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トマ・ピケティ 『トマ・ピケティの新・資本論』(その1)

 サッチャーの首相就任と傾きかけた国を救ったとされる数々の改革から四半世紀が過ぎた現在、イギリスは生産性の低い国に成り下がっており(生産性格差はいっこうに縮まる気配がない)、他の先進国と肩を並べるために貧しい国のとる方策、すなわち税のダンピングと長時間労働に頼らざるを得なくなっている。イギリスの労働人口の生産性が低いのは、教育制度に投じる予算が少ないことと、貴族政治時代を引きずる顕著な階層化に大きな原因がある。(p.49-50)


サッチャーの新自由主義政策の帰結に対する的確な批判。なお、税のダンピングと長時間労働という方策に追い込まれているのは、日本も同じである。



また、候補者選びをぎりぎりまで先送りすることの弊害も、改めて浮き彫りになった。候補者がなかなか決まらないと、一般受けする政策を打ち出す傾向が強まり、まともな議論ができなくなってしまう。(p.77)


なるほど。



 フリードマンが経済学の研究から導き出した政治的な結論は、やはりイデオロギーを免れていない。「よい中央銀行」があればよいと言うなら、「よい福祉国家」があってもよかったはずだし、おそらく後者のほうがよいではないか。とは言え、フリードマンの重厚な研究が、20世紀で最も深刻な危機を巡る当時のコンセンサスに疑義を提出したことはまちがいないし、あのみごとな研究に裏付けられていたからこそ、彼のメッセージはあれほどの影響力を持ったのである。(p.84)


ミルトン・フリードマンに対する批判。イデオロギーであるという指摘は妥当。また、見事な研究の裏付けがあればこそ、あれだけの影響力に繋がったという指摘はなるほどと思わされた。ピケティが注目されるようになったのも、同じく見事な実証的な研究の裏付けがあればこそという点では同じだろう。その意味で、フリードマンとピケティは意外と似たところがあるのかもしれない。



 税のダンピングに基づく成長戦略は、多くの小国が採用しているが、必ず悲惨な結果につながる。アイルランドに続けとばかり多くの国が同じ道をたどっており、もはや抜けられない状況だ。いまではおおかたの東欧諸国が、法人税率を10%程度に設定している。2008年には、コンピュータ大手のデルがアイルランドの生産拠点を閉鎖してポーランドに移転すると発表し、アイルランドにパニックを引き起こした。
 外国資本への過度の依存に伴う代償は、これだけではない。アイルランドのような国は、毎年GDPの約20%を利益や配当の形で、工場や本社の外国人所有者や株主に支払っている。このため、アイルランド国民が自由に使える国民総生産(GNP)は、国内総生産(GDP)より20%も少ない。(p.166)


グローバル経済の下で、法人税のダンピングが行われているが、これがまともな成果を挙げないことを指摘している。まず、税のダンピングをすると税収が下がり、国内で生活している人々に対する行政サービスの面で支障が出る。とくに社会的な弱者ほど打撃が大きい。もし、行政サービスの切り下げが行われないとすれば国債等が増発される。この場合、返済を通じて低所得層が高所得層に所得移転を行うことになる。ピケティが指摘しているのは、こうした直接的なデメリットがありながらも、この方針を転換できなくさせられてしまうという点であり、自由に変更することができなくなる点である。

そして、外国から資本を呼び込むことに成功しても、富は国内の住人ではなく出資する側へと吸い上げられる。これもやめることができない。

重要な論点である。




国民所得は、一国の国民が実際に自由に使える所得の総額を計測する指標であり、経済活動の中心にある「人間」に注目した数字だと言える。一方GDPには、「栄光の30年」と呼ばれた経済成長期(1945~75年)の生産至上主義が反映されている。
 言い換えれば、GDPは、工業製品をどんどん買い込むことが人生の目的と化し、そのためには生産を増やせばよいと考えらえていた時代の名残なのである。いまはもうそういう時代ではない。したがって、国民所得に回帰すべき時が来たと考えられる。(p.181-182)


GDPではなく、国民所得を経済活動の指標とすべきという。



すなわち、一国の中で生産されたモノやサービスだけを計測し、その最終目的地は考慮しないので、他国に送られる利益もGDPに含まれている。たとえば、企業や生産資本の大半を外国人株主が所有しているような国では、GDPは大きくても、国外に送られる利益を差し引いた国民所得はきわめて小さくなる。(p.183)


アイルランドを例にして2つ前の引用文で述べられていること。



ダン・アリエリー 『お金と感情と意思決定の白熱教室 楽しい行動経済学』

だから、問題行動をひとつひとつなくしていくことが大切だ。なぜなら一人の問題行動の影響は、それだけにとどまらず、「皆そうしているから大丈夫だ」とほかの人に思わせてしまう危険性があるからだ。一人の良くない行動が連鎖的にほかの人たちに影響を与え、それが社会にとって当たり前のことになってしまう恐れがある。だからそういう行動に対しては、はっきりと批判的な態度をとり、容赦しないことが大切だ。そうしないと、やがてひとつひとつの問題に対処するよりもはるかに高いコストがかかるようになる。(p.65-66)


これはいわゆる「割れ窓理論」などで言われている結論と同じことになる。「割れ窓理論」それ自体は実証されていないという反論もあるようだが、少なくとも、本書で示された実験結果から導かれる帰結は同じところに行きついているように思われる。

このような問題行動の連鎖は、ルーマンの社会システム理論によっても理解しやすい領域の一つであるように思われる。すなわち、ある一人の問題行動が他の人々に認識される際に「そのような行動をとっても批判(非難)を受けない」ものとして理解され、他の人々がそれを規範として動き始めることで、社会の新たな規範が形成されてしまう、という社会の変動。

さらに言うと、高史明の『レイシズムを解剖する』という本について、そう遠くないうちにこのブログにもアップすることになると思うが、この本で、ネット上(ツイッター上)の在日コリアンに対するレイシズムを広めようとする言説が、少数の差別主義的な煽動者によって発せられていることが明らかにされており、この少数者をSNSの運営者が発言を制限すれば、かなりの差別発言をネット上から減らすことができ、そこからの間接的な影響も軽減できることが示唆されている。煽動者が差別発言をしても批判されない(制裁を受けない)ことによって、「皆そうしているから大丈夫だ」と思わせてしまうことになっており、それが差別発言を流通させるのに大きな意味を持ってしまっているという現状は、上記で指摘されているように、既に「一つ一つの問題に対処するよりもはるかに高いコストがかかる」段階に入ってしまっているように思われる。



優秀なスタッフは言われなくてもやるべきことを心得ている。君たちが一流の歌手だとして、報酬が減らされたからといって、わざと下手に歌うだろうか?一流の歌手なら、おのずと上手く歌うだろう。むしろキーを外して歌う方が面倒だ。コールセンターのスタッフの中には電話のマナーが良かったり、会話が上手な人もいるが、今以上の成果を期待するのは難しい。業績が高くない人にこそ、ボーナスの効果は大きいんだ。(p.176)


なるほど。あまりこのような道筋で考えたことがなかったが、言われてみればその通りだ。金銭がパフォーマンスを高める動機としては機能しにくいものであることは理解していたが、パフォーマンスの質が高ければ高いほど、お金などでは動機や技能を高めることには役立ちにくい。この辺りまではよく考えていたが、ここから一歩先に進めば、むしろ、質が低い方が効果的というところまで導くことができるわけだ。(アリエリーの行動経済学の強みは実験によってこうしたことがある程度確かめられた上で指摘している点である。)

成果主義的な考え方によれば、成果が上がっている人にボーナスを多く払い、そうでない人には低く払うべきだということになるが、これは上記のような現実から見ると明らかに倒錯したものであることが分かる。



面白いことに、人は何かに労力を注げば注ぐほど、それを高く自己評価するんだ。最も端的な例はもちろん、子供だ。
 ……(中略)……。子育ては困難で手間がかかり、説明書だってないからだ。子供への愛情の大半は、実は自分への愛情なんだが、このふたつは区別がつけ難いので、親は子供を溺愛するんだ。(p.192-193)


なるほど。面白い。子供への愛情がかなりの程度、親の自己愛と区別ができないことがあるというのはそのとおりであるように思われる。

思うに、この区別がきちんとできていなければいないほど、育て方はよくないものになる傾向にあるように思われる。



トマ・ピケティ 『21世紀の資本』(その7)

国富や国民所得という考え方の長所は、それが国の豊かさについて、GDP概念よりもバランスのとれた見方を与えてくれるということだ。GDPはある面ではあまりに「生産主義的」なのだ。たとえばもし自然災害が富の相当部分を破壊したら、資本の減価償却が国民所得を引き下げるが、GDPは再建活動のために増える。(原注p.23)


適切な指摘。



中央値とはそれより下に人口の半数が属する水準。実際には、中央値は平均よりも常に低い。なぜなら現実世界の分布は常に高位に長い尻尾があって平均を上げているが、中央値は上がらないからだ。労働所得では、中央値は一般的に平均値の80%になる(たとえば、もしも平均賃金が月2000ユーロならば、中央値は1600ユーロ程度になる)。富については、中央値は極端に低く、たいてい平均資産の50%以下で、人口の貧しい半数がほとんど何も所有していない場合には、ゼロになることもある。(原注p.39)


経済的指標に関しては中央値と平均値の関係はここで述べられたようなものになるのが一般的だろう。



意味のある成長率の比較をするためには、かなり長期(最低でも10年か20年)の平均をとるのが重要だ。もっと短期で見ると、成長率は各種の理由で変動するので、まともな結論を引き出すのは不可能だ。(原注p.78)


率というものは扱いが難しいものだと弁える必要がある。



理論モデルにおいては(また累進課税の歴史でも同様)、累進税はまったくちがう二つの役割を果たしてきたことに注目。まず収奪的な税率(分配のトップ0.5-1%に対する80-90%の税率)は不適切で無意味な報酬を止めさせる役割を果たし、高いが没収的ではない税率(トップ5-10%の層に対する50-60%の税率)は所得分布の下位90%からくる歳入を超えて社会国家のための資金を集める役割を果たす。(原注p.79)


なるほど。



トマ・ピケティ 『21世紀の資本』(その6)

税金というのが常に、単なる税金以上のものだということを理解するのは重要だ。税金はまた、規範や分類を定めて、経済活動に対する法的枠組みを課す手段なのだ。(p.544-545)


この認識はこれまでも何度か引用したかもしれないが本書の重要なポイントのひとつであり、本書から私を含めた多くの人々が学ぶべき点でもある。



自由貿易と経済統合でお金持ちになった個人が、隣人たちを犠牲にして利潤をかき集めるなどというのは正当ではない。それは窃盗以外の何物でもない。(p.547)


まさに現在起っているのがこれだ。



 政府が支出をまかなう方法は主に二つ。税金と負債だ。一般に、公正と効率の観点からして、税金のほうが負債よりもはるかに望ましい。負債の問題は、通常は返済が必要だということだ。したがって負債による資金調達は、政府にお金を貸せる人々の利益になる。社会的な利益の観点からすると、金持ちに借りるより、金持ちに課税するほうが通常は望ましい。(p.567)


国債・公債に関する議論でいつも抜け落ちているのが、貸し手は誰なのか、ということだ。政府に金を貸せるだけの資金に余裕がある人が貸す。逆にこれらの金持ちに対して累進課税をすれば金を借りる必要などなく、利子を返す必要もない。この程度のことすら公けに議論されないということは問題だ。



新興経済は富裕国より所得でも資本でも貧しいが、公的債務はずっと低い(平均でGDPのほぼ30パーセント)。これは公的債務の問題が、絶対的な富の水準の問題ではなく、富の分配の問題だということを示している。特に公的アクターと民間アクターとの分配が問題だ。金持ち世界は金持ちだが、でも金持ち世界の政府は貧乏なのだ。(p.567)


公的債務の問題が分配の問題だというのは当然のことである。だが、このこともしばしば忘れられている。



大恐慌の開始時点で、工業国の中央銀行はきわめて保守的な政策を採用した。金本位制を廃止してまだ間がなかったので、トラブルに陥った銀行を助けるのに必要な流動性創造を拒否して、これが連鎖反応的な倒産を創り出し、これが危機を深刻に悪化させて、世界を奈落の縁にまで押しやった。この悲劇的な歴史体験がもたらしたトラウマはぜひとも理解しよう。それ以来、みんな中央銀行の主要な機能は金融システムの安定性を確保することだという点で合意するようになった。(p.576)


大恐慌があれほどの深刻な事態を引き起こしたのは、金融体制が変わってから十分に時間が経過していなかったため、適切な方法での対処をすることへの意見の一致がなかったことが要因のひとつであったとも言える。



税制競争は通常は消費税への依存に向かうことを認識するのは重要だ。これはつまり19世紀に存在したような税制であり、累進性がまったくつけられない。現実問題として、これは貯蓄できる者、居住国を変えられる者、その両方ができる者に有利に働く。(p.591)


消費税は品目ごとに累進性をつけることもある程度はできるが、制度としては複雑になるし、所得税や法人税ほど有効に累進課税の効果を発揮することもできないように思われる。



 最後に、債務や財政赤字の適切な水準を判断するには、国富に影響する他の無数の要素を考慮しないわけにはいかない。あらゆる手持ちのデータを見ると、何より驚かされるのが、ヨーロッパの国富が空前の高い水準にあるということだ。たしかに公的債務の大きさを見れば、純公共財産は実質ゼロなのだが、純民間財産があまりに高すぎて、両者の合計は1世紀前の高い水準になっている。だからこそ、私たちが恥ずかしい債務負担を子孫の代に遺そうとしているとか、ボロをまとい灰をかぶって許しを請うべきだなどという発想は、まるっきり筋が通らないのだ。ヨーロッパ諸国がこれほど豊かだったことはない。一方、恥ずべき真実は、この巨額の国富がきわめて不均等に分配されているということだ。民間の富は公的な貧困の上に成り立っているし、これがもたらす特に不幸な結果のひとつは、私たちが高等教育に行う投資よりも債務の利払いに費やすお金のほうが今でははるかに多いということだ。さらにこれはずいぶん昔から続いているのだ。1970年以来の成長はかなりゆっくりしていたので、歴史的に私たちは債務が公的財源にかなりの重圧をかける時代にいる。だからこそなるべくはやく債務を減らさねばならないのだし、その手法は民間資本に対する累進的な1回かぎりの課税か、それがだめならインフレによるものであるべきだ。いずれにしても、この決定は民主的な論争の後で独立した権限を持った議会により行われるべきものだ。(p.597)


ヨーロッパについて書かれているが日本もほぼ同じと言ってよい。中央政府と地方政府の債務が大きく、「日本はお金がない」などと言われるし、「債務を子孫の代に遺さないようにしよう」などと言われる。そして、増税ではなく歳出削減という方法でそれを実現しようなどと無謀な試みもなされてきた。第二次安倍政権の下では、この声は下火になり、アベノミクスの名の下で膨大な公共事業が再開され、債務は膨らみ続けている。これを解消するための方法として(政府の一部の人びとに)考えられているのは、インフレによる債務の実質的な削減ではないかと勘繰りたくなる。現在の金融政策を続けるとどこかで起こるであろうハイパーインフレによって債務を帳消しにしようというわけだ。(安倍政権ほどあらゆる面で悪意に満ちた政権は見たことがない。)

民間資本に対する1回かぎりの累進的課税は劇薬ではあるが、インフレよりはコントロール可能という点で優れているし、民主的な合意の下で行われるという点でも正当性がある。民間の富が公的債務の犠牲の上に成り立っているという事実を有権者たちの間で共有することができれば、この方法の正当性は明らかに担保されるだろう。



社会科学研究の目的は、各種の意見がすべて代表された、オープンな民主論争に取って代わるような数学的確実性を作り出すことではない。(p.601)


これは数学的な法則をひねり出して政策決定に影響を及ぼそうとする傾向のある最近の経済学への批判だろう。



今日の経済学者たちは、対照実験に基づく実証手法にえらく夢中だ。適度に使うなら、こうした手法は有益なこともあるし、一部の経済学者の目を具体的な問題と、その分野の直接的な知見に向けたという点(こうした展開はすでに遅すぎるくらいだ)では賞賛されるべきものだ。でもこうした新しいアプローチ自体も、ときにある種の科学性の幻想にしがみついてしまう。たとえば純粋かつ本物の因果関係の存在を証明するのに多大の手間暇をかけつつ、その問題自体がそれほど興味深いものではないことを忘れてしまうことだってあり得る。新手法はしばしば歴史の無視につながり、歴史的な経験こそが今でも主要な知識の源泉なのだという事実も見失わせてしまう。(p.605)


ピケティは数式を多用するような経済学に対して手厳しく批判しているが、この箇所は行動経済学への批判と思われる。ある意味、実証主義に対する歴史主義からの批判という点では、比較的古典的な議論が繰り返されているように思われ興味深い。



 逆に、他の分野にいる社会科学者たちは、経済的な事実の研究を経済学者たちに委ねたままではいけないし、数学が出てきただけで震え上がって逃げ出したり、あらゆる統計など社会的構築物でしかないなどと言うだけで満足したりするようではだめだ。もちろん社会構築物だというのは事実ではあるが、それでは不十分なのだ。逃げるのも社会構築物だと言うのも、根っこでは同じでしかない。それはその分野を他人に明け渡すということだからだ。(p.606)


経済という現象、分野を経済学者に明け渡してはいけない、という指摘は非常に重要。





トマ・ピケティ 『21世紀の資本』(その5)

さらに言えば現代の税制社会国家の発達をつかさどった普遍的人権の論理は、比例的かちょっと累進的な税金という発想にかなりうまくなじむ。(p.516)


たしかに、人権が侵害・制限されている状況を改善するために恵まれた人々の側から税という形を通して支援をすることで普遍的に行き渡るようにするという考え方と適合的。



 でも累進課税が現代の再分配でかぎられた役割しか果たさないと結論づけるのは間違っている。まず、もし全体としての税制が人口の大半にとってかなり比例的に近いとしても、最高の所得や最大級の富に対する税率が目に見えて高い(または低い)という事実は、格差の構造に大きな影響を及ぼし得る。特に証拠から見て、1914~1945年のショック後に、富の集中がベル・エポック期の天文学的な水準に戻らずにすんでいたのは、部分的には超高所得や超巨額遺産に対する累進課税があったおかげらしい。逆に、1980年以来の米英における所得税累進性のすさまじい低下(両国とも第二次世界大戦後の累進課税の旗手だったのだが)は、おそらくきわめて高い労働所得の増加の相当部分を説明してくれる。同時に、近年の自由な資本フロー世界における税制競争の台頭により、多くの政府は資本所得を累進所得税から除外した。これは特にヨーロッパで見られる。欧州諸国は比較的小さいので、これまで税制協調を実現できていないのだ。おかげで果てしないどん底への競争が起こり、たとえば法人税率が引き下げられたり、利子、配当などの金融収入が、労働所得のような課税対象から外されたりしている。
 その結果のひとつとして、多くの国で税金は所得階層トップでは逆進的になっている(あるいは間もなくそうなる)。たとえば2010年にフランス税制を詳細に調べた研究では、あらゆる種類の税金を検討すると全体としての税率(平均すると国民所得の47パーセント)は以下のように分解できるという。所得分布の底辺50パーセントは所得の40~45パーセントを税金で持って行かれる。次の40パーセントは45~50パーセントだ。でもトップ5パーセントと、それ以上にトップ1パーセントは低い税率になり、トップ0.1パーセントはたった35パーセントしか支払っていない。貧乏人の高い税率は、消費税や社会拠出金の重さを示す(これはあわせてフランス税収の4分の3を占める)。中間の階層で見られたわずかな累進性は、所得税の重要性が増すことで生じたものだ。逆に、トップ百分位で見られる明らかな逆進性は、この水準では資本所得が重要になってくることを反映している。資本所得は累進課税からほとんど除外されているのだ。この免税の影響は、資本ストックに対する(きわめて累進的な)課税による効果よりも大きい。(p.517-518)


税率がほとんどの人にとって比例的であるとしても、最高水準の所得に対する税率が低いと、超高額の所得をもらう人が増えるし、そうした人びとが受け取る所得の金額の大きさも膨らむ。これが資産の格差へと累積していくことで、社会階層の分断が進んでいく。この構造についての指摘は本書の重要な指摘のひとつ。

また、資本所得が累進課税から除外されている、というのは、日本にも当てはまる。租税特別措置法を調べるとそれがよくわかるだろう。



まず、累進課税というのは民主主義の産物であると同様に、両大戦の産物でもあるという点を理解することが重要だ。その場しのぎが必要な混沌とした環境で採用されたものであり、それもあってその各種の狙いは十分に考え抜かれていないし、そのせいで今日批判を受けるようになっているのだ。(p.519)


累進課税が両大戦の産物であるというのも本書の重要な指摘のひとつだが、そのような事情から、その根拠が十分に考え抜かれ、それが人々を納得させて導入されたというものではなかったというのは、言われてみればなるほどと思わされたところ。



この興味深い例が示すのは、税率が低くても、税金は知識の源になるし、民主的透明性の力になるということだ。(p.526)


この指摘は、本書のグローバルな資本課税の優位性を示すための重要な論拠の一つであるが、私自身にとっても本書から得た収穫のひとつであったものである。



政府がある水準の所得や相続財産に70~80パーセントの税金をかけるという場合、主要な狙いはどう見ても追加の税収を得ることではない(こうした非常に高いブラケットはもともとたいした税収をもたらさない)。むしろそうした所得や巨額の相続財産をなくそうとしているのであり、立法者たちは何らかの理由でそれを社会的に容認できず、経済的に非生産的だと見なすようになったのだ――あるいはそれをなくさないにしても、少なくとも維持するのをきわめて高価にして、その永続化を強く阻害するのが狙いだ。しかも、法的禁止や収用もない。だから累進課税は、格差削減のかなりリベラルな手法だと言える。自由競争と市有財産は尊重されつつ、私的なインセンティブはかなり過激にもなりかねない形で改変されるが、それでも常に民主的論争で検討されたルールにしたがって行われるのだ。累進課税はこのように、社会正義と個人の自由との理想的な妥協となる。米英は、歴史を通じて個人の自由を高く評価してきたから、他の多くの国よりも累進的な税制を採用したのもうなづける。ただし大陸ヨーロッパ諸国、特にフランスとドイツは、第二次世界大戦後に他の道を模索したことは指摘しておこう。たとえば、企業の国有化や、重役給与を直接定めるといった手法だ。こうした手法もまた民主的な熟議から生じたものだが、累進税性の代替としてある程度は機能したのだった。(p.528)


「増税=税収(財政再建)」あるいは「増税=生活が苦しくなる」という考え方――後者の考え方は基本的に誤った考え方でもある――が、昨今の日本では強調されているが、税には社会における公正さや社会の共通善の促進といった機能もあるということは重要であり、政策立案にもこの考え方がもっと活かされなければならない。



まとめると、1932~1980年の約半世紀にわたり、米国連邦所得税の最高税率は平均81パーセントだった。(p.529)


これ以降のアメリカの姿に慣れてしまった身からすると、驚かされるような数字である。



あらゆる過剰に高い所得は白い目で見られていたが、稼いでいない所得のほうが、稼いだ所得よりも怪しげだとされていたのだ。当時といまの態度のあまりの好対照ぶりには驚かされる。現在では特にヨーロッパ諸国をはじめ多くの国で、資本所得のほうが労働所得よりも好意的な扱いを受けているのだ。(p.530)


是正されるべき事実。



 もっと現実的な説明は、最高所得税率の低さが、特にそれが急落した米英では、重役給与の決め方を完全に変えてしまったというものだ。……(中略)……。
 さらに、この「交渉力」による説明は、1980年以来の先進国における生産性成長率と、最高限界税率低下との間に統計的に有意な関係がないという事実とも整合する。具体的に言うと、重要な事実としては、1人当たりGDP成長率は1980年以来、あらゆる富裕国でほぼ完全に同じだということがある。英米の多くの人が信じていることとは裏腹に、成長をめぐる真の数字によれば(公式の国民経済計算データから判断するかぎり)、英米は1980年以来、ドイツ、フランス、日本、デンマーク、スウェーデンと比べてちっとも急成長などしていないということだ。言い換えると、最高限界所得税率の引き下げと、トップ所得の上昇とは、(サプライサイド理論の予測に反し)生産性を刺激しなかったようだし、少なくともマクロレベルで統計的に検出できるほど生産性を刺激しなかったということだ。
 こうした問題をめぐっては、かなりの混乱が存在している。というのもしばしばほんの数年の期間だけについて比較が行われるからだ(そういうやり方をすれば、ほとんどどんな結論だって正当化できてしまう)。あるいは、人口増の分を補正し忘れている場合もある(人口増は米国とヨーロッパのGDP成長の構造的な差についての主要な要因となっている)。ときには1人当たり産出水準(これは常に米国のほうが、1970~1980年でも2000~2010年でも20パーセントほど高い)が、成長率(これは過去30年にわたり米欧いずれでも同じくらいだった)と混同される。でも混乱の主な源は、おそらく上で述べたキャッチアップ現象だろう。英米の衰退が1970年代に終わったのはまちがいない。つまり英米の成長率は、それまでドイツ、フランス、スカンジナビア諸国、日本よりも低かったが、この時期に負けないくらいになったのだ。でもこの収斂の理由はかなり単純だというのも議論の余地はない。ヨーロッパや日本は、米英に追いついたのだ。明らかに、これは米英における1980年代の保守革命とはほとんど関係がない。少なくとも主要な要因ではないのだ。(p.532-534)


生産性を高めるためにアメリカのような企業運営を行うべし、という経済保守派、サプライサイド経済の側から言われることがあるが、それの誤りを的確についている。



事実、ここからわかるのは、最高所得に対して没収的な税率をかけるのは、可能なばかりか目に見える超高給与の増大を阻止する唯一の方法だということだ。私たちの推計によると、先進国では最適な最高税率はおそらく80パーセント以上だ。……(中略)……。そんなことをしたら米国のあらゆる重役たちは即座にカナダやメキシコに逃げだし、経済を運営するだけの能力ややる気を持った人物は誰一人として残らない、などという発想は歴史的経験にも反しているし、手持ちのあらゆる企業レベルのデータにも反している。また常識的にも馬鹿げた話だ。50万ドルとか100万ドルを超える年収に対して80パーセントの所得税をかけたところで、政府の歳入はたいして増えない。この税率がすぐさま目的を果たしてしまうからだ。その目的とは、この水準の報酬を劇的に引き下げつつ、米国経済の生産性は引き下げず、これにより低水準の所得が底上げされるということだ。(p.535-536)


高所得に税を重課したら所得が海外に逃げるという議論には大した根拠はないということは押さえておくべきところ。



トマ・ピケティ 『21世紀の資本』(その4)

まったくの窃盗による財産はなかなかないが、同時に完全な能力による財産もほとんどない。累進資本課税の長所は、巨額の財産を民主的コントロールのもとにさらしつつ、柔軟かつ一貫した、予測可能なやり方で、さまざまな状況を扱う方法を提供してくれることだ――これだけでもかなりのものだ。(p.461)


ピケティの主張したい部分は後半部分だが、第一文の言い回しはなかなかうまい言い方だ。自らの能力によって得た財産や所得は正当なものだというリバタリアン的な論理でごまかされてしまう人は結構多いと思うが、それを牽制する時に使えそうだ。



 思うに、資産が自国の手を離れるという感覚は、主に富が富裕国に高度に集中しており(おかげで人口の大部分にとって、資本は抽象概念だ)、最大級の富からの政治的分離プロセスがすでに進行中であるせいだ。富裕国、特にヨーロッパの住民の大部分には、ヨーロッパの世帯が中国の20倍の資本を所有しているというのはかなり理解しづらい。特にこれが民間財産で、政府が(つい先頃、中国が親切にも申し出たギリシャへの援助のように)公共目的で動員できないだけになおさらだ。だがこのヨーロッパの民間財産は文句なしに実在するし、EUの各国政府がそれを活用しようと決めたなら、活用できるものなのだ。だが実際には、政府が資本や資本所得に規制をかけたり、課税したりするのは非常にむずかしい。富裕国が今日、資産が自国の手を離れつつあると感じる主な理由は、民主的な主権が失われているためだ。(p.481-482)


上記の指摘は主にヨーロッパに当てはまるとされているが、日本でも同様である。民主的に資産をコントロールする手段がなく、巨額の資産がどこにあるのかさえ、普通の人々からは隠されている。巨額の資産は自国内にあるが、それはごく少数者の手の内にあり、他の大多数の人々は関与することができない。累進資産課税によってそうした資本を公金にすることができれば、政府や議会を通じて民主的なコントロールが可能となるのだが、大金持ちの側が政府に圧力をかけているため課税強化も難しい方向へと進んでしまっている。



 まず、第二次世界大戦後の30年で見られた政府の役割の急速な拡大は、少なくとも大陸ヨーロッパでは、例外的に急速な経済成長に大きく助けられ、後押しされた所得が年5パーセントずつ増えているなら、その成長のますます多くの部分を社会支出(つまりこれは経済全体よりも急速に増えることになる)に振り向けることに納得してもらうのはそんなにむずかしくない。特にもっとよい教育や保健医療、もっと多い年金の必要性が明らかならなおさらだ(1930年から1950年にかけて、こうした目的で割かれる予算はかなりかぎられていた)。1980年代以来、状況はまったくちがっている。1人当たり所得は年1パーセント強しか成長しないので、誰も大規模で持続的な増税など望まない。(p.501)


1人当たりの経済成長率が高いと課税への忌避感が低くなるため、福祉国家的な役割の増大が助長され、逆に低成長時代には課税への忌避感が高まるため、歳出削減圧力が高まる。なるほど。



さらに各種の情報源を付き合わせると、ハーヴァード大学の学生たちの両親の平均所得は、45万ドルだと推計される。これは米国の所得階層でトップ2パーセントの平均所得に相当する。こうした結果は、純粋に能力だけに基づく入学審査という発想とは、完全に相容れるようには思えない。公式の能力主義的な発言と現実との対比は、この例ではことさら極端に思える。入学選考手順に関してまったく透明性がないことも指摘しておこう。(p.505)


45万ドルというのはすごい所得だ。驚いた。日本でも東大や慶応などの学生の親の所得は平均よりかなり高いはずだが、ここまでひどくはない。ここで指摘されている選考手順の不透明性も関係しているのだろう。



米国、フランスなどほとんどの国で、国民的な能力主義モデルの美徳をみんな口にはするが、それはめったに現実に根ざしていない。そうした物言いの狙いは、既存の格差を正当化しつつ、現状の制度の、ときにあからさまなほどの失敗を黙殺することだったりする。(p.506-507)


妥当な指摘。



さらに1980年以降、先進国から生じた新しいウルトラ自由主義の波が貧困国を襲い、公共部門を切り離して、経済発展を育むのに適した税制を発達させるという優先度を引き下げるよう強制した。最近の研究によれば、1980~1990年の最貧国における政府歳入減は、相当部分が関税の減少によるものだったという。……(中略)……。富裕国は、それほど発展していない世界を自分の実験に使い、自分自身の歴史体験からの教訓を本気で活用しようとしない傾向があるのだ。(p.512)


従属理論や世界システム論が提示するような低開発化の現実は、非常に複雑であり難しいが研究に値する問題である。



トマ・ピケティ 『21世紀の資本』(その3)

 また、1990年以降の税データにある種の劣化があることにも気づかされる。その原因の一部はコンピュータ記録の登場だ。コンピュータが入るとしばしば、税務当局による詳細な統計データ公開が中断されてしまうのだ。そういった細かい統計値は、昔は税務当局自身が必要だったので集計公表されていたのだった。逆説的ではあるが、時として情報時代の到来が情報の劣化をもたらすこともあるのだ(同じことが富裕国でも起きている)。情報の劣化はなによりも、一部政府や国際組織が累進税に対してある種の不満を抱いていることから生じているようだ。その典型的な例がインドで、1922年以来中断することなく詳細な所得税データを公開し続けてきたのに、2000年代初頭にその発表をやめてしまった。その結果インドにおけるトップ所得の推移調査は、20世紀中よりも2000年以降のほうが困難になってしまった。(p.341)


日本でも2006年から高額納税者公示制度が廃止されたことが想起される。



もしも限界生産性が重役報酬を決定するなら、そのちがいは外部の動向とはほとんど無関係に、「非外部的」な差のみによって、あるいは主にそれによって決まると考えられるはずだ。でも実際に見られるのはその逆だ。役員報酬が最も急上昇するのは、売り上げと利潤が外部要因で増えたときなのだ。(p.348)



ダン・アリエリーの『ずる』が主張するように、曖昧で何とでも理由をでっち上げられるような状況で不正が行われやすいということが、この役員報酬の急上昇という現象にも妥当しているように思われる。これは一種の不正である。



最高限界所得税率の引き下げは、超高所得の激増を招き、その恩恵を受けた人々が税法を変えさせるための政治力を高めた。そうした人々は最高税率を低くおさえたり、もっと下げたりするのが利益にかなっていたし、その濡れ手に粟で得た大金を政党、圧力団体、シンクタンクに献金できるようになったのだ。(p.348-349)


所得・資産の格差は民主的な社会の妨げになる。貧困に着目する格差の分析からはこの点が抜け落ちてしまう。ピケティは超高所得者に注目するからこそこの点に敏感に反応できているように思われる。



 後知恵ながら今日パレートの著作を読むとさらに驚くのは、その安定理論を裏付ける証拠がまったく挙がってないことだ。パレートがこれらを書いたのは1900年あたりのことだ。かれは入手したスイスやイタリアの数都市、そしてプロイセンとザクセンのデータを基にした1880~1890年の税率表を使用している。この情報はずいぶん貧弱だし、最大でも10年しかカバーしていない。さらに、そのデータは格差のわずかな拡大傾向を示していたのに、パレートは意図的にそれを隠そうとした。いずれにしてもそんなデータでは、世界の格差の長期動向についてのどんな結論だろうと、何の根拠にもなっていないのは明らかだ。
 パレートの判断は明らかにかれの政治的偏見の影響を受けていた。かれは何にもまして、社会主義者とその再分配幻想と見なしていたものを警戒していた。この点においては、かれが私淑していたフランスの経済学者ピエール・ルロワ=ボリューら同時代の多くの同業者たちと何ら変わるところはなかった。パレートの例が興味深いのは、それが社会科学における数学の無批判な利用が招きがちな、永続的な安定への強力な幻想の好例となっているからだ。(p.382)


ピケティのパレートへの批判は本書で取り上げられている中ではかなり手厳しい部類に入る。数学の無批判的な利用が永続的な安定への幻想を招くというのは的確な指摘と思う。



これに関連した重要な点として、資本所得に対する課税の効力は、資産の総蓄積を減らすのではなく、長期的な富の分配構造を変えるということがある。理論モデルで考えても歴史データで見ても、資本所得に対する税率が0から30パーセントに上昇しても(つまり資本収益率が5から3.5パーセントに減少しても)総資本ストックは長期的に変化しなかったかもしれない。これはトップ百分位の富のシェアの減少が中流階級の台頭によって相殺されるという単純な理由によるものだ。20世紀にはまさにこれが起こった――今日ではその教訓は時々忘れられてはいるが。(p.389)


部分的な引用なので分かりにくいかも知れないが、資本所得に対する課税を行うと、最上位層の資産は減るが中流階級の資産が増える方向に分配構造が変わるということ。企業などのトップが収益を独占するうまみがなくなるため、従業員の給与などに還元するということか。



 この能力主義擁護の最も厄介な問題は、ジェイン・オースティンの必要性と尊厳に関する主張さえほとんど無意味に思えるような、最も裕福な社会においても同じような主張が見られることだ。ここ数年来米国では、スーパー経営者に対する天文学的報酬額(少なくとも平均所得の50~100倍)に対するこの種の正当化がよく聞かれるようになった。そのような高額報酬の支持者は、それがないと本物の富を獲得できるのは大資産の相続者だけになり、それは公正を欠くと主張する。スーパー経営者への何百万、何千万ドルという年俸は、結局はもっと大きな社会正義への貢献となるというのだ。この種の主張は、将来のもっとも大きく暴力的な格差の土台を築くことになりかねない。来るべき世界は、過去の最悪な二つの世界が合体したものになるかもしれない。それは、能力や生産性という観点から(すでに指摘したように、ほとんど何の事実に基づいた根拠もないまま)正当化されたすさまじい賃金格差と、相続財産の非常に大きな格差との両方が存在する世界だ。こうして極端な能力主義によって、スーパー経営者と不労所得生活者の競争が、どちらにも属さない人々を犠牲にして行われることになる。(p.433)


超高額報酬に対する能力主義的な正当化のもつ危険性についての指摘。同意見である。



レントとは市場の不完全さではない。むしろそれは、経済学者が理解しているところの「純粋で完全」な資本市場の結果なのだ。(p.440)


市場が不完全だからレントが生じるのではなく、むしろ完全に近いからレントが生じる。



トマ・ピケティ 『21世紀の資本』(その2)

つきつめれば国債とは、国民のある一部(利息を受け取る人たち)が、別の一部(納税者)に対して持つ請求権にすぎない。(p.120)


国債とは債権を持っている人(富裕層)が債務を負う人(納税者)に金を支払わせるための手段である。国債は富裕層への再分配となる!この認識は重要!



資本は決して穏やかではない。常にリスク志向で、(少なくともはじめのうちは)起業精神にあふれているが、十分に蓄積すると、必ずレントに変わろうとする――それが資本の天命であり、論理的な目標だ。(p.122)


資本の性質。



政府に貸し付けを行うだけの財産持ちの立場からすると、無償で税を納めるより、国に貸し付けて数十年にわたって利息を受け取る方が、当然ながらはるかに有益だ。(p.137)


確かに。金持ちの立場から見ると、増税(特に累進的な課税)はせず、公共サービスの不足分は政府が国債を発行する方が二重にメリットがあるということになる。



1980年代から現在までの、ロシアおよび東欧諸国の民間財産の大きな成長は、ときに特定の人々(念頭にあるのは主にロシアの「オリガルヒ」)を飛躍的に急速に豊かにした。この成長は当然ながら、貯蓄や動学法則β=s/gとは無関係だ。ただひたすら、政府から個人への資本の所有権移転がもたらした結果にすぎない。先進国における1970年以降の国富の民営化は、この極端な例をかなり薄めたものと見なせる。(p.194)


民営化は、政府から政府との関係の深い個人への所有権移転である。19世紀後半の日本で起きた民営化(開拓使官有物払下げ事件)などもこうしたものであった。1990年代頃から中国で起きている民営化・自由化の路線も同じように共産党と関係の深い個人に資産所有の極めて大きな機会が与えられた一方、権力との距離が遠い人々にはそうした機会は少なかったことはよく知られている。民営化というものは、自由競争を促すかのようなことを言われながら行われるが、そうしたものというよりはもっと胡散臭いものだという認識を持つことは非常に重要である。



 これらの係数――他にもタイル係数などがある――は役に立つこともあるが、問題も多い。それらはある分布が格差について言えることをすべて――階層の最底辺と中間層の格差、そして中間層と最上位、あるいは最上位とその中のさらに上位の格差――ひとつの数値指標に集約できると主張する。これは一見とてもシンプルで魅力的だが、いささか誤解を招くことは必至だ。多面的な現実を一次元の指標に集約しつつ、過度に事象を単純化せず、本来一緒に扱うべきでないことを一緒くたにしないですませるなど、実際には不可能だ。社会的現実と格差の政治経済的重要性は、その分配の中での水準ごとにまったくちがうから、それらを個別に分析することが重要だ。加えて、労働の格差と資本の格差では、機能する経済メカニズムや規範によるその格差の正当化手段がまったくちがうのに、ジニ係数などの総合指標はそれを混同しがちだ。こういった理由から、格差を分析するならジニ係数のような総合指標を利用するよりも、総所得、国富におけるさまざまな十分位、百分位のシェアを示す分布表を使うほうがずっとよいと私は考えた。(p.276-277)


ピケティが方法論として分布表を使う理由。ジニ係数のような総合的な指標への適切な批判。



 同じような理由から、OECDや各国の統計機関による格差公式報告書にしばしば引用される、十分位比を利用する際も注意を要する。最も頻繁に利用されている十分位比はP90/P10、すなわち所得分布における90番目と10番目の百分位の比率だ。たとえば、所得分配のトップ10パーセントでは月の稼ぎが5000ユーロ以上、下位10パーセントでは1000ユーロ以下ならP90/P10比は5となる。
 ……(中略)……。
 一般にこの慣例は、入手可能なデータは不完全だという理由で正当化されている。たしかにその通りだが、世界トップ所得データベース(WTID)に(しかも限られた手段を使って)収集された歴史的データが示すように、その問題は適切な情報源を利用すれば克服できる。このデータベースは、ゆっくりとはいえ、手法を変えつつある。実際、最上位を無視する方法論の採用は決して中立的ではない。国や国際機関の公式発表は本来、所得と富の分配に関する公的データベースを提供するはずなのに、実際には故意に不平等を楽観視するような操作が加えられている。(p.277-278)


ピケティの方法論は最上位のシェアを重要視することに特徴があり、これが斬新なところである。



 最後に、私が利用を推奨する分布表が、いくつかの点で18世紀と19世紀初頭に流行した「社会構成表」にかなり似通っていることをつけ加えておきたい。……(中略)……。
 それでも社会構成表は、それぞれの社会集団(特にさまざまなエリート層)による国富のシェアを強調することで、格差の生々しい側面を描こうとしており、この点で私がここでとっている手法と明らかな類似性がある。また同時に社会構成表は、ジニやパレートが採用して、20世紀にあまりに一般化され、富の分配を当然のものとしがちな、非対立的で非時間的な格差の統計手段とはその精神からして本質的にかけ離れている。格差の計測手法は決して中立的ではないのだ。(p.280)


ピケティの方法は、エリート層の国富シェアを強調するものであり、「対立的で時間的」なものである。このように、自らの方法論が含意するもの、あるいは価値を置いているものについて自覚的であり、自他に対して明示している点は高く評価すべきである。




トマ・ピケティ 『21世紀の資本』(その1)

さらに、自分の所得を税務当局に申告するのが法律で義務化されるまでは、人々は自分の所得額など意識していないことも多かった。同じことが法人税や財産税についても言える。課税は全市民に対して公共支出や公共プロジェクトに貢献するよう義務づけたり、税負担をなるべく公平に振り分けたりするための手段にとどまらない。区分を確立して知識を促し、民主的な透明性を確立する手段としても役立つのだ。(p.14)


最初の一文については、確かに申告するかしないかで所得額への自覚は大きく左右されるように思われる。日本では、大抵の給与所得や公的年金の所得は確定申告をしなくても済む仕組みになっていることもあり、所得税が整備されていても所得額への意識はそれほど高くないが、もし所得税という制度がなかったら、現状よりも遥かに意識されないであろうことは想像に難くない。

例えば、日本では住民税や国保税(料)などは前年中の所得に対して課税されているが、前年の所得が多かったことを忘れて(?)、「どうしてこんなに高い税金がかかるのか?」などと思う人も相当数いるが、これも所得というものがあまり意識されていない証左だろう。

また、課税というものが単に所得再分配のような機能を持つだけでなく、民主的な透明性を確立する手段としての機能も持つという指摘は重要であり、ピケティがグローバルな資産課税を提唱する理由のひとつもそこにある。



 まとめると、国際レベルでも国内レベルでも、収斂の主要なメカニズムは歴史体験から見て、知識の普及だ。言い換えると、貧困国が富裕国に追いつくのは、それが同水準の技術ノウハウや技能や教育を実現するからであって、富裕国の持ち物になることで追いつくのではない。知識の普及は天から降ってくる恩恵とはちがう。それは国際的な開放性と貿易により加速される(自給自足は技術移転を後押ししない)。何よりも、知識の普及はその国が制度と資金繰りを動員し、人々の教育や訓練への大規模投資を奨励して、各種の経済アクターがあてにできるような、安定した法的枠組みを保証するようにできるかどうかにかかっている。だからこれは、正当性のある効率よい政府が実現できるかどうかと密接に関連しているのだ。簡単に言うと、これが世界の成長と国際的な格差について歴史が教えてくれる主要な教訓となる。(p.76)


第1章のまとめ部分。格差を拡大するメカニズムと収斂させるメカニズムの両方があるが、収斂させる主要なメカニズムは知識の普及にあるという。日本の60年代頃の高度経済成長について、しばしば「奇跡」などという形容がなされることがあるが、同じようなことはその後の韓国、台湾などでも起きたし、現在の中国でも起きている。このキャッチアップをする過程は、まさにいわゆる「先進国」が持つ技術ノウハウなどをより安い賃金によって活用して工業製品などを生産することによって実現されるものであり、このことを実現できる政治的及び財政的なインフラが整いさえすればそれほど困難なことではないという理解は重要である。高度成長は「奇跡」でも何でもない。

ピケティの議論では、こうした収斂の力は歴史的事実として格差拡大の力より弱く、人為的に手立てを講じない限り格差は社会の統合を維持できないところまで進んでいく可能性がある、という主張へと繋がるものである。これを解決する理想的な手段がグローバルな資本課税、というわけである。

なお、キャッチアップの過程で技術ノウハウが「新興国」には流入してくるが、それを受け入れるためには教育が重要となる。より高度な教育をより多くの人々が受けられるようにする必要が生じる。ここから教育にかかる費用(政府の財政と人々の生計の両方)の増大が生じ、このことが少子化への圧力となるため「先進国」では少子化が進むと理解して概ね誤りはないように思われる。



だが収斂という中心的な問題に加えて、今から私が強調したい論点は、21世紀には低成長時代が復活するかもしれないということだ。もっと厳密には、例外的な時期か、キャッチアップが行われているとき以外には、経済成長というのは常にかなり低かったのだということを、これから見ていこう。さらに、あらゆる兆候を見ると、経済成長――少なくともその人口による部分――は将来はもっと低くなるらしい。
 ここで問題になっているものと、それが収斂プロセスや格差の力学にどう関係するかを理解するためには、産出の成長を二つの部分に分解するのが重要だ。人口増加と、1人当たり産出の成長とに分けるのだ。言い換えると、経済成長には常に、純粋的に人口的な部分と、純粋に経済的な部分があり、生活水準の改善に寄与するのは後者だけなのだ。(p.77)


この経済成長の区分の持つ意味は、本書から得た収穫のひとつだった。この区別を念頭において経済に関する言説やデータを見ると、様々なものを非常にクリアに見ることができる。経済成長と言われるもののかなりの部分は人口増によるものが含まれていることと1人当たりの産出(生産性)は歴史的な事実から言ってそれほど劇的に大きくなることは期待できないし、過度に期待すべきではない。(経済に関するしばしばみられる楽観論は、これらの区別を明確にしないまま、1人当たり産出についての過度の期待に基づいていることが多い。)



たとえば、民間医療保険システムが公共システムより費用がかかるのに、本当に公共版より優れた質のサービスを提供していない場合(これは米国とヨーロッパを比較するとわかる)、民間保険に主に頼る国ではGDPは不自然に過大評価されることになる。(p.98)


GDPなどの指標は、あまり過信しない方が良い。



数字はむしろ、規模感を示すくらいのものとして解釈すべきで、それ以上に重視すべきではない。(p.98)


この考え方は本書の随所で具体的に示されており、数字を紹介するときに「規模感を理解してもらうため」といったような紹介のされ方がされている。この考え方は非常に健全なものであると思われる。この考え方は、ピケティが経済学を批判する点のひとつである、数式を多用することへの批判とも結びついていると思われる。

思うに、データ(数字)は現実を大まかに捉えるための道具でしかないのに、多数の数式を用いることは、逆に、捉えるべき現実を見えなくしてしまうことに繋がる。数式にはそれ自体に多数の仮定が伏在しており、それを複数用いる場合、仮定のすべてを認識・意識することは不可能となり、数式が持つ仮定を、無意識のうちに社会の現実が持つべき規範として(すりかえて)しまう――主張している本人が気付かずに仮定している場合もあれば、人々にそのように錯覚させようという誤魔化しが見られる場合もあり、もちろん両方が同時に生じていることもある――ということが経済学(経済政策)の世界では頻繁に見られる。



重要な点は、世界の技術的な最前線にいる国で、1人当たり産出成長率が長期にわたり年率1.5パーセントを上回った国の歴史的事例はひとつもない、ということだ。過去数十年を見ると、最富裕国の成長率はもっと低くなっている。1990年から2012年にかけて、1人当たり産出は西欧では1.6パーセント、北米では1.4パーセント、日本では0.7パーセントの成長率だった。このさき議論を進めるにあたり、この現実をぜひとも念頭においてほしい。多くの人々は、成長というのは最低でも年3~4パーセントであるべきだと思っているからだ。すでに述べた通り、歴史的にも論理的にも、これは幻想にすぎない。(p.99)


この認識は本書の指摘のうち、非常に重要なものの一つだ。現在の日本政府もピケティが指摘する幻想を共有している(少なくとも願望として持っており、人々に幻想を現実であると信じさせることを望んでいる)。財政再建を増税ではなく経済成長によって賄うことを見込んでいることなどにも、この幻想にすがっている(あるいは人々が幻想をもっていることを利用している)ことを見て取れる。



 私が見るに、最も重要な点――具体的な成長率予測以上に重要(というのもすでに示した通り、長期の成長をひとつの数字に還元しようという試みはすべておおむね妄想じみているからだ)――は、1人当たり産出の成長率が年率1パーセントくらいというのが実はかなりの急成長であり、多くの人が思っているよりはるかに急速なのだという点だ。
 この問題について検討する正しい見方は、ここでも世代ごとに見ることだ。30年の単位で見ると、年率1パーセントの成長率は累積成長率として35パーセント以上になる。年率1.5パーセントの成長率は、累積成長率50パーセント超だ。実際には、これはライフスタイルと雇用にとっては大規模な変化を意味する。……(中略)……。1人当たり産出が30年で35~50パーセントも増えるということは、今日生産されているもののかなりの部分――4分の1から3分の1――は30年前には存在せず、したがって職業や仕事の4分の1から3分の1は当時は存在しなかったということだ。(p.101)


年率1パーセント程度だと日々の生活ではそれほど大きな変化に気付かないかもしれないが、一般に思われているよりはるかに急速な変化だという指摘はなるほどと思わされた。

また、世代単位で経過を見るという見方も非常に参考になる。藻谷浩介の『デフレの正体』などでは数字は変化率で見るのではなく、生数字のままで見た方がよいという指摘があり、学ぶところがあったと思っているが、本書では変化率には使い方がある、ということを学んだように思う。その一つが時間の経過を的確なスパンで見ることで役に立つことがあるということだろう。また、資本/所得比率βの使用などで見るように、インフレなど絶対値の変化が大きな場合でも長期の比較ができるという使い方も本書の手法から学べた点である。



 西欧が成長の黄金時代を実現したのは1950年から1970年にかけてだったが、その後の数十年では、成長率は半分から3分の1にすら下がってしまった。図2-3はその下落ぶりを過少に示していることには留意しよう。イギリスを西欧に含めているからだ(これはそうあるべきだ)。20世紀におけるイギリスの成長は、北米のほぼ安定というパターンにかなり近い動きを見せている。大陸ヨーロッパだけ見れば、平均の1人当たり産出の成長率は1950~1970年で5パーセントだ――過去2世紀で他の先進国が実現した水準をはるかに超えている。
 20世紀におけるこうしたまったくちがう集合的な成長体験を見ると、商業と金融のグローバル化、いや資本主義全般のグローバル化について、各国での世論がなぜこれほど大きくちがっているかがおおむね説明できる。大陸ヨーロッパ、特にフランスでは、人々はごく当然ながら戦後すぐの30年――経済に対する強い国家介入期――を急成長に恵まれた時期だと考える。そして、1980年あたりから始まった経済自由化こそはそのスピードダウンをもたらしたものだと考える。
 イギリスと米国では、戦後史についての解釈がかなりちがう。1950年から1980年にかけて、英語圏と敗戦国とのギャップは急激に縮まった。1970年代末になると、米国の雑誌はしばしば米国の衰退と日独産業の成功を嘆いた。イギリスでは、1人当たりGDPはドイツ、フランス、日本、さらにイタリアにすら追い越された。この脅かされているという感覚(あるいはイギリスの場合はすでに負けたという感覚)は「保守派革命」において重要な役割を果たした。イギリスのマーガレット・サッチャーと米国のロナルド・レーガンはアングロ・サクソンの実業家たちからアニマルスピリットを吸い取ってしまったとされた「福祉国家を元に戻す」と約束し、つまりは純粋な19世紀資本主義に戻ると述べた。そうすれば米英は再び優位に立てると主張したのだ。今日ですら、英米のどちらでも多くの人は保守派革命が驚異的な成功をおさめたと思っている。両国の成長率は再び大陸ヨーロッパや日本と並ぶ水準に戻ったからだ。
 実は、1980年あたりに始まった経済自由化も、1945年に始まった国家介入主義も、そんな賞賛も責めも受けるいわれはないのだ。フランス、ドイツ、日本は、どんな政策を採用していようとも、1913~1945年の崩壊の後で、イギリスと米国に追いついた可能性がきわめて高い(この一文に誇張はごくわずかしかない)。せいぜい言えるのは、国家介入によって何も被害は生じなかったということだ。同様に、ひとたびこうした国々が世界の技術最前線に躍り出たら、イギリスや米国に勝る成長率は実現できなくなったのも、図2-3が示す通りこうした富裕国の成長率がおおむね同じくらいになったのも、不思議でもなんでもない(この点についてはまた後で)。ざっと言うなら、米国とイギリスの経済自由化政策はこの単純な現実に対してほとんど影響がなかった。それにより成長は高くも低くもならなかったからだ。(p.104-105)


なるほど。

ただ、経済成長という点から見ると、国家介入主義も経済自由化政策も大差ないかもしれないが、社会の平等性や貧困のような権利侵害などのあり方などを考慮に入れると前者の方が適切だったとは言えるのではないか。経済自由化政策は富める者をより富ませることはできるが底辺や中間のものには恩恵がないからである。



「現代思想 2014vol.42-17 1月臨時増刊号 総特集 ピケティ『21世紀の資本』を読む――格差と貧困の新理論」(その3)
諸富徹 「ピケティの「グローバル富裕税」論」

 興味深いのは、グローバル富裕税が、それ自体として資産を再分配するための強力な政策手段になりうるだけでなく、資産保有の実態を民主的な形で精査することを可能にし、銀行制度と国際的な資本移動を有効に規制するための基礎的インフラとしても活用できるからこそ重要なのだ、と彼が強調している点である。……(中略)……。
 ……(中略)……。ピケティの指摘が鋭いのは、グローバル富裕税の実施のために必要となる、国境を超える課税インフラの構築が、すなわち国境を超える資金の流れを掴むためのインフラ構築を促すことにもつながっていくことを指摘している点にある。(p.116-117)


累進的資産課税は単に再分配のための手段ではなく、グローバルな資産状況の把握を前提とするものであり、そのような把握可能性の確保は、資産の相対的に民主的なコントロールを可能にする手段として利用すべき、ということか。



ピケティは、彼の同僚との共同研究で、先進国の経営幹部に関する報酬に関する情報を含むデータを利用して実証分析を行った結果、近年における経営層報酬の急速な上昇は、経営層が潜在的にもたらしうる生産性向上とはほとんど関係がないことを見出した。その結果、報酬の変化はその才能に対する報酬というよりは、むしろ「運」とより多く結びついていることが示唆されるとしている。そしてこの結論は、経営層に対する高い報酬は、彼らの卓越したパフォーマンスに対する報酬だという見方が、深刻な欠陥を孕んでいることを意味すると結論づけている。
 以上のことは、経営層の高額報酬に対して課税しても、経済パフォーマンスになんら影響しない、つまり経済成長率を低下させる弊害をもたらすことなく税収を調達し、なおかつ格差是正を実行できるメリットがあることを意味している。具体的な提案として彼は、アメリカならば年収50万ドル(約5900万円)、もしくは年収100万ドル(1億1800万円)以上の所得階層の所得に対して、80パーセントの最高限界税率を適用することが考えられると述べている。(p.120-121)


経営者たちの超高額報酬が1980年代頃からの(19世紀から20世紀末までと異なる)新たな傾向であり、これはその経営者の能力や成果であるとして正当化する議論がある。日本では90年代頃からこの手の議論の声が次第に大きくなってきたように思うが、90年代や00年代ではその正当化の主張に対する批判的な議論も散見されるようになっていた。その意味では、ピケティの議論は特に目新しいものではないが、超高額報酬がもたらすであろう将来的な富の分配(超高額報酬→超高額相続→超富裕層の富裕化とそれ以外の貧困化)と、それに伴う権力の分配(超富裕層の政治的影響力の増大とその他の人々の政治的影響力の低下)、さらには超格差社会が実現してしまうことの政治的不安定性までも見据えた上で、成果主義的な正当化が受け入れられてしまうことに危機感を表明しているところには独自性がある。



中山智香子 「悲観的クズネッツ主義者の挑戦」

「トリクルダウン」は理論や仮説として、しばしばまことしやかに語られるが、調べてみるとどうも出典も論拠もない単なる説得の技法である。にもかかわらず、あるいはだからこそ、反証されることなく語られ続け、人びとの間になんとなく浸透している。論拠がないと声高に叫んでも、もともとそうしたものなので、逆に有効に響かないままである。(p.132-133)


トリクルダウン論の性質の悪さを的確に指摘している。

「アベノミクス」などとして語られる現在の政府の経済政策を擁護する際に竹中平蔵が半年ほど前だったと思うがテレビの番組で、「分配をするにしてもまずは国全体のパイが大きくならなければできない(だから、分配を考えるのではなく経済成長を優先すべきだ)」といった主張をしていた。トリクルダウンという言葉を出さなくても、こういった類の主張は、トリクルダウン論の発想と同じであり、同様に根拠がないものであることを認識しておくことが肝要である。

そもそも、ゼロ成長だったとしても、富裕層から貧困層への再分配は可能であり(ピケティが主張するようにこれは経済に悪影響を及ぼすものでもない)、超高額報酬は成果への見返りなどではなく、むしろ偶然の産物という側面が多くあり、さらに相続した財産によって富裕層となるかどうかということもほとんど偶然の産物であることを考えると、そうした偶然によって富者と貧者が分けられるくらいであれば、偶然に恩恵を受けられる者の恩恵を恵まれない側に移したとしても何の問題もないはずである。金と権力を持つ人間がそれを望まないということだけが、その障害である。



堀茂樹 「メリトクラシー再考 ピケティ『21世紀の資本』を読んで」

エマニュエル・トッドに倣ってトマ・ピケティを正真正銘の歴史家と見なし、『21世紀の資本』をアナール学派の系譜に連なる傑作と評価することに躊躇は要らないだろう。(p.140)


確かに、長期の歴史を人口動態などを踏まえながら論じていく前半の議論などは、アナール派的である。



ずばり資本主義とは、金持ちに生まれた者が金持ちで死ぬ確率が、金持ちに生まれなかった者が金持ちで死ぬ確率よりも圧倒的に高いシステムだということである。つまり、資本主義の市場は実はメリトクラシーから相当に乖離した世界で、デモクラシーの力が主意主義的に市場に介入しない限り、金持ちがますます金持ちになり、貧乏人がますます貧乏になるシステムだということにほかならない。(p.141)


これは筆者(堀)の見解だが、概ね妥当である。ただ、ピケティは格差拡大(金持ちがますます金持ちになるプロセス)における相続の重要性を強調しており、上の記述だけではこの点についての認識がやや欠けることになる。



 人間はつねに、与えられるものと、自ら選びとるもの・創り出すものの狭間で生きている。与えられるものは資産だけではない。まず生物学的な与件があるし、歴史社会学的な与件もある。資産も物質的なものとは限らない。いわゆる文化資本も一種の資産ではないか。そして、優劣いちじるしい個人の才能・能力・資質もまた、自然の賜物である以上、与えられるものの範疇に入るはずだ。能力主義という意味の英語起源の「メリトクラシー」は、個人主義の装いにもかかわらず、実は与えられるもの、したがって自由でも平等でもないものの方に依拠してしまっている。これは再考を要するものではないか。さもないと、民主主義的な正義に叶うかに見えるメリトクラシーが、デモクラシーと支え合うどころか、デモクラシーを蝕むものになってしまいかねない。(p.148-149)


妥当。