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アヴェスターにはこう書いている?
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李乾朗 『台灣近代建築 起源與早期至發展 1860~1945』

 在1911年以前的臺灣近代建築為樣式建築之全盛時期,其中以郵局及縦貫鐵路之車站為最多。(p.44)


1911年以前の台湾近代建築は様式建築の全盛期だったが、その中でも郵便局と縦貫鉄道の駅が最も多かったということだが、郵便局と駅というのは、まさに通信と交通のインフラの整備が進んでいた時代だったことを反映していると思われる。その時期はまだモダニズムが流行する前の時期だった、ということだろう。



1911年台北市發生前所未有的大水災,街屋倒塌不計期數,尤以府前街(重慶南路)、石坊街(衡陽路)、及府直街(開封街)嚴重。日人當局遂利用這個機會從事街屋的全面改建。(p.92)


1911年台北市で多くの家屋が被害を受けた大水害の機会を利用して、日本当局は全面的に都市計画を策定していった。台北の成り立ちの歴史という点ではこれは一つの転換点だった思われる。



 至於本島人居住區迪化街一帶的街屋雖也在這時完成立面改建,但與城內的日本商店建築卻呈現不同的風格。看起來比較接近清末五口通商之後的樣式風格,有事略带一點拜占庭裝飾之意味。這是非常有趣而值得深入研究的分野。(p.92-93)


1911年の水害の頃、日本人の居住エリアはバロック的な都市計画によって建て直され、清末の頃の家屋が取り除かれることとなったのに対し、台湾人(当時の本島人)の居住エリアはどうだったのか、ということが述べられる箇所。台湾人の居住区だった迪化街の一帯などでは城内の日本焦点建築とは異なるスタイルのものが現れた。そのスタイルは清朝末期の五口通商後に現れたスタイル(日本で言う偽洋風建築のようなものの中国版というか台湾版のようなもの)に近く、ビザンティン的な装飾のような感じを帯びているようにも見える、というような意味合いか。台湾人居住エリアで偽洋風的なものが出てきたのは、清末の建築に関わった職人やその助手などで作業に従事していた人々(本書によると、その多くは大陸に帰ってしまったというが)が若干でも残っていて、そうした技術が再度使われたのかもしれない。



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ポール・コリアー 『民主主義がアフリカ経済を殺す』

所得の高い国々から最底辺の10億人の国々へ、マラリア・ワクチンが提供されるべきなのと同様、安全保障と政府のアカウンタビリティーの提供もそうあるべきだ。ワクチンも安全保障もアカウンタビリティーも、そうしなければ慢性的に供給が足りない公共財なのである。それらが適切に供給されて初めて、最底辺の10億人の国々は本物の主権に対する野望を達成できる。(p.17-18)


アカウンタビリティが公共財であるという発想は斬新に思えた。本書の随所での議論で登場するこの考え方は参考になったし、世間でも常識化していくことが必要なのではないかと思われる。本書は「最底辺の10億人の国々」を対象としているが、現在の日本の政治状況(アカウンタビリティという公共財を政府自身が私利私欲のために破壊し続けている)を理解し、改善していくためにも、この考え方は有効であると思われる。



 さて、所得水準が中程度以上の国のほうが安全だというのはわかったが、所得が上がることがどれだけ好影響につながるのかは、すべて社会の民主化の度合いに左右されることも明らかになった。それどころか特筆すべきは、民主主義が不在なところでは、社会が裕福になり始めると政治的暴力の発生する傾向が増していた民主主義国では所得の増加とともに安全度が増し、独裁下えは危険度が増す。これを手がかりに、二本のラインが描けるだろう。所得が上がると安全度も増すという民主制の右上がりのラインと、逆に所得が増えると安全度が下がる独裁政権下の右下がりのラインだ。民主主義が暴力に対して、正味の影響をもたらさない所得水準は一人当たり年間所得2700ドルだが、これは単純に二本のラインが交差するポイントだ。これを現代で最も著しい所得の変化があった国に当てはめると、中国がその境界を超えたところで、最近では3000ドル超まで急上昇した。つまり中国がこのまま進んでいくと、民主化を遂げないかぎり年を追うごとに、その目覚ましい経済成長が政治的暴力の傾向を高めるといえよう。(p.29)


本書は2009年に原著が出ているので、中国の状況は10年以上前のデータに基づいて述べられているが、最近10年の中国を見ると、本書の指摘は当たっているように見える。新彊やチベット、最近の香港などに対して中国政府が行っていることを見るだけでもそれは十分理解できるが、習近平が、その任期を撤廃したことなど、より強権的な体制を確保していることなども、こうした流れと共にある。

民主的な体制は所得が低い国ではうまく機能するのが難しいという事実の方を、本書では主に主題として扱っているが、昨今の中国の勢力伸長や日本やアメリカを含む各国での民主化の後退を見ると、高所得国では独裁的な体制の危険度がより高いということも、注目すべき課題であるように思われる。



 このように、ナイジェリアの政治家たちは社会的秩序を乱す戦略を明らかに使って、選挙に勝利していた。この意味するところを考えてみよう。こうした不法な戦略が使える以上、選挙競争がアカウンタビリティーをもたらすことはないし、民主主義が無節操な方法で勝った政治家たちに、正統性をもたらすこともない。敗北した候補たちは「お見事、選ばれたのはあなただ」とは言わず、「だましたな」の一言で暴力に訴えることだろう。言い換えれば、民主的選挙はそれ自体では暴力の解決手段になりえないし、適正な政府の創出というより大きな課題の解決方法にもなりえない。それ自体では民主的選挙は、政治家を堕落させる処方箋でしかない。その可能性があるどころではない。選挙競争が生むものは、政治的生き残りを賭けたダーウィン的な弱肉強食の戦いで、そこで勝者になるのは最もコスト効果の高い集票手段を採用した者だ。そして抑制のないところでは、最もコスト効果の高い手法がそのまま、良きガバナンスを意味するわけではない。善良なガバナンスという選択肢の優先順位は先のリストのなかでは確実にずっと下のほうにあるのだ。(p.54-55)


本書では、まずアカウンタビリティを確立し、その後に選挙を導入することを主張しているが、この指摘は的を射たものだと思われる。もちろん、アカウンタビリティを先に確立すること自体も簡単なことだとは思わないが、選挙をとにかくやれば民主的に代表が選ばれたことになる、という信仰は、事実にそぐわないということは最低限理解すべきことだ。

これは最貧国に対して当てはまるだけでなく、日本にとっても教訓とすべき内容を含んでいる。安倍政権は7年8カ月に選挙で勝つことによって政権を維持してきたとされるが、そこで使われていたのは、最貧国で使われるものと必ずしも同じではないにせよ、「不法な戦略」であった点では何も違いがなく、そうした「不法な戦略」を使ったからこそ、選挙に勝ち続けることができたのだから。

権力者が自分が有利なときにいつでも総選挙をすることができるかのように振舞ってきたことは明らかに問題である。なお、安倍が辞任を表明し、その後の自民党総裁選のプロセスなどを見ても、「不法な戦略」に近い、すでに権力を持っている側にとって得になるやり方をわざわざ選択したし、それができることを見越して辞任したことはほぼ明らかだろう。病気が本当の原因だとは誰も信じていないだろう。(メディアでは、病気がどれほど悪いかを確定する手段がないために、あたかも本当に病気が原因だったかのように振舞いながら疑義を呈する、というのが精一杯という報道のあり様だが、今までの経緯を考えれば疑義を前面に出しながら、一方で本人は病気だと言っているという程度の扱いとするのが妥当だろう。)

こうしたことができなくすることで公正な選挙というものが可能となるのだが、こうした不正や不法行為をできなくするために必要なのがアカウンタビリティなのである。安倍政権はそれを徹底的に潰してきた。極めて悪質で有害だと言わざるを得ないし、菅政権はそれを引き継いでいき、日本をさらに悪い国へと落としていくことが予想される。



この結果、改革の可能性が最も高いのは、過去の、そして未来の選挙からも最も遠い時期だということが明らかになった。なぜだろうか。おそらく、選挙後の最初の年や次の年は、政府はまだ発足したてで改革に着手できず、一方で次期選挙が近づけば、政府は次の選挙での勝利に心を奪われ、改革に手を出さなくなるからだろう。大半の改革は、見返りがもたらされるまでに数年かかるが、選挙後にならないと現れない効果には、政治的利益はほとんどないということだ。
 この結果にはいささか失望した。選挙が刺激というよりお、ある意味、障害になっていることが示されたからだ。(p.59)


これもまた安倍政権を想起させる振る舞いだろう。改革と言うと聞こえは良いが、これは良くなるか悪くなるかは別として、政策などを変えること一般として捉えるべきだ。



 それでは、軍事費は必需品か、贅沢品か。政治家たちは、軍事安全保障こそ最優先すべき重要項目だとわれわれに繰り返し語る。経済学の定義からいえば、最優先の重要課題とは生活必需品の確保だ。相対的に必要度の低いものの購買を犠牲にしても、買わざるをえないものだ。軍事費が最優先項目であるためには、そのような必需品でなければならない。これは真偽を確かめねばならない命題のひとつだ。時折ほとんど定理のような自明の理が誤りだったことがわかるように、こういう場合調べてみるにかぎる。そして実際に、この命題は誤りで、軍事費は明らかに贅沢品だった。所得増加に対する比例増加よりもずっと大きな割合で、軍事費は増大していた。(p.147)


軍事を優先(拡大)しようとする人はしばしば現実主義者(リアリスト)を自称するが、彼らには必ずしも事実は見えていない、ということは指摘できるかもしれない。(私見では、彼らはむしろ不安に駆り立てられているだけで、現実を見る目は曇っていることが多い。)



 銃は内戦を阻止しうるだろうか。……(中略)……。根本的な解決法も同じで、軍事費には影響を与えるが、それ以外に内戦リスクには影響しない要素を見つけるのがよい。科学的な粉飾に熱心な経済学の専門用語でいえば、このような影響は「インストゥルメント」と呼ばれる。原理上は、そうした影響にのみ由来する軍事費の差から、軍事費がリスクの変化を引き起こしているかどうか、つまり抑止力となっているかどうかを言い当てられる。
 この手法に従った結果、われわれは軍事費は抑止力になっていないと結論づけた。それどころか、認知できる軍事費の影響があるようにはみえなかった。……(中略)……。われわれは政府の軍事費が、紛争後の情勢で特異的な効果を生んでいるかどうかを調べた。すると確かに顕著な違いはみられたのだが、それは予測に反し、暴力の抑制とはほど遠かった。紛争後の政府による高額の軍事費は、逆に暴力を誘発していたのだ。(p.150-151)


軍事費のこうした側面にも十分に注意を払うべきなのは、経済力がある国でも同じであるように思われる。



アカウンタビリティーや民族国家建設以前に、選挙制度を導入してしまった順番は根本的に誤っていたのだ。現在成熟している民主主義国家ではその順は逆で、アカウンタビリティーのほうが、競争選挙よりもかなり以前に存在していた。
 アカウンタビリティーが不在なところでは競争選挙は明らかに、それに続くはずの公共財の供給を妨げる。社会はいっそう多極化し、今権力の座にある指導者たちが権力維持の戦略を駆使するようになる。そうした戦略は彼らに、アカウンタビリティーを遠ざけることを要求する。(p.246)


この部分は、本書の結論の一つと言ってもよいような部分だと思うが、現代日本の政治にあまりに見事に当てはまっているので驚いた。つまり、後段は安倍政権がやって来たことに見ごとなほどに当てはまる!

まず、安倍政権が権力の私物化をしていたことは明らかである。(これを否定したい人は、政権が森友・加計・桜を見る会などの疑惑に対して根拠に基づいた説明をしなければならない。)安倍政権がアカウンタビリティを完全に蔑ろにし続けてきたことも事実である。社会や言論の分断などを利用して不法ないし不当な方法で選挙を行い続けてきたことも確かである。

日本の政治状況は極めて危機的な状況にあると言える。おそらく菅政権の元でそれは悪化していくだろう。馬脚を現して早期に退陣に追い込まれることを期待する。



彼らの国家は通常、安全保障における規模の経済を得るには小さ過ぎ、各国内の平和の維持に苦心している。瞬時にできた国家なので、昔からある民族や宗教といった社会的アイデンティティーと競合できるほど強固な国家のアイデンティティーを創造できている例はほとんどない。結果的に、安全保障を確立するには小さ過ぎるが、公共財の供給に極めて有効な社会的一体性を保つには大き過ぎる。よって、公共財の供給が不足している。
 これまで繰り返しみてきたように、欠落している公共財のひとつは、政府のアカウンタビリティーだ。米国とは対照的に最底辺の10億人の国々の政府は、国内的なチェック・アンド・バランスを受けていない。彼らが自分たちで政府のアカウンタビリティーを供給できないならば、国際社会が供給するほうが、まったくないよりはましだろう。(p.262)


最底辺の10億人の国々は安全保障を確立するには小さ過ぎ、社会的一体性(これが公共財供給に繋がる)を保つには大き過ぎる。欠落している公共財の一つがアカウンタビリティであり、これを国際社会が提供するというアイディアは、今まで私としては思いつかなかったもので興味を惹かれた。



片倉佳史 『台灣日治時代遺跡』

明石在擔任台灣總督的翌年秋天,就感染了流行性感冒,發燒熱度一度無法下降,身體狀況不佳,因此曾回家鄉福岡靜養,但後來併發腦溢血,於同年十月二十四日去世,享年五十六歳。(p.26)


明石は1918年に台湾総督になり、その翌年にインフルエンザにかかった。時期的に言ってスペイン風邪ということになるのだろう。本当にこの前後の年でインフルエンザで亡くなった人は多いと感じる。(明石の場合は直接の原因ではないのかもしれないが。)



 台北帝國大學於一九二二年(大正十一年)依據台灣教育令決定創校,據說當初在決定校名時,原本有意效法「北海道大學」、「九州大學」等,取個帶有區域性名的校名,但是日本當局考慮到若稱為「台灣帝國大學」,恐會被誤解成台灣是一個帝國,因此最後取名為「台北帝國大學」,並於一九二八年(昭和三年)三月十七日正式創校。(p42-43)

台北帝国大学の校名について、興味深いエピソード。私も「なぜ台湾帝国大学ではないのだろう?」と疑問に思っていた一人だが、この説明は腑に落ちた。当時の日本政府にしてみると、台湾が一つの帝国であるかのように誤解される恐れがあるということだが、究極的には、それが独立に繋がることを恐れたということであろう。

北海道はそうした恐れが持たれずに北海道帝国大学になったのに、台湾はそうではなかった、という点はさらに興味深いところ。植民地化してからの時間の経過が違うという点のほか、北海道のアイヌは人数がかなり少なかった(統治前から減っており、弱体化させられていた)のに対し、台湾は日本人はいわば少数民族として統治に乗り込んでいった形であることが大いに影響しているものと思われる。


内藤葉子 『ヴェーバーの心情倫理 国家の暴力と抵抗の主体』

実際のところ、E・ハンケや牧野が指摘するように、ヴェーバーが責任倫理を導入したのは最晩年の講演「職業としての政治」の加筆原稿においてである。厳密にいえば、ヴェーバーは責任倫理の内容について多くを語ったわけではない。ここには、それまで使っていた「結果倫理」や「結果に対する責任」や「<権力>責任政治」ではなく、なぜ最終的に「責任倫理」という概念を導入したのかという問いが現れるだろう。
 また心情倫理をいったん『職業としての政治』から切り離して見直すことも必要である。というのも、心情倫理は『職業としての政治』以前に宗教社会学研究を通じてすでに用いられていたからである。(p.11)


心情倫理と責任倫理は対になるものとして見なされる傾向があるが、それに対し、本書は批判的な視点を提供している。この点は本書の特色。責任倫理がメインで、心情倫理はそれを補完するような位置づけで語られがちであり、私自身もそうした理解を持っていたが、そもそも心情倫理は責任倫理が登場する前から使用されている概念であり、(職業としての政治では否定的な評価がされているが、)そこでは否定的な評価が下されていたわけでもないと本書は言う。そうだとすれば、責任倫理とは切り離して考えることは確かに必要だと思われる。



Ge-は集合名詞をつくる接頭語であり(ex., Berg(山)→Gebirge(山脈))、元来はHaus(家)の集合としてのGehäuse(家々)という意味をもった言葉である(p.87)


倫理論文の末尾に現れる「鉄の檻」と訳されたことがあるGehäuseについての注釈だが、もともと家Hausの集合名詞だと分かると、解釈のニュアンスもつかみやすくなった感じがする。



 第四に以上の見解から、責任倫理は、心情倫理が現世の倫理的非合理性に対して応答する倫理であり、かつそれが政治的領域のなかで露呈させる問題性を十分に認識するからこそ、あらためて導入されたと考えらえることである。(p.243)


心情倫理が政治的に問題を露呈するという認識に基づき責任倫理という概念が『職業としての政治』において新たに導入されたという。なるほどと思わされたところ。


加藤聖文 『満鉄全史 「国策会社」の全貌』

 この東北・満洲に対する過敏な中国とそれとは正反対の無自覚な日本というギャップこそが現在噴出している日中歴史認識問題の根底にあり、このギャップが存在することすら自覚されていないことが現在の日中関係をより深刻なものとしているのではなかろうか。(p.223)



日本側が満州や中国東北地方に対して関心が十分持たれていないことは私も感じており、それが逆に関心を引く一つの要因でもあったのだが、中国側では満州に対して過敏であるというのは、あまり認識していなかったので、参考になった。中国が過敏である理由は、上記の個所の少し前に記載されている次の引用文の個所に集約されているように思う、。



 現在の中華人民共和国は、陝西省延安に根拠地を置いた毛沢東に率いられた中共軍が蒋介石の国府軍を打倒して打ち立てたものであって、のちの文化大革命の混乱期のなかで失脚していった林彪や劉少奇が根拠地として育成し、ソ連の援助が流れ込んだ東北があったからこそ革命は成功したとする東北革命根拠地説は否定されているように、中国にとって東北はきわめて微妙な問題を抱えている地域なのだ。(p.221-222)


確かに、毛沢東の共産党対蒋介石の国民党という図式で中国の近代史は語られがちである。しかし、それは共産党が大陸を制圧した後、内部の権力闘争で毛沢東が勝って独裁的な権力を手にしたことと関係した一種の「勝利者史観」により正当化された図式だったりする。改めて指摘されてみると、東北地方が国共内戦において果たした役割は小さいとは思えない。中国では事実ではなく政治的な理由に基づいて否定されているであろう「東北革命根拠地説」は、少なくとも勝利者史観だけで説明される事態をより相対化してみるためには有益な仮説である。


鈴木勇一郎 『おみやげと鉄道 名物で語る日本近代史』

つまり、乱暴に整理すると、日本のおみやげは自らの旅の証を他人に配るもの、西洋のスーベニアは自分のためのメモリアルという区分ができよう。(p.15)


日本の「おみやげ」と西洋の「スーベニア」は似ているが違う部分があるという指摘は興味深かった点。私自身は海外に行くときは、この図式で言うと、「おみやげ」はほぼ買わず、「スーベニア」を買っているということになる。



だが、数多くの国民が国土の内外を広域に移動する戦争は、結果として、おみやげの知名度を広げる機会となったことは、否定できないだろう。(p.135)


戦争とおみやげという着眼点は参考になった。



特に、台湾中部の都市、台中では、養老饅頭、台中せんべい、台中饅頭、名所羊羹、五州羊羹、日月潭羊羹、桜羊羹など、日本内地も顔負けな名物菓子が目白押しである。
 古くからの台中の歴史は比較的浅く、本格的な整備がされるのは、日本統治時代以降のことであった。台中が都市として大きく発展していく大きなきっかけとなったのが、明治41年4月20日に行われた、縦貫鉄道の開通式であった。つまり、台中は、鉄道がその発展に大きく寄与してきた都市であった。
 なお、この町では、現在でも太陽餅が名物菓子として知られる。鉄道とのつながりの強さが、台湾の中でも特に名物を発展させた背景の一つにあるのかもしれない。(p.147-148)


かつて台湾人の友人が台湾の主要都市について論評(紹介)してくれる中で、「台中是好吃的城市(台中はおいしい街)」と言っていたことが、私の中でどうしてそうなのか腑に落ちずにいた。本書でも確定的なこととして言っているわけではないが、こうした背景が要因となっているとすれば、納得できるように思う。太陽餅も(皮がボロボロこぼれやすいのを別とすれば)程よい甘さでおいしいのが思い出される。



 戦時体制期は、旅行をはじめとする行楽が厳しく制限され、観光地におけるさまざまな需要が冷え込んだ時代という認識が広くなされてきた。しかし、近年では、こうした戦時体制期の行楽のイメージの見直しが進んできた。実際には、心身の鍛錬や神社の参拝、奉仕などを名目として、各地の観光地の訪問客は急増していたのである。(p.165-166)


興味深い指摘。名目として説明できるような形で実施されるということは、パターンはある程度限られそうな気がする。



ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド 『ファクトフルネス』(その2)

 急激な経済発展と社会的進歩を遂げた国のほとんどは、民主主義ではない。韓国は(産油国以外で)世界のどの国よりも急速にレベル1からレベル3に進歩したが、ずっと軍の独裁政治が続いていた。2012年から2016年のあいだに経済が急拡大した10ヵ国のうち、9ヵ国は民主主義のレベルがかなり低い国だ。
 民主主義でなければ経済は成長しないし国民の健康も向上しないという説は、現実とはかけ離れている。民主主義を目指すのは構わない。だが、ほかのさまざまな目標を達成するのに、民主主義が最もよい手段だとは言えない。(p.258)


この見解については、私も以前から同意見であった。ただ、経済の成長が社会の生活水準や公衆衛生の水準を上げるものであり重要だとしても、政治生活はより高度な精神生活の充実度と関係しているのではないか?という問いも提出しておきたい。

言論の自由も政治への参加の自由もない社会に住みたいとも思うだろうか?非民主的な体制の下にいる人々の経済が良くなっていること自体は良いことだと言えるだろう。しかし、それは非民主的な範囲内だからこそ改善していると言えるのであって、民主的な世界から非民主的な世界に移行したいと思う人がいないというのも、また事実だろう。この方向性をあまり軽視するのは問題があると言える。

さらに、非民主的な国々の所得が上がっていくことによって、国際政治的にもそれらの非民主的な国々が力を持つようになってくると、国際政治を国内政治と同じように力による支配で押し通そうとすることが増えることが懸念される(中国の南シナ海や東シナ海での行動が日本人にはわかりやすいだろう)。つまり、非民主的な国が経済発展を続けることは国際環境が悪化することに繋がるという懸念がある。よって、経済の発展だけでなく、政治的な民主化も同時に進めなければならない課題であり、片方が良くなっているのだからよくなっているというのは楽観論すぎるように思われる。



 わたしたちは犯人捜し本能のせいで、個人なり集団なりが実際より影響力があると勘違いしてしまう。誰かを責めたいという本能から、事実に基づいて本当の世界を見ることができなくなってしまう。誰かを責めることに気持ちが向くと、学びが止まる。一発食らわす相手が見つかったら、そのほかの理由を見つけようとしなくなるからだ。そうなると、問題解決から遠のいてしまったり、また同じ失敗をしでかしたりすることになる。誰かが悪いと責めることで、複雑な真実から目をそらし、正しいことに力を注げなくなってしまう。(p.264-265)


ネトウヨによる朝日バッシングなどは、この典型例だろう。



 犯人捜しには、その人の好みが表れる。人は自分の思い込みに合う悪者を探そうとする。では、世の中でいちばん悪者扱いされる人たちを見てみよう。悪どいビジネスマン、嘘つきジャーナリスト、そしてガイジンだ。(p.265-266)


これを押さえておくと、逆に3つの類型に当てはめられるような対象を叩いている人は、犯人捜し本能に囚われている疑いがあると見ることもできそうである。



 物事がうまく行かないときには、「犯人を捜すよりシステムを見直したほうがいい」と訴えてきた。では、物事がうまくいったときはどうだろう?そんなときには「社会基盤とテクノロジーという2種類のシステムのおかげだ」と思ったほうがいい。(p.278)


同意見。社会システム論的な見方が役立つ所以。



物事がうまくいったのは自分のおかげだと言う人がいたら、その人が何もしなくても、いずれ同じことになっていたかどうかを考えてみるといい。社会の仕組みを支える人たちの功績をもっと認めよう。(p.283)


妥当。



幅跳びの選手が自分で記録を測ることは許されない。それと同じで、現場で対策にあたる組織は、どのデータを公表するかを自分たちで決めてはいけない。現場の人たちは、資金欲しさにデータを捏造するかもしれないからだ。だから、データの信頼性を担保するには、進捗を測るのを現場だけに任せないほうがいい。
 エボラ危機がどれほど深刻かを教えてくれたのは、データだった。最初のデータでは、感染の疑いのある人の数が、3週間ごとに2倍になっていた。そして、エボラへの対策が効いていることを教えてくれたのもまた、データだった。確認された感染者数は減っていたのだ。データがすべての鍵だった。これからも、どこかで感染症が猛威をふるったときには、データが鍵になるはずだ。だからデータそのものの信頼性と、データを計測して発表する人たちの信頼性を守ることが、とても大切になる。わたしたちはデータを使って真実を語らなければならない。たとえ善意からだとしても、拙速に行動をよびかけてはいけない。(p.300)


数日前、安倍晋三が首相を辞することを発表したことにより、メディアでは安倍政権の功罪が語られる場面がある。私に言わせれば、功の部分はほぼない。アベノミクスなる経済政策があり、それが功を奏したなどと浅はかな見解が述べられることがある。しかし、異次元の金融緩和と日銀による事実上の国債の買い入れによって、株価が持ち直し、財政赤字を気にせず支出できるようになったということはあったかもしれない。が、株価の高止まりは年金の財源を回したことによる下支え効果なども大きく、それはほとんどすべての国民の老後の生活を後々になって破綻させる可能性を増大させるという破綻の先送りに過ぎない面があることや、財政についても財政破綻を先延ばしにしたものであり、これから10~20年ほどしてから問題が表面化してくるだろう、という類のものだと考えると、とても功があったと言える代物ではない。(GDPの統計にも操作が加えられたことも忘れるべきではない。)単に面倒を先送りして、自分の政権の間だけ一見良くなったかのように見せかけただけ、というものでしかない。

それに比べて罪は数えきれない。内閣による数々の憲法違反と明白な権力の私物化、さらに、それらの明白な罪を認めないで終わったこと。それを明らかにさせるためのマスメディアに対する威圧(安倍政権はこの威圧から始まっていたことを想起されたい。政権開始当初、かなりマスメディアに対して圧力をかける言動が多かったことを覚えている人は少ないと思うので、このことをもっとクローズアップすべきだ。)や質問に対する回答拒否の数々(回答しないということは権力の正当性がないことを意味する)。そして、内閣人事局の設置(それによる官僚とグルになって有権者たちの目を欺こうとする姿勢の定着)を忘れてはならないだろう。

こうした罪の中の一つに、政府とその公文書に対する信頼の決定的な失墜を上げるべきであり、コロナ対応にもそのダメさ加減が表れている。なお、辞任は病気を理由としているが、困難に対して対応する能力がなく、権力の座にいる旨みがなくなったので、自分がダメージを受けないうちに逃げた、というのが妥当な評価であろうし、それを否定するような要因は出て来ないのではないかとも考えている。



レベル1の国では、民主主義によって、国は安全になるどころか不安定になることは、『民主主義がアフリカ経済を殺す――最底辺の10億人の国で起きている事実』(2010年、甘粕智子訳、日経BP社)に詳しく描かれている。(p.359)


他国から干渉しやすい体制であることが、その要因のひとつではないか。この本も読んでみたい。


ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド 『ファクトフルネス』(その1)

 高層ビルの上から見下ろすと、低い建物の高さの違いがわかりにくい。どれも同じくらい低く見える。同じようにレベル4の人々には、世界が金持ち(あなたがいる高層ビル)と貧乏人(低い建物)に分れているように見える。下界を見下ろして「みんな貧しいんだね」と言うのはたやすい。車を持っている人、バイクを持っている人、自転車を持っている人、サンダルを持っている人、履くものすらない人の違いがわからなくなる。
 しかし「下界」に住む人にとって、レベル1とレベル2、レベル2とレベル3の違いは非常に大きい。(p.58)


上から見ると下は見えにくい(見えにくいから同じに見える)ということについて、非常に直観的に理解できる比喩。参考になる。



統計を読み解く際には、「数値の差が10%程度かそれ以下である場合、その差を基になんらかの結論を出すことには慎重になるべき」と覚えておこう。(p.64)


これも分かりやすい指針。こういうところも、いかにもベストセラーらしい。



 世界のいまを理解するには、「悪い」と「良くなっている」が両立することを忘れないようにしよう。(p.90)


本書の大きなメッセージの一つは、多くの人の想定に反して「世界は少しずつ良くなっている」ということである。世界の中には経済的な貧困がまだ残っており、状態として「悪い」生活環境に置かれている人はまだ多い。しかし、そのことと世界の人々の生活水準は基本的に良くなっているということは両立できるし、現にそうなっている、というわけだ。



 レベル1にいる、毎日1ドルで生活する人にとって、その1ドルの価値は大きい。毎日1ドル余分に稼げれば、新しいバケツを買うことができる。そうすれば、まったく違う暮らしができる。しあkし、レベル4にいる、毎日64ドルで生活する人にとっては、1ドル余分に稼いだところで何も変わらない。しかし、毎日64ドル余分に稼ぐことができれば、庭にプールをつくったり、別荘を買ったりすることができるかもしれない。そうすれば、ひとつ上の暮らしができる。
 世界はとても不公平だが、どんな暮らしをしている人も、所得が倍になると暮らしが変わる。だから、所得が増えるにつれ、レベルアップに必要なおカネは何倍にもなる。(p.125)


所得が2倍になれば明らかにレベルが上がるというのは、言われてみれば、という感じがする。もともとの生活レベルに応じて、次のレベルに行くための所得水準も違っており、上に行くほどより多くの所得が必要になるという仕組みが直観的によくわかる。この分かりやすさは確かに本書の凄いところの一つであると思う。



 わたしたちの先祖の命を救ってくれた恐怖本能は、いまやジャーナリストたちの雇用を支えている。かといって、「ジャーナリストが悪い」とか「ジャーナリストが行動を改めるべき」という指摘をするのは筋違いだ。メディアが「人々の恐怖本能を利用してやろう」と考える以前に、わたしたちの恐怖本能が、「どうぞ利用してください」と言っているようなものなのだから。
 わたしたちがやるべきことは、見出しの陰に隠れている事実に目を向けることだ。そうすれば、恐怖本能がいかにして、「世界は怖い」という印象を人々に植え付けるかがわかるだろう。(p.137)


「マスゴミ」というような言説が蔓延る中、本書では、人々が事実を知らないことについて、マスメディア(ジャーナリズム)に過度に責任を負わせないスタンスが特徴的である。これは不当なマスメディア批判と比べると相対的には妥当であるとは思う。

しかし、本書が言うように、個人が「見出しの陰に隠れている事実に目を向ける」という解決方法では、物事が解決することはないだろう。これは「強い個人の仮定」に立っているため、社会一般に広がることが期待できない。仮にレベル4の地域に住み、十分な期間の高等教育を受けている人々だけからなる社会だったとしても、日々の仕事や家事に追われた生活をしている人には、全く現実味のない解決策である。新聞を読んだりニュースを見る時間さえ十分に取れないという人が多い中で、「見出しの陰に隠れている事実」を見るためには、相当積極的な行動が要請されている。単にネットで検索して調べるというだけでは、真偽の不確かな情報に踊らされるリスクも高い。当然、適切な統計情報などにアクセスしなければならないが、リアルタイムで発生している情報については統計すらないことが基本だ。その上、適切な統計statisticsの多くは、基本的には国家stateが取るべきものの一つだが、政権の都合に合わせてく基準を変えたりする日本はもちろんのこと、中国など様々な国の政府が出す統計にはあまり信頼性がない。そこまでの情報を批判的に仕分けるだけの知的能力は、現在の大衆化した大学を卒業した程度の学び方ではほとんどの人には身につかないし、それだけの情報にアクセスする時間も労力も確保することは現実的ではない。

メディアが共同して自主的に指針を策定し、自らに課すことは必要不可欠であろう。この辺りは、筆者が社会科学の徒ではないということから来ている認識不足ではないかと感じる。



 次に、「どんな証拠を見せられたら、わたしの考えが変わるだろう?」と自分に聞いてみよう。「どんな証拠を見せられても、ワクチンに対する考え方は変わらない」と思うだろうか?もしそうだとしたら、それは批判的思考とは言えない。(p.151)


その通りである。これは本来は自己点検のための問いかけだが、ある人の発言を聞いた時、「この人はどのような証拠を見せられたら考えを変えそうだろうか?」と考えてみることも、その人の発言の信頼性を吟味する上で役立つやり方になると思う。



 認識を切り替えるには、できるだけたくさん旅をすることだ。スウェーデンのカロリンスカ医科大学で公衆衛生を学ぶ学生を、わたしがレべル1からレベル3の国々に連れていくのはそのためだ。(p.195)


同意見。所得水準が違う地域に行くというのは特に重要。しかし、ここでもレベル4の国であるはずの日本であっても、外国への旅行を頻繁にできるのは全体の中では多数派とまでは行かないような解決方法である。ヨーロッパのようなバカンスが取れない日本では所得が足りていても仕事の都合で行けなかったり、生活が不安定化している中間層の多くの人びとにとっても現実味が薄くなりつつある方策であるように思われる。



 西洋の発展が当然このまま続くと思い込んでしまうのもまた、宿命本能のなせるわざだ。それに、いまの西洋の経済的な停滞が一時的なもので、またすぐに回復するだろうという思い込みもそうだ。(p.222)


「西洋」を「日本」に置き換えても成り立つ。アベノミクスなるものに期待していた人や2020年頃にGDP600兆円とか言った主張を信じた(信じたいと思った)人は、基本的に本書が言う「宿命本能」に負けた人だと言ってよいだろう。



 いまのイラン女性ひとりあたりの子供の数はアメリカやスウェーデンより少ない。そのことを、西洋の人はどれだけ知っているだろう?西洋人は言論の自由が好きすぎて、それを許さない体制の進歩が見えないのだろうか?自称「自由なメディア」が、世界で最も急激な文化的変化を報道していないことは、少なくとも確かなようだ。(p.225)


この問いは日本にも当てはまる。言論の自由や民主的な体制を重視する立場に立っていると、言論統制がされている非民主的な体制の社会に対して、社会の変化を見ようとしないという傾向があるという指摘は鋭いものがある。

もっとも、本書の言う発展とは経済発展が基本となって生じる生活や公衆衛生の水準、生活習慣の変化といったことが念頭に置かれていると思うが、技術さえマネしていればある程度のところまで行けるものであるから、政治体制とこうした意味での発展はほとんど関係がないと考えるべきだと思われる。

しかし、ある社会が「悪い」政治体制に置かれている中で、生活水準が「良くなっている」と語るのは、すでに本書が述べていた「悪い」と「良くなっている」は両立可能だという論点とも重なってくる。両立することは事実だが、「良くなっている」と言うべきではない場合があることを本書も認めている。その意味では、改めるべき政治体制がある中で、そのことに触れずに生活が改善していることだけを一面的に取り上げてしまうことにも問題があることになる。そうなると、ある程度の時間をかけたドキュメンタリー番組の放送などと言った形でなければ、日々のニュースや情報番組で取りあげるのはやりにくい話題ということになろう。特に、日本や西洋世界などで民主主義が侵食(権威主義等)または暴走(ポピュリズムの抬頭等)する方向にあり、言論の自由も次第に失われつつある情勢の中、これらのない社会のプラスを報道することには抵抗を感じて然るべきであろうと思われる。

また、さらに言うと、言論の自由がない社会についての情報は、その国内から発信される情報が信頼性が低いものであるという問題がまとわりついてくる。言論の自由がある社会よりも、より詳しく十分な取材をしなければ、その社会について真実を見極めにくいという事情もある。

以上、本書の言うことはもっともであり、正しいが、それは容易ではない面もある。必要なのは報道を変えることだけでなく、言論の自由がない体制を転換していく(言論の自由を拡大していく)ということも同時にやっていく必要がある、ということであると思われる。本書では、後者のようなマクロな方針についての関心が希薄な点には問題を感じる。


ポール・レイバーン 『父親の科学 見直される男親の子育て』

多くの家庭において「両親ともにわが子と良好な関係を保っているが、それでも子供は混乱状態にさらされており、しかもその原因はコペアレンティングの関係ということもよくある……二人がお互いを憎み、わが子の愛情と忠誠を独り占めしようとすることがあり得る」。子供に関わるこのような慢性的な争いが、その子供自身に悪影響を及ぼすことは自明の理と言えよう。離婚した家庭の多くはこのパターンが当てはまるが、離婚していない家庭でも、五件に一件の割合でこの争いは起きているとマクヘイルは言う。(p.102)


この場合、離婚するのと離婚せずにいるのとどちらが子供にとって有益なのだろうか?子どもと両親との関係だけでなく、それぞれの親に付属している親族その他のネットワーク、それぞれの経済力や育児方針のあり方とその実態、さらには子どもの年齢や性別など、ケースバイケースすぎて一般化できないようにも思うが、大量のデータで傾向だけでも出ていれば、そこから先に議論を進める手掛かりが得られそうにも思うのだが。



遊び方は変わっても、遊びが子供時代を通じて、父と子の交流の核となっているのだ。
 ロス・バークは、子供たちとの父親の「遊び方」が、子供たちが健康的に成長するカギになると考えている。父親が遊びを支配しようとするばかりで、子供たちの出すシグナルに応えないと、息子が同級生と良好な関係を築くのがより難しくなる、と言う。父親と同じく遊ぶことを楽しんで、しかも父親が「非指示的な」女の子たちは、一番の人気者であるという。また、このような父親をもつ子供たちは、小学校に入学してもスムーズに順応していくと言う。父親がアクティビティーの提案をする、あるいは子の提案に対し興味をもってくれると、子供は粗暴なところがなく優秀で、友人に好かれる。こうした父親は子供たちと活発に遊んでも、権威主義ではない、父親と子供がギブアンドテイクの関係にあるのだ。(p.176-177)


遊びが父と子の交流の核というのは、本書の主張のうち最も重要なポイントの一つだと思う。

それに続く叙述から推すと、子供にとって父親との遊びがどのような関係のもとで行われるかというのは、その子供と他の子供たちとの遊び方のロールモデルを提供しているのではないか。子供は父親が自分に対して示した態度を他の友達にもとろうとすると仮定すれば、それが友達との関係性の良しあしにに自然と繋がっていくことは容易に了解される。



父親という存在は、子供が幸福で健康な大人になれるよう手助けをするためにある。子供たちがこの世界でのびのびと暮らし、やがて成長して彼ら自身が母親や父親になる準備ができるようにすることが、父親の役割なのだ。(p.263)


こうした根本的な考えはなかなか日常的に意識することが難しい面があるが、かなり重要なことなのではないかと思う。子供が父親や母親になろうと思うかどうかは別として、社会や家庭の中で一人前に生きて行くことができるようにすることは親の務めであろう。(親自身が子供に必要とされることで快適に感じており、子供を自分に依存させようとする、という事例を知っているが、それはこうした目標とかけ離れた行為であることが、原理原則を踏まえていると明瞭になる。)


ポール・タフ 『私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み、格差に挑む』

「非認知能力は教えることのできるスキルである」と考えるよりも、「非認知能力は子供をとりまく環境の産物である」と考えたほうがより正確であり、有益でもある。……(中略)……。
 ……(中略)……。子供たちのやり抜く力やレジリエンスや自制心を高めたいと思うなら、最初に働きかけるべき場所は、子供自身ではない。環境なのである。(p.27)


私自身の考え方と近いが、環境の作用ということについて考えることさえない愚かな親というものがこの世にはいて、子どもにだけ焦点を当てて対応している事例というものがある。私の知るある事例では、そのような対応をしているのは、その親自身のための(満足感や空虚さを埋めたいといった類の)動機によって動いている事例があり、目には見えないし、子ども自身もそのことに気づきようがない状況の中、極めて有害な影響を及ぼしている。



 デシとライアンは教育に関する著述を、人間は生まれながらの学習者で、子供たちは生まれつき創造力と好奇心を持っており、「学習と発達を促進する行動を取るよう、内発的動機づけがなされている」という前提から出発した。しかしながら、このアイデアは「退屈さ」によって複雑になる何かを学ぼうと思ったら、それが絵を描くことであれ、プログラミングであれ、八年生の代数であれ、たくさんの反復練習を要する。反復練習はえてしてかなり退屈なものだ。デシとライアンは、教師が生徒に日々求めるタスクの大部分は、それ自体が楽しかったり満足できるものだったりするわけではない、と認めている。掛け算の九九を暗記することに強い内発的動機を持っている子供は稀なのだ。
 この瞬間、つまり内なる満足のためでなく、何かべつの結果のために行動しなければならなくなった瞬間に、「外発的動機づけ」が重要になる。デシとライアンによれば、こうした外発的動機づけを自分のうちに取りこむようにうまく仕向けられた子供は、モチベーションを徐々に強化していけるという。ここで心理学者は、人が求める三つの項目に立ち戻る。「自律性」「有能感」「関係性」である。この三つを促進する環境を教師がつくりだせれば、生徒のモチベーションはぐっと上がるというわけだ。
 では、どうやったらそういう環境をつくりだせるのか?デシとライアンの説明によれば、生徒たちが教室で「自律性」を実感するのは、教師が「生徒に自分で選んで、自分の意志でやっているのだという実感を最大限に持たせ」、管理、強制されていると感じさせないときである。また、生徒が「有能感」を持つのは、やり遂げることはできるが簡単すぎるわけではないタスク――生徒たちの現在の能力をほんの少し超える課題――を教師が与えるときである。さらに、生徒が「関係性」を感じるのは、教師に好感を持たれ、価値を認められ、尊重されていると感じるときである。(p.90-91)


反復練習のような場面では外発的動機づけが重要であり、これを自分のうちに取りこむことが重要というのは、自分自身の実感としてもよくわかる。私自身、中高生くらい頃の経験として、自分が何の苦もなく行っている反復練習を苦痛に感じる人というのが周囲に多くいるのをみて、なぜ彼らはこんなことが続けられないのだろう?とよく思った経験がある。そして、それをさせることがいかに難しいか、ということも実感がある。その意味で、ここで述べられている3つのポイントに着目するのは有益だと思われる。



ファリントンによれば、生徒たちが自分のポテンシャルについてのメッセージに――肯定的なものであれ、否定的なものであれ――最も敏感になるのは、失敗の瞬間であるという。(p.105)


こうしたタイミングにどのような声掛け(言葉以外も含めたメッセージ伝達)ができるか、ということは常々考えておく必要があるように思う。