはいたものの、本島人である我々からみると差別が多く、何んとしても我慢ならなかったのは、正式に日本国籍にある本島人を、中国人に対する蔑称(チャンコロ)で呼ぶ内地人が多かった事である」とその遺稿につづっている(周慶源 『台湾人からみた日本人の英知』 蔵元文焜発行、59頁)。
「チャンコロ」だけではない。
「儞(リー)や」ということばがある。これはふつう、雇い人、車夫、物売りの人たちに呼びかけるばあいに使うといわれるが、内地人はふだん台湾人に呼びかけるときに平然と使う。「おい、こら」もよく使われ、また台湾人のことをいうのに「土人が土人が」と頻発するのに台湾人は耐えがたい侮辱の感をおぼえたと、台湾を訪問した衆議院議員田川大吉郎も報告している(田川 『台湾訪問の記』 127頁)。(p.247-248)


これに類することは、本書以後にもいろいろと指摘されており、基本的な内容は同じである。それだけ台湾の島内で普遍的にみられた現象であったということだろう。

私は最近、いじめ問題についても考えているが、台湾人に対する差別と基本的な構造というか、差別する(いじめる)側のまなざしは限りなく同一と言ってよいように思う。


黄昭堂 『台湾総督府』(その1)

 ところで、台湾史の時代区分において、研究者は清国統治時代と日本統治時代のあいだに「台湾民主国時代」をいれることをさけている。台湾民主国の存続期間が短かったこと、支配権力の実体が不明であることのほかに、研究者が意識的もしくは無意識裡に政治的配慮を加えているように思われる。
 日本帝国についていえば、台湾民主国の存続期間が台湾総督府による支配の初期と重複しているゆえに、それを認め難いであろう。中華民国についてみれば、台湾が一時的であるとはいえ、「独立した」との事実を認めるのは、現在の政策上、不都合であろうし、これは中華人民共和国のばあいも同じである。これら支配者や「支配者的立場」にある国とは別の立場にいる台湾人にしても、台湾民主国の政府要員の多くが、清国官吏であったことや、総統としての唐景崧の清廷への通電で、さかんに「朝廷にたいして他意はなく、忠誠である」ことをるるとして述べていることに違和感をもっているであろう。台湾民主国が台湾史の一時代を画したとの評価を得られなかったのは、このためである。(p.47)


本書は台湾に戒厳令が敷かれていた1980年代に書かれた本であるため、ここでの「中華民国」の立場は、現在の中華民国政府の立場とは必ずしも一致しない。現在の台湾の中華民国政府の国民党の歴史観からすると、確かに台湾が独立した時期があったとするのは都合が悪いことになる。台湾は中国ではなく台湾であるという感覚の台湾人から見ても、本書が言うように、清朝に忠誠を誓うような姿勢であったのであれば、清国統治の一部でしかないということになる。

個人的には、蝦夷共和国と台湾民主国を比較してみたいと考えているのだが、旧幕臣たちが指導層だった前者と旧(?)清国官吏が指導層だった点は類似点と言える。リーダー選出を選挙で行うという点や短期間で制圧されたことなども類似点だろう。ただ、清朝が日清戦争で負けた結果、条約により台湾を割譲することを決めているのに、現地で日本に抵抗を示した台湾民主国と、幕府が内戦で敗れたことに納得できない旧家臣たちが辺境の地へと逃げて体制を立て直そうとした蝦夷共和国とでは、住民との関係性は異なっている面があるかも知れない。



 その反面、日本の台湾領有によって、台湾と沖縄との境界は、むしろあいまいなままに残されることになった。そしてそれは「尖閣列島の帰属問題」として、今日にいたるまで尾を引いている。(p.49)


なるほど。確かに。



 しかし有能な将官だからといって、必ずしも行政能力を持っているとはかぎらない。そこで一般行政を担当する民政部門の首脳に行政手腕が期待されるのである。(p.59)


台湾総督が初期には武官であったが故に、民政長官のような民生部門のポストが必要となり、後者が日常の政治を司るような体制になった。この辺りの理解は本書のおかげで深まったように思う。武官総督時代が終わり、文官になっても残されたあたりも興味深い。



 乃木総督が手をやいた抗日ゲリラは児玉・後藤時代でも変わりはなかった。後藤の告白によると、かれが赴任した明治31年から35年までの5年間に、総督府が殺害した「叛徒」は1万1950人に達している(後藤新平著・中村哲解題『日本植民政策一斑』64頁)。日本が台湾を領有してから明治35年までの8年間に、日本政府側の統計にあらわれている分だけでも、台湾人の被殺戮者数は3万2000にんに達するのである。これは台湾人口の1パーセントを上まわる。ことに児玉・後藤コンビ時代の台湾人殺害数が、初期の台湾攻防戦時に匹敵することにあらためて注目すべきである。(p.83)


こうした点は児玉・後藤時代の称揚する傾向が強い日本側の記述では触れられることはほぼない。本書では、私が近年日本側で出版された本で読むよりも、抗日活動はより活発であり、長期にわたったことが強調されている。これが研究の進展により訂正されたものなのか、著者の立ち位置の違いから出てきているものなのかが気になるところである。



 しかし、原内閣が成立した大正7年以降、状況は一変した。例外を除いて、台湾総督および総務長官の座は政治色が濃くなり、中央における政変に連動して、政党的人事がむしろふつうになった。その先鞭をつけたのが、原政友会内閣による田健次郎の任命である。(p.109)


台湾総督や総務長官(民政長官に相当)の人事や台湾で実施された政策の意味を理解するに当たって、本国の政治状況と結び付けて見ることで見えてくるものが結構ある。この点の認識を深めてくれたのは、本書からの収穫だった。



文官総督時代から顕著にみられる台湾・朝鮮での同化政策は、こうしたナショナリズムの運動法則と合致するものである。異民族=植民地人を同化するには、「教化」もさることながら、その地位の向上をもはからなければならない。(p.146)


内地延長主義への政策転換については、ナショナリズムに基づくという面と地位向上にも繋がるというリベラルな面があった。ナショナリズムは右派と考えられ、リベラルは左派と考えられることが現代では多いが、これらは特段矛盾はしないものであるという認識も重要だろう。



 初等普通教育においては従来と同じく、小学校は内地人子弟、そして公学校は台湾人子弟のための学校であるが、大正8年(1919)からは例外的に、相互の小・公学校への入学が可能になり、大正11年の台湾教育令(勅令第20号)によって、「国語を常用する者は小学校に、常用しない者は公学校に入るべきもの」と規定された。形の上では、国語(にほんご)能力による選別になったわけである(253頁参照)。(p.147)


小学校と公学校というシステムとこれらのシステムに基づく進学などの差別があったという批判は確かに妥当なものではある。ある意味、既定としては最初から日本語能力による選別としている方が妥当だったのではないかとも思う。小学校と公学校という学校の区別自体がない方がよかったのかも知れないが、日本語の初歩から教えなければならない児童と、日本語を母語とする児童とを日本語話者の教師が同じように教えるというのは、かなり無理のある設定である。どのようなやり方が最善だったのか、この問題は考えるといつもモヤモヤする

(植民地支配という前提が誤っているのだから、何の問題もない方策などないのだが、当時の国際社会の状況下や人権意識の程度などを考えると、現代的な視点からの批判は、必ずしも当時とり得たであろう現実的な方策を示唆しない。)



 昭和3年に開学し、最終的には文政・理・農・工・医の五学部を擁する台北帝国大学は学生数約500(昭和18年)だが、講座数は114、教官は助手をのぞいてなお163人もおり、学生3人に教官1人という恵まれた大学であった。……(中略)……。
 戦後、台湾人が親日的傾向に転じたのは、かつて自分たちが教えを受けた国民学校をはじめとする各級学校の教師への敬愛の念がそうさせたのであり、それを、「日本の統治がよかったからだ」と曲解する日本人が多いのは、きわめて残念なことである。(p.190-191)


前段の台北帝大についての指摘は、この大学は統治のための研究のための機関であり、教育より研究を重視していたということが表れているのではないだろうか?という気がする。

後段の指摘は日本人はよく理解しておく必要がある。また、戦後に生きた世代は統治初期の抗日運動が激しかった時代を経験していないということも重要なポイントだろう。



 発電力は昭和12年に17万キロワットであったのが、6年後の昭和18年には倍増して35万7000キロワットに躍進したが、これは台湾が軍需生産に追い立てられた賜物である(以上の数字は台湾総督府『台湾統治概要』による)。
 このように躍進はめざましかったが、多くの矛盾をはらんでいた。台北帝大は農・医学部をのぞけば、ほとんど日本本国人子弟専用の感があり、台北高等学校ですらそうであった。多くの台湾人学生は台湾での高等教育が受けられずに「内地留学」を余儀なくされた。もちろん私立大学に入るのがほとんどで、ことに明治大学、早稲田大学に学んだ人の中から人材が輩出した。本国政府および総督府は意識的に、人文・社会科学を学んだ台湾人を登用しなかったため、東京帝国大学を卒業した台湾人学生(全期をとおして計130人程度)ですら、その多くは官途を閉ざされたままであった。(p.192)


昭和12(1937)年に日中戦争が始まると台湾も軍需のために工業化が進んだことがわかる。

人文・社会科学を学んだ人に対する警戒感は台湾人に限ったことではなく、特に後発の帝国大学(東北、九州、北海道)で文系の学部の整備が遅れたことなどにも強くそれが反映している。この傾向は、現代の日本でも社会科学を十分学ぶ機会が少ないことなどの形で継続しているように思われる。(これが政治に対する感度が低い人が多いことに繋がっていると思われる。)



日本帝国の領域内において、台湾はもっとも稠密に警察が配置されていた地域である。(p.234)


初期の抗日運動や抗日ゲリラがそれなりにいたことの影響か。



 その結果、10年後の明治38年(1905)には、在台日本人の10.3パーセントにあたる6710人が台湾語(福佬話、客話、高砂族の各種言語のいずれか)を「話す」ことができ、しかもそのうちの208人は、それを常用語にしていたという(『明治38年臨時台湾戸口調査記述報文』232頁)。「話す」とはいっても、どの程度まではかは明らかではないが、台湾領有10年にして、このような高率をみせたのは、台湾人の日本語教育が未だに普及せず、日本人の日常生活と公務執行上の必要性にせまられたからであり、必ずしも台湾語を尊重したからではない。(p.244)


この指摘は興味深い。


木村光彦 『日本統治下の朝鮮 統計と実証研究は何を語るか』

 1919年の万歳騒擾事件は日本政府・朝鮮総督府に大きな衝撃を与えた。政府は、併合以来の強権的統治を見直し、朝鮮人に融和的な政策を採ることにより民心の安定を得ようとした。(p.32)


1919年というと大正8年にあたるが、一つの事件だけのインパクトというよりも、その前年の原敬内閣の成立のような大正デモクラシーの流れというものも考慮すべきであるように思われる。同じ1919年には台湾でも文民総督が置かれ、内地延長主義による統治へと移行した時代であったことが想起される。



朝鮮の一人当たり国民総生産は、内地の3-4割、台湾の6-7割にすぎなかったからだ。(p.42)


戦前の朝鮮が台湾より経済的に低い水準だったというのは、やや意外だった。当時の日本国内では、朝鮮総督の方が台湾総督よりも地位が高かったとされることなどからも、それは言える。



 以上の結果、補充金と公債金が朝鮮財政に欠かせなかった。言い換えれば、朝鮮財政は内地依存から脱却し得なかったのである。(p.43)


この点から見ても、植民地台湾と比較して植民地朝鮮は内地(日本帝国本国)にとって経済的には有用性が低かったことになる。上述の総督の地位のことなども考えると、それだけ政治的・軍事的な意味が大きかったということか。



 総督府は、武断政治の強化あるいは恐怖政治(強制収容所や広範・稠密な秘密警察網をともなう)ではなく、それとは逆の融和政策への転換を通じて、反日運動をコントロールし得たといえよう。(p.44)


融和政策は統治の目的に沿って言うと、それなりに有効に機能したらしい。



 要するに朝鮮の特徴は、貨幣経済の進展が換金作物の増産を促進しただけでなく、耕作法の変化を引き起こした点にある(日本統治下台湾も同様である)。この事実から、朝鮮の農民は東南アジアの農民に比べ、市場機会にいっそう積極的、革新的に反応したと言えよう。(p.51)


日本の統治下に入ることによって、ウォーラーステインの言う近代世界システム(資本主義世界経済)により深く組み込まれたと言えそうである。



 産米増殖計画は、帝国日本で最初の大規模な農業開発といわれる(東畑・大川『朝鮮米穀経済論』12頁)。それを立案、実施したのは朝鮮総督府であった。総督府はこの面からみても、たんなる行政機関ではなかった。同計画は総督府が、米作という産業の開発を推進する一大企業体でもあったことを示している。(p.53)


単なる統治機構というだけでなく、産業開発を推進する企業体的な側面があるというのは、北海道の開発からの共通点かも知れない。植民地統治機構のこの性格についてはもう少し掘り下げて調べてみても面白いかも知れない



 1910年代後半、朝鮮大豆の移出量は急増する(1914年、50万石、19年、130万石)。それは、第一次世界大戦の影響で大豆相場が急騰したからである。移出量は、以後も高い水準で推移し、1930年代、移出対生産比は2-3割にのぼった。(p.55)


この点も北海道と共通ではなかろうか。



 共産主義(マルキシズム)と反共的国家主義(ファシズム)はまったく相反する思想のようにみえる。しかし全体主義(totalitarianismあるいはcollectivism)という点では、そうではない。全体主義の核心は、個人の自由な政治・経済活動を禁じ、国家にすべての権力を集中することである。共産主義と反共的国家主義は、この特徴を共有する。
 ……(中略)……。
 帝国崩壊後の北朝鮮では、大きな混乱なしに政治体制の転換が進んだ。その要因のひとつがここにある。体制転換は、統治の理念あるいは精神の根本的変革を必要としなかったのである。
 戦前朝鮮には、内地以上に自由主義の精神が乏しかった。戦時期、それまでにかなりの発展をとげた市場経済・自由企業制度が破壊されると、全体主義が政治、社会、思想、そして経済を支配した。この上に、ソ連が共産主義を移植した。それゆえ、相対的に少数の異分子、すなわち自由主義的知識人、宗教信者とくにキリスト教徒、企業者を放逐すれば、北朝鮮内部に体制を揺るがすものは残らなかった。
 このように戦時・戦後北朝鮮は、全体主義イデオロギーの点で連続していた。
(p.178-179)


なるほど。共産主義とファシズムが全体主義という点では共通しているというのは、以前から同意見であるが、現在の北朝鮮は戦前の大日本帝国と地続きに形成されてきたという視点は参考になった。


飯野謙次 『仕事が速いのにミスしない人は、何をしているのか?』

 ミスは、そのものによる物理的な損失やダメージもありますが、それ以上に「あなた=ミスをする人」というイメージが、何よりも恐ろしいのです。(p.26)


確かに。こうしたイメージが定着してしまった人には、重要な仕事を任される機会が少なくなり、結果として、やりごたえのある仕事をする機会が減るため、仕事の面白みが少ない生活をしなければならなくなる、というのが非常に大きなデメリットであると思われる。



 注意力を求められるとき、煩雑な作業が発生するときには、そうしなくていい方法を考える
 それが失敗を撲滅するための一番の近道なのです。(p.42)


これは確かにその通りなのだが、あまりに自動化しすぎると、人事異動に耐えられるシステムとして機能しにくくなることなどもあり、いろいろな要素が絡み合うところが難しいところであるように思う。



 ダブルチェックは、1回目のチェックと同じ動作を繰り返すのではなく、その方法や見方を変えて行なうことに意味があるのです。
 ……(中略)……。
 まず、最初の計算は実際に入力しながら紙に打ち出します。そして検算のときには、打ち出した紙に印刷された数字と、手元の数字を見比べるのです。(p.58)


こうしたやり方は、私がこれまで経験した職場ではやっているものとやっていないものがあるので、今後は基本的に違うやり方でダブルチェックするべきだという考え方をより貫徹することにしよう。



 でも、折れ線グラフにして視覚に訴えると、数字だけでは見えてこなかったデータの齟齬にいち早く気づくことができます。(p.61)


エクセルを使ったチェックの方法として参考になる。



 何か問題を抱えているおき、適切な方法が見つからなくて悩んでいるときには、自分が今、抱えている問題を、なるべくわかりやすく専門外の人に説明することを心がけてみてください。話すうちに、自分の中で解決法が見出せることも少なくありません。(p.175)


なるほど。


梶谷懐、高口康太 『幸福な監視国家・中国』

 話を戻すと、勘のよい読者であればおわかりのように、筆者らは人々のより幸福な状態を求める欲望が、結果として監視と管理を強める方向に働いているという点では、現代中国で生じている現象と先進国で生じている現象、さらには『すばらしい新世界』のようなSF作品が暗示する未来像の間に本質的な違いはないと考えています。(p.28)


ここで述べられているのは、本書に通底する一貫した考え方だが、現代中国をいわゆる「先進国」と異質な世界として捉えるのではなく、地続きの世界の中で同じ方向に向かいつつある社会として捉えるという見方は、日本から中国を見る際には重要な留意点であると思われる。(もちろん、異質な部分もないとは言えないが、異質なだけの社会として思い描くと大きな誤りを犯すことになる。)

その際、監視社会化の関連では、個人が自らの幸福(効用)を追求しようとするという功利主義的な考え方が、むしろ全体の厚生を下げる結果をもたらすという指摘がされており、これもまた重要な論点であると思われる。このように考えると、中国がなぜ他の社会よりも早く監視社会化が進んでいるのかということもクリアに理解できるように思われる。



官僚主義の代表的な弊害である縦割り行政を、制度改革ではなく電子化によって乗り越えようというのが「現代中国」らしいやり方です。(p.61)


行政の手続きを利用する際に、かつては様々な役所を決まった順番で回らなければならず、日数や労力が必要だったが、スマホアプリだけで様々な手続きができるようになっていることなどについてのコメント。制度改革をせずに対応するという部分は確かに、権威主義的な国に相応しいように思う。



 ここには独裁政権ならではの逆説があります。独裁国家は民主主義国家ではありませんが、それでも民意を無視できるわけではありません。むしろ、選挙で正当性を担保されていない分、民主主義国以上に世論に敏感という側面があります。究極的には暴力的な弾圧を行う力と選択肢を持っていたとしても、民衆は独裁政権を支持しているという建て前を可能な限り守る必要があるのです。(p.126)


中国の政府(というより共産党)が情報統制や監視をしようとするのは、こうした敏感さの故である。実際には正当性がないからこそ、民衆を恐れなければならず、民衆を恐れるからこそ情報や言論を統制し、批判が起きないようにしなければならない。選挙で選ばれたとしても、やろうとしていることを正直に国民に伝えていないような政府(安倍政権がまさにそれである)も、同じことが当てはまるということは指摘しておきたい。



 そこで注意しなければならないのは、このような経済面での「平等化」と、トクヴィルの強調した政治的権利の「平等化」とでは、特に権力との関係において反対方向のベクトルが働くという点です。
 そのため端的に言えば、中国社会においては往々にして、前者の「政治的権利の平等」を要求する立場(リベラリズム)が、後者の「経済的平等化」を要求する声にかき消されるか、あるいは政権によってあからさまな弾圧が加えられる、という状況が生じてきました。
 経済面での「平等化」、すなわち再分配を行うには大きな国家権力による介入を必要とします。したがって、経済面における「平等化」の要求は、国家権力を制限するのではなく、むしろパターナリズムを容認し、強化させるように働きがちです。上述のように「群体性事件」と呼ばれる直接的なデモ行動や陳情行為が、しばしばより高い政治的地位にある「慈悲深い指導者へのお願い」の形をとるのはその象徴です。(p.164-165)


経済的平等化は国家権力によるパターナリズムを強化する傾向があるという指摘は確かにそうかもしれない。