FC2ブログ
アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

矢野久美子 『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』

 ヤスパースは戦後ハイデルベルク大学の再建に尽くし、戦後ドイツの良心として47年にはゲーテ賞を受賞していたが、翌年にはバーゼル大学哲学教授としてスイスに移住していた。ハイデルベルク大学や市議会はヤスパースを失うことに強い抵抗を示したが、アーレントはヤスパースの選択を全面的に支持した。ヤスパースは「国民的英雄」ではなく哲学教師であることを望んだのである。(p.121-122)


ハイデルベルク大学だけでなく市議会もヤスパースの移住・移籍に抵抗を示したというのは興味深い。戦後のヤスパースの名声は確かにそれなりに高いものがあったようである。



彼女は『六つのエッセイ』に収めた「実存哲学とは何か」という論稿で、1933年にナチに入党したフライブルク大学総長となったハイデガーの行動様式を、自分のことを天才と思い込み責任感をまったくもたない「最後のロマン主義者」のそれと見なしていた。彼の哲学から導き出される自己は、自己中心的で仲間から分離した自己、完全に孤立し原子化された自己たちであり、そこから「民族」や「大地」といった概念、つまり一つの「超-自己」への組織化が生まれる、と彼女は書いた。(p.122-123)


ハイデガーの行動様式及び思想に対する適切な評価と思われる。



短期間で総長を辞職したとはいえ、ナチに関係したハイデガーは、当時まだ戦後ドイツの大学での講義を禁じられていた。(p.124)


1950年のこと。こうした禁止が解かれたのはいつなのかが気になる。ドイツにおけるナチ関係者への公的な場面での扱いと評価はどのようなものだったのだろう。日本でも戦前に対する評価について(歴史を知らないにもかかわらず「正しい歴史」を知っていると自惚れる)「歴史修正主義者」たちが跋扈するようになってきている中、ドイツやイタリアなどでの戦前に対する評価のあり方を知っておくのは有益であるように思われる。



ハイデルベルクには当時学生も巻き込んだハイデガー派とヤスパース派のようなものが形成され、後者に属したシュテルンベルガ―は、ハイデガーのナチ協力について、その思想そのものに有罪判決を下して捨て去るような姿勢をとっているように見えたのである。(p.125)


ハイデガーの思想は政治的には右翼や保守・反動と相性が良いのに対し、ヤスパースの思想はそれと比べるともっとリベラルで平等主義的な志向が強い。そういった政治思想的な面でも両者に対する好みは分かれやすいのは理解できる。



 アーレントによれば、イデオロギーとテロルの支配下で現実や経験の意味は消え去り、人間が複数であるという事実が破壊される。現実の世界が余計なものとなるのである。複数の人間のあいだにあり、人びとが同じものを見ているという意味で共有している世界の解体は、他の人びとからも世界からも、そして自分自身からも「見捨てられている」(Verlassenheit, loneliness)という孤立化の事態、人間が根こそぎロンリーであるという事態をもたらした。(p.128)


今回、アーレントの思想に関して、このあたりの考え方に興味が惹かれた。恐らく90年代以降だと思うがアーレントの思想に対する再評価が起こったと思われるが、それはこうした部分に対する関心もあったのではないか。



人間を自動化し自然化することは、人間を予測可能な自動機械に変えることである。そのことを全体主義的支配者は理解していたし、現代社会でもその危険性は十分にある。(p.140)


このあたりからは、法を法とも思わずに恣意的な衆院解散を繰り返す安倍晋三の選挙戦略が想起される。政治的な問題に対して日頃から十分に関心を持ち理解している有権者はほとんどおらず、それを求めるのは「強い個人の仮定」をすることになってしまうような状況において、一方的に情報を発信することができる立場から、ほとんど法的に裁かれる心配がない(日本の裁判所は政治的な判断にはほとんど入り込んでこない)ことを利用して、都合の悪い事実・情報を隠蔽し、一方的に政権に都合の良いアジェンダを押し付ける。ほとんどの有権者は「語られていない(政権に都合の悪い)事実」を十分に考慮しないまま投票してしまう。これはまさに「人間を予測可能な自動機械に変えること」と重なるところが多いと思われる。



 大衆ヒステリーは主観的で「私的」なものであるとアーレントは言う。前章ですでに述べたように、アーレントによれば「私的」であるとは奪われているということを意味する。奪われているのは、世界の多様な見え方、すなわち世界のリアリティである。(p.156)


この箇所が本書を読んで最も啓発された箇所である。言われていることの大部分は2つ前の引用文と同じ考え方だが、大衆ヒステリーが主観的で「私的」なものだという指摘は、現代の世界におけるポピュリズムの台頭という現象を想起させ、ポピュリズム政党を支持する人々の状態を的確にとらえていると思われる。彼らはまさに「世界の多様な見え方」を奪われている。世界のリアリティが欠けている。(それでいながら彼ら自ら「現実的外交」などと言うのが滑稽だが。)彼らの言説には公共性が欠けているが、世界の多様な見え方が欠けているところに公共性などあるはずもない。そうしたことが非常に腑に落ちた。



思考に動きがなくなり、疑いをいれない一つの世界観にのっとって自動的に進む思考停止の精神状態を、アーレントはのちに「思考の欠如」と呼び、全体主義の特徴と見なしたのである。
「思考の動き」のためには、予期せざる事態や他の人びとの思考の存在が不可欠となる。そこで対話や論争を想定できるからこそ、あるいは一つの立脚点に固執しない柔軟性があって初めて、思考の自由な運動は可能になる。(p.174)


ポピュリズムなどによる「民主主義の暴走」にもこれは当てはまるように思われる。少数の投票で巨大な権力が獲得できる現在の日本の選挙制度は――比例代表と組み合わせていることや、二院制や参議院の選挙制度など、こうした危険を多少は緩和する要素も持っているにせよ――ポピュリズムがなくても政権与党がかなりの程度まで暴走できる制度になっており、こうした暴走により、一つまた一つと民主主義の抑制装置を解除されているのが現状で起こっていることであり、これらの抑制装置が解除されたことを利用する政権が現れた時、破局へと一気に進む危険がある。現在の政治に対する私の懸念はこの点にある。



 アーレントは「真理と政治」という論稿のなかで、政治的な領域をかたちづくり人びとが生きるリアリティを保証すべきものであるはずの歴史的出来事や「事実の真理」が、数学や科学や哲学の真理といった「理性の真理」よりもはるかに傷つきやすいものであると論じた。「事実の真理」は、それが集団や国家に歓迎されないとき、タブー視されたり、それを口にする者が攻撃されたり、あるいは事実が意見へとすりかえられたりという状況に陥る。「事実の真理」は「理性の真理」とは異なり、人びとに関連し、出来事や環境に関わり、それについて語られるかぎりでのみ存在する。それは共通の世界の持続性を保証するリアリティでもあり、それを変更できるのは「あからさまな嘘」だけであると言う。「歴史の書き換え」や「イメージづくり」による現代の政治的な事実操作や組織的な嘘は、否定したいものを破壊するという暴力的な要素をふくんでいる、とアーレントは指摘した。(p.207-208)


本書は2014年に出た本だが、最近1年前後の情勢を念頭に置いて書かれているかのような錯覚に陥る。アメリカのトランプが大統領となり、事実の報道に対して「フェイクニュース」というレッテルを貼ることで都合の悪い真実を消し去ろうとする姿勢や、安倍政権による森友学園、加計学園に関する問題で、政権にとって都合の悪い事実が隠蔽されている。政権側は質問されてもはぐらかし、質問の機会をつくることを求められても応えず(臨時国会は実質的に開かれていない)、都合の悪い事実を口にする者(前川氏)を攻撃し(読売新聞が加担した記事)、時間を稼いでいる間に証拠を隠滅していること(財務省のパソコンの情報などを想起)は明らかだろう。

歴史修正主義者たちの言説も「あからさまな嘘」であるが、それでもそれを否定するために立証しようとすると、込み入った専門的な議論や知識が必要になったりするため、一般に広く理解されることはなく、それらが公衆の面前であからさまに論破されないまま垂れ流されているうちに、次第に嘘が真実であるかのように受けとめられていくという方向に流れている面がある。

「事実の真理」の脆弱性をよく認識した上で、それをどのように守っていくのか、学問だけでなく政治的にも非常に重要な課題である。


村上陽一郎 『近代科学と聖俗革命 <新版>』

 つまり、デカルトの論理において、疑い得ないとされたものは、「自分の」思惟、「自分の」《cogitatio》ではあっても、それが、「我々の」、言い換えれば「人類一般の」思惟、理性、《cogitatio》にまで拡大されることについては、何らデカルトの論理は証明していない、という反論が充分成立し得るように思われる。
 ……(中略)……。
 デカルトが、人間にとって、他の機械や動物から区別されるべき絶対的な手掛りとして措定した《cogitatio》という概念は、デカルトの言い分をそのまま認める限りにおいて、人間を他から区別する手掛りではなく、「我」を他から区別する手掛りにすぎなかったのである。(p.192-193)


有名なcogito ergo sum(我思う、ゆえに我あり)に対し、村上はデカルトが確実なものとしたのは、自分の思惟でしかないという点を指摘する。これと人間は例えば自由意志を持つものだというデカルトの想定とは結びつけることができず、人類一般についてデカルトのこの論理からは何も導き出せない点を批判している。

この本の旧版を私は15年ほど前に読み、ちょうどその時に出た新版を(すぐに買ったのに)今頃読んだわけだが、本書の初版が出た頃と現在とでは言論の基礎にあるものがかなり変わってきていると感じる。現在は当時ほどデカルトを批判する必要性はなくなってきている。このことは科学に対する一般の考え方もこの40年ほどでかなり変わったのだということに由来する。古い本を読むのは現代の立ち位置を認識する役に立つ


河本英夫 『損傷したシステムはいかに創発・再生するか オートポイエーシスの第五領域』(その2)

 家を建てる場合を想定する。13人ずつの職人からなる二組の集団をつくる。一方の集団には、見取図、設計図、レイアウトその他必要なものはすべて揃え、棟梁を指定して、棟梁の指示どおりに作業を進める。あらかじめ思い描かれた家のイメージに向かって、微調整を繰り返しながら作業は進められる。もう一方の13人の集団には、見取図も設計図もレイアウトもなく、ただ職人相互が相互の配置だけでどう行動するかが決まっている。……(中略)……。

 ここには二つのプログラムが、比喩的に描かれている。認知的な探索プログラムは、前者の第一のプログラムに相当する。そのため対象を捉えるさいには、第一のプログラムにしたがう。それが認知や観察の特質であり、目的合理的行為を基本とする。ところがシステムそのものの形成運動は、後者の第二のプログラムにしたがっている。
 ……(中略)……。
 一般的に考え直すと、第一のプログラムは、人間にとってとても根深いもので、現に人間の行為がほとんどそのように営まれていることからみて、行為のなかに染み込んでしまっている。このプログラムにしたがって作動しているのは、大まかな区分によれば、知覚、言語、思考である。いずれも線型性を基本としている。知覚のなかに含まれる志向性は、ここから向こうへ向かう傾向をもち、その特質の形式性をフッサールは、ノエシス-ノエマのような線型の関係として取り出している。いずれも対象や現実をわかることを基本にしており、わかってから二次的に行為もしくは行動に接続される。また第二のプログラムにしたがって作動するのは、感覚、感情、身体、行為、その他のいっさいの形成運動である。身体の形成や行為の形成を本来第一のプログラムで教えることはできない。しかし教育の多くの現場では、誰にとっても同じ解答が得られ、同じような手順を踏んで、同じ結果が出せることが基本になってきた。これは能力の形成でいえば、知覚、思考の形成には適合的であっても、他の能力の発現を大幅に抑制している。(p.136-139)


線型と非線型で対比している点がなるほどと思わされた。時間の観点から対比すると、後戻りできるかできないかという違いで言い表しても良いかもしれない。



 オートポイエーシスの構想では、言葉で記述されたものに対して、それがどういう経験をすることなのかが問われている。オートポイエーシスにかかわる経験をもたないのであれば、意味理解、意味の配置、意味内実の構文論的表記のような言語にかかわる理解に行きついてしまう。言語的理解では、ある意味でわかった途端に終わってしまう。つまりそこから一歩も進めないのである。(p.350)


自分で実行することは簡単にできるのに、それを人に教えようとする場合、どうしてもうまく伝わらない。できるように伝えることができない。こういうことが私の場合よくある。上の引用文で言えば、第一のプログラムに変換した後の言葉を語ってしまっているのではないかと思う。教えることが成立するためには、第二のプログラムに沿った言葉で語り、かつ、相手がそれを言語的ではない理解をしなければならない、ということだろう。


河本英夫 『損傷したシステムはいかに創発・再生するか オートポイエーシスの第五領域』(その1)

片麻痺患者本人はそれぞれかつてのように、思うように歩くことはできないとわかっている。歩行の感触が異なることには気づいている。だが何がおかしいのか、どこがおかしいのかに気づくことはなく、また多くの場合おかしいという感じもない。……(中略)……。そうだとすると障害を克服しようとする脳神経系の治療では、到達目標は結果として後に感じ取れることであっても、あらかじめ目標にすべきことではないことになる。またそれを目標にしたところで、それがどうすることなのかがわからないのである。ところが治療目標を欠いたのでは、個々の治療手順さえ決めることができない。プロセスを含んだシステムの作動には、こうした固有の難題がつねにつきまとっている。ここにはいくつものパラドキシカルな事態が含まれている。
 ここに視点の移動を組み込んだ工夫が必要となる。たとえば損傷への治療目標は、外的に設定される。それは障害者当人にとっては、自分自身の目標でさえない。治療プロセスにあっては、この目標は括弧入れされ、個々の治療プロセスの継続が、結果として目標に到達するように設定することが必要となる。これは必要な条件を代えれば、すべての学習に当てはまることである。こうした視点の移動を組み込んだ行為の形成を構想するためには、自己組織化やオートポイエーシスの仕組みをたんに理論モデルとしてではなく、経験の仕方そのものに内在する機構として活用することが必要となる。(p.27)


目標は観察者の視点から設定しつつ、治療(学習)プロセスは行為者として継続していくといったところか。治療に関する工夫は学習にも当てはまるという指摘を受けて、自分でできることと人に教えることとの違いも、この二者の切り替えと関係しているのではないか、ということに気づいた。

自分ができるかどうかは、上記の視点の切り替えを自然に行うことができ、かつ、行為者として学習プロセスを継続できるかどうかが問題となる。これに対し、教えることができるかどうかは、この視点の切り替えの場面や方法などを気づかせたり実行させたりすることができるかどうかにかかってくる部分が大きいように思う。やはり両者(できることと教えられること)にはいろいろと大きな違いがあると考えるべきだろう。



 第三にじっと見る、しばらく見続けるような場面での焦点的注意がある。細部を細かく見るのではない。ただじっと見るのである。これは見えるもの、見えるはずのものが立ち現れてくるまでじっと佇むことに近い。「佇む」という動作は、今日ほとんど消えてしまっている。そのためあらためて獲得しなければならないほどである。意味的にものごとを理解してしまう場合には、作品に対して配置をあたえるような理解をして、それでわかったことにするというのがほとんどである。この作法は作品に対して、経験の速度が合っていない。あるいは作品を経験せず、理解と配置だけで通り過ぎてしまうのである。焦点化は、既存の見方、視点、とりわけ視覚的な理解を括弧に入れ、出現するものの前で経験を開くことである。(p.73)


意味的に理解することと佇んで経験すること。確かに前者に比べて後者のような姿勢は私自身の生活を省みた時、圧倒的に不足しているように思う。私も「佇む」ことを獲得しなければならない。



能力の形成の段階とは、獲得した技能が内化され、自動化するようなシステム的な平衡状態の獲得に他ならず、そこには能力そのものの組織化の一面がある。つまり観察者から見て停滞の時期は、獲得された技能や知識の再編的な組織化が起きており、システムそのものにとっては、欠くことのできないプロセスなのである。(p.120-121)


スポーツにおけるスランプの時期などもこうしたことが起きているのだろう。



 発達の段階区分には、区分の成立そのものに抑制機構が関与していると思われる。余分な動作や運動のさいの余分な緊張が消えて、いつ起動してもおかしくないが通常は抑えられている広範な行為起動可能領域が存在すると予想される。抑制機構は、生命の機構の基本的な部分であり、発達の段階が生じるのは、こうした抑制機構の形成が関与していると考えてよい。抑制は、化学的プロセスのフィードバック的な速度調整のような場面から始まっており、一挙に進んでしまうプロセスが抑制機構をつうじて遅らされていることが基本である。これは選択肢を開くという意味で生命一般の特質でもある。この遅れは、生命のプロセスのなかに選択性を開くための必要条件となっている。この場合、発達論の基本は、どのようにして次々と能力が形成されていくかだけではなく、あるいは能力が次々と付け足されるように再組織化されるだけではなく、抑制的な制御機構が何段階にも整備されてくるプロセスでもある。抑制的な制御機構は、観察者からは見落とされがちだが、システムそのものにとっては欠くことのできないプロセスである。(p.121-122)


何かができるようになるとき、実行しようと能動的に働く側の仕組みにばかり注意してしまいがちだが、この時、同時に抑制的な制御機構も働いている。スポーツの最高のプレーが出来ている時、そこには意識的な動作はあまり前面には出てこない。意識して調整するのではなく、意識のより潜在的な部分で調整されている。ここで注目されている抑制機構は、こうした場面においては「意識的な意識」が抑制されていることとも関係している。


ダンカン・ワッツ 『偶然の科学』

 このように、常識の矛盾とは、世界に意味づけをするのに役立つにもかかわらず、世界を理解する力を弱めてしまうことだ。(p.13)


世界のメカニズムを理解することとそのメカニズムの意味を見出したり解釈することは別のことであるが、常識は前者が得意ではなく、後者を得意としているという。だから常識で世界を理解しようとすると誤りやすい。

思うに、情報に分かりやすさを求めてしまう傾向が広くみられることも(例えば、マスメディアで政治を取り上げるとき、ワイドショーで取り上げられると「盛り上がりやすい」など)、人間のこうした性質と関係があるように思われる。



 これらの心理学の実験が明証していることを一言でまとめるとこうなる――われわれの行動にきわめて現実的、具体的な影響を与えるにもかかわらず、もっぱらわれわれの意識しないところで働く関係要因は実に数多くある。(p.54)


本書の前半は方法論的個人主義が批判されるが、ここでの指摘の内容はウェーバーの理解社会学の方法(これは本書で言う「常識」に基づく方法に属する)が、いかに社会における因果関係などを把握するのに適切ではないかを示すものである。



ダ・ヴィンチは賞賛されてこそいたものの、1850年代まではティツィアーノやラファエロのような絵画の真の巨匠には及ばないと見なされており、このふたりの作品の一部は<モナ・リザ>の10倍近い価値があった。
 実のところ、<モナ・リザ>が急激に人気を博して世界に名を知られるようになったのは20世紀になってからである。……(中略)……。すべてのきっかけは、一件の盗難事件だった。(p.72)


このあたりの経緯(ここでは詳細に引用しないが)も非常に面白い。



われわれは芸術作品をその特質に基づいて評価しているように思えるが、実は反対のことをしている。つまり、まずどの絵が最高かを決めたうえで、その特質から評価基準を導き出している。こうすれば、すでに知っている結果を一見すると合理的かつ客観的な形で正当化するのに、この評価基準を引き合いに出せる。しかし、これがもたらすのは循環論法である。われわれは<モナ・リザ>が世界で最も有名であるのはXとかYとかZとかの特質を備えているからだと言い張る。だがほんとうのところは、<モナ・リザ>が有名なのはそれがほかの何よりも<モナ・リザ>的だからだと言っているにすぎない
 ……(中略)……。だが、いま述べたような循環論法、つまりXが成功したのはXがXという特質を持っていたからだとする論法は、何かが成功したり失敗したりする理由を常識に基づいて説明するときに広く見受けられる。(p.75-77)


ここでの指摘はウェーバーの理解社会学で行われている手続きに対しても全く同様に当てはまるものであり、方法論的個人主義の問題点を的確に抉り出していると思われる。



 方法論的個人主義の主張者は、この根本中の根本の説明ができると考えていたが、あいにくそれを打ち立てようとする試みは、ことごとくミクロ-マクロ問題に正面から阻まれてきた。そのため実際のところ社会科学者は、代表的個人と呼ばれるものを引き合いに出し、この架空の個人の決断に集団の行動を代弁させている。(p.84)


実際、私自身もミクロ・マクロ問題が解決できる方法としてウェーバーの理念型を用いた理解社会学の方法をかつて非常に高く評価していた。



 言い換えれば、われわれは結果の原因をひとりの特別な人間に求める誘惑に駆られるが、この誘惑はわれわれがそのような世界の仕組みを好むからであって、実際にそのような仕組みになっているわけではないことに留意しなければならない。……(中略)……。
 このようにして常識に基づく説明は、なぜ物事が起こったかを教えているように思えても、実は何が起こったかしか述べていないのである。(p.155-156)


ここで指摘されていることは、政治について話題にする場合に、政策論よりも政治家のスキャンダルや問題発言などの方が話題になりやすいこととも関連があると思われる。



したがって、進行中の歴史は語りえないのであって、その理由は当事者たちがあまりに忙しかったりあまりに混乱していたりして歴史を解き明かせないからだけでなく、起こっていることは結果が明らかになるまで意味づけができないからでもある。(p.161)


なるほど。



 要するに、うまく機能したチームがすぐれた結果を出したのではなく、見かけ上のすぐれた結果がチームはうまく機能したという錯覚をもたらしたことになる。そして注意していただきたいのだが、この評価は内部情報を持っていない外部の観察者がくだしたのではない。チームのメンバーたち自身がくだしたのである。つまり、ハロー効果は成績や実績にかかわる世間一般の通念をくつがえす。結果の評価はそれに至った過程の質で決まるのではなく、観察された結果の性質が過程の評価を決めるのである。(p.279)


能力給や成果主義、短期的な人事評価制度などといったものがうまくいかないのも、ここで述べられている点と関連が深いと思われる。見かけ上のすぐれた結果を得たチームにいれば評価され、実際にうまく機能したかどうかは問われない。評価は偶然によって生まれた結果によって決まってしまう。これでは意欲が削がれるのも当然であろう。



 この累積的優位の効果と生まれながらの才能や努力の差とを区別するのはむずかしいが、似た能力の人々をどれだけ慎重に選ぼうとも、マートンの理論が示すとおり、その成功の度合いは時間とともに大きく異なってくることが、数々の研究によって明らかにされている。たとえば、不況時に大学を卒業した人は、好況時に卒業した人より、稼ぎが平均して少ないことが知られている。(p.289-290)


偶然のもたらす結果の違いは大きい。


ライプニッツ 『単子論』
この『単子論』は岩波文庫版であり、訳者は河野与一である。

『説』le systèmeは17世紀及び18世紀前半に於ては今日の「体系」の意味に用ゐられたことは寧ろ少く、普通には「意見」「見解」「説」「仮説」の意味に用ゐられてゐた。(p.61)


訳注より。用語の意味の変遷は面白い。次に知りたいことは、何が契機や背景となって意味の変化が起こったのか?である。



 ここにライプニツの最善観 l'optimismeが現れてゐる。現実の世界は可能的世界の最善なるものである。最も豊富な合成体で、場所が最もうまく利用されて、できるだけ多数の要素を含み、而もその要素は展開して最も完全な調和を実現するやうになつている。勿論さう云つたところで世界が毫も悪を含まないといふのではなく又悪の量が少いといふのでもない。創造に先立つて可能的なものの中に豫め必然的に存した不完全性は神と創造物との区別をつける点であつて創造の後にも消滅せずにゐる。さうしないと想像につて神と同じものが出来ることになるから不合理である。然し神の選んだ世界は悪の量ができるだけ少くなつてゐる。(p.268)


訳注より。最善観とされているものの意味内容が理解できたように思う。ただ、不完全性は神と被造物の区別のために必要だとする理由づけは、誰もが承認しうるような議論とは言えず、キリスト教の特定の考え方に抵触しない世界観を表現しなければならないという前提のもとで、その前提から発してひねり出された理由としか思えず、説得力には乏しい議論と言わざるを得ない。また、ライプニッツの哲学全体に言えることだが、これこれのものとして観察し、確認された事実を述べているところは形而上学的な著作においてはほぼないと言ってよいほどであり、これに代わって上記のような前提からひねり出された発想に基づく想定をあたかも事実として扱い、それによって前提に抵触せずに説明できたことにライプニッツは満足しているように見える。(こうしたことはライプニッツに限らず、同時代の哲学にはよくみられるが。)



私はこの作用力があらゆる実体に内在し如何なる作用も常にそこから生ずると説く。従つて、物体的実体でも(精神的実体と同様に)作用を止めることは決してない。物体的実体の本質が専ら拡がりにのみ存する、乃至不可入性にのみ存すると考へ、物体はどう見ても静止してゐるものだと考へる人々は、十分この点に気附いてゐないやうである。(p.470)


これは「単子論」ではなく「第一哲学の改善と実体概念」という論文からの引用だが、例えば、デカルトは物体を「延長」として規定したが、「延長」や「拡がり」や「侵入できないこと」といった性質によって物質を規定する場合、極めて静態的なイメージにより理解されることになるが、ライプニッツはこれに対して、「実体」をより動的なものであると捉えているところに特徴がある。観察者の視点で書かれているが、システムの作動の局面を感得しているものと推察される。


W.G.ランシマン 『マックス・ウェーバーの社会科学論』

徹頭徹尾実証主義者である人々の主張の、また徹頭徹尾観念論者である人々の主張の、最も容易な吟味は、その困難ゆえにあえて選ばれた範例に即して、それを吟味してみることである。(p.22-23)


ある主張にとって都合の良い範例に即してその主張を吟味してみても、その主張を検証したことにはならない。むしろ、その主張にとって説明が難しい範例に即してどのような説明が可能かということを吟味することが、その主張の妥当性や妥当する範囲などを確認することに繋がる。



ユルゲン・コッカ 『〔新版〕ヴェーバー論争』

まず、フーフナーゲルが浩瀚な文献的知識に依って明らかにしているように、ヴェーバーは彼の「理念型」概念を決して十全かつ体系的に説明したことはなく、それ以来理念型には、高度の――ある人には厄介な、他の人には「可能性豊かな」――「両義性(アンビヴァレンツ)」がつきまとっている。次に、モムゼンが明確に示した如く、マックス・ヴェーバーの理念型理解はいくつかの段階を経てきた。後期ヴェーバーの理念型は、「プロテスタンティズム」論文や「客観性」論文の理念型と較べると、現代の社会科学者・行動科学者のつかう一般命題により近似していると言えるのではなかろうか。(p.33)


理念型理解がいくつかの段階を経たというのは、「十全かつ体系的に説明したこと」がないのであれば、単に揺れ動きがあるだけ、という可能性もあるように思われる。今後、モムゼンの本も何冊か代表的なものは押さえておきたいと考えている。



一方でヴェーバーの徹底した

「価値の不可知論」

、つまり価値と行為目標に関する理性的な討論の断念、そしてこの問題をもっぱら闘争と決断の領域に放っておこうとすることは、民主主義概念のこうした危険な形式化へ、議会制の道具化へ、そうして(行政がますます目的合理性を増してゆくなかで)政治的な〔意思〕決定過程の形骸化、いやまさにその非合理化へと導いた。(p.40)


このあたりの指摘は、サンデルがリベラリズムの中立性の要請を批判しているのと同じ論点と思われる。



もしも――グスタフ・シュミットが明らかにしたように――人民投票的指導者民主主義の諸要素へのヴェーバーと同様な共感が――他の面では、価値の問題性に関するヴェーバーの見解も、「官僚制的凍死」に対する彼の懊悩もほとんど分かち持ってはいなかった――マイネッケやトレルチにおいても見出せるならば、かのヴェーバーの提案を、モムゼンが行っているようにひたすらヴェーバーの思想全体の傾向から説明しようとするのは正しいかどうかが問われることとなる。(p.42)


なるほど。



近代的官僚制と経営の革新能力は、ヴェーバーにとって(他には例えばシュンペーターによっても)著しく過小評価されていたようである。これは社会的変動に関する彼のモデルの弱点を示している。彼のモデルでは――イデオロギー的な倍音を少しく含んで――変化の運動法があまりにも偉大な人間個性――経済の領域でいうと、企業者個人の資質――につなぎ留められている。(p.55)


伝統的支配や合法的支配のもつ硬直的というか変化に抵抗する局面をカリスマ的支配によって打破するというモデルになりやすい。ウェーバーの理論では、社会変動について説明する道具立てが不足している



 この半世紀の発展は、いったいヴェーバーの社会硬直化という予測を確証しているであろうか?政治、経済及び文化における偉大な独一の個性をもった人間の役割が疑いなく減少したにもかかわらず、変動はますます急速かつ全般的となっている、と少なからず確実に論じられるのではないか?このことは再度、こうした諸々の変貌とスピードアップとを説明することも予測することもなかった彼の社会変動モデルの弱点を示している。(p.55)


ウェーバーの社会変動モデルに対する鋭い批判。



 最後に、ヴェーバーのとった態度や彼のなした定式化の多くを、彼が論争し、抗議を行なっていた当時の状況から理解すべきではないか、という問題が吟味されるべきであろう。彼は、不断の闘争と評価の分析に対する独立性というテーゼを、彼の基本的な傾向に適切であった以上のものにまでしてしまったのではなかったか?というのも、固有の政治的立場の隠蔽のために専門知識を濫用することに対して、彼は徹底した反対の意を表していたからである。彼はまた恐らくは、認識を導く観点の、研究対象の構造からの、実際にはただ相対的でしかない独立性を――彼の確信に照らしてみると正当であったものの度を越えて――強調しすぎたのではないか?というのも彼は、客観主義者たちに対して、認識論の領域における素朴さや独断主義に対して、論争的に議論していたからであり、また彼の学問論は、論争的な個別論文の一集成だからである。彼はおそらく、その立憲政治の諸提案の中で、多くのリベラルで民主主義的な、反権威主義的な、また反情念的な保証――そんなものへの言及など当時の具体的な状況裡にあっては何ら論争的な機能を持たなかったであろう――については、この保証が、多分彼の基本的な立場の帰結にあったのであろうが、いや彼にはこんな保証などおそらくは明々白々と思われていたにせよ、彼は黙殺したのではないか?このような考察は、ヴェーバーの著作における亀裂を取り除くことはないが、それでも次のことの助けとはなりうるであろう。まずその亀裂を理解すること、そうして、〔論者による〕多くの定式化が有する論争上の一面性について、強調されることが余りに少なかったそれの対重局面を見逃すようなことからヴェーバー解釈を救うこと、である。この対重局面は、ヴェーバーの立場を〔従来の解釈と〕全く同等に刻印づけているのである。(p.56-57)


ウェーバーの議論の論争的な性格が、様々な定式化を一面的なものとしており、ウェーバー本人の考え方を正しく表現していないところがあるとコッカは見ている。論争的に書くことで一面性が高まるというのは確かにありがちなことであり、ウェーバーに限らず一般にテクストを読む際には、発言の相手や文脈を踏まえて読み解くことは、テクストのより深い理解のためには重要



河本英夫 『<わたし>の哲学 オートポイエーシス入門』

忘れたことは、次に思い起こすとき、まったく別様なものになることが多い。想起とは、再組織化の仕組みでもある。忘れることは、最も貴重な経験の一つであり、なにを学ぶかではなく、なにを忘れるかによって、経験の輪郭は決まる。少年は忘れることをつうじて、学んでいるのである。少年とは忘れるということの弾力のことである。
 ……(中略)……。
 そのため誤解しやすいのだが、ほとんどの根本的な問いは、直接解答の出るようなものではない。同じ問題を考え続けていれば、誰であれどこか妄想様の想念に取りつかれたり、偏執性のこだわりが生じやすくなる。同じ問題は一度忘れて、しばらく経ってから再度取り組んでみるのがよい。忘却と想起をつうじて、問いそのものが変容していくのである。(p.7-8)


言われてみれば思い当たる節があるが、なかなかこうしたことを指摘してくれる人はいない。観察者がすれ違ってしまうもの、見落としてしまうものを感知できるようにしてくれるオートポイエーシスの構想から学ぶものは多い。



注意には、現実性そのものを成立させることにかかわる遂行的注意がある。注意が向き、なにかの現実に気づくのである。成立した現実を詳細に捉えようとすると、焦点的注意が働き、対象が特定されて、見るべきものを見るようになる。これが知覚である。知覚はすでに成立している現実を正確に捉える働きである。なにかあると感じられるさいには、遂行的注意が働いているが、そこからどの局面を焦点化していくかにかかわるのが、選択的注意である。
 不思議さの感覚は、まさに不思議な事象がそれとして気づかれるので、遂行的注意である。そこから焦点化の手前で、特定のなにかに局面を絞るのが選択的注意であり、一般的にはセンスと呼ばれるものである。センスのよい人は、一般には「見えているものが違う」と感じられる。学習の最短性の要請から、多くの児童や少年は一般に見えるべきものを見るように訓練され、焦点化されが知覚を学んでいる。だがそれでは「経験の可動域」が狭くなりすぎるのである。(p.54)


遂行的注意を働かせ続けるには、むしろ不思議なものは不思議なままにしておき、選択的注意を働かせ過ぎない方がよく、その方が「経験の可動域」は広くなるということか。

いわゆる詰め込み教育とか知識偏重などとして学校教育が批判されるが、その議論も、現行の教育が選択的注意ばかりを働かせるものであるところに問題が感じられているところに由来する面がある。一時期、「ゆとり教育」という方針が出されたが、遂行的注意を働かせることに寄与するかという点から見ると、そうは言えないように思われる。単に選択的注意を活用する機会を減らすだけでは、遂行的注意をよく使うことの可能性は多少は開かれるかもしれないが、それほどうまくつながる(遂行的注意の力を育てる)ことはないだろう。では、どのような教育であれば「遂行的注意」の力を鍛えることができるのだろうか?



 観察は、一般によく見ることであり、物事の意味を捉えることである。その点で観察の中心には、つねに知覚が置かれた。知覚は、対象をそれとして捉える感覚的直観であり、捉えられたものが意味である。そして発見とは、この意味を別様に捉えることだと言われてきた。そのさいしばしば、天動説から地動説への移行、フロギストン説(燃素が飛び出すことを燃焼だとする)から酸素説(酸素の化合を燃焼だとする)への移行が、歴史的な典型事例として取り上げられ、議論されてきたのである。そこでは視点を切り替えるように、物事の捉え方を全面的に変えることが発見だと言われてきた。そしてそれが「パラダイム転換」と呼ばれた。
 こうした主張に対して、私はいつもなにか変だという思いを抱き続けてきた。実は、発見とは視点の転換だというような議論は、発見がなされた後に、複数の捉え方を知っている人間から見た発見についての解釈なのである。発見が実際に起きたという事実と、発見が前のものからの不連続な飛躍であることを知った上で、そこで起きたことを、再度視点の転換だと解釈してきたのである。これは複数の捉え方をすでに知っている歴史的傍観者による解釈である。
 少なくとも、発見のプロセスのさなかを進むものは、そのとき何が起きているかが分からないような局面を進む。そのさなかで五感を目一杯開き、勘だけを頼りになお進んでいく部分がある。それは視点を切り替えるような作業とは異なる。(p.55)


科学史や科学哲学などでかつて議論されてきた問題に対するオートポイエーシスからの批判。



 現象がおのずと見えるようになるということは、ただ見ていたり、教えられたことを見つけるような学習とは異なる。教えられてはじめて見えることは、教えられたようにしか見ることはできず、また教えられたことしか見ることができない。ところが何かの拍子に、突然見え始めるような現実がある。こうしたタイプの注意は、選択的注意とは異なるタイプの注意であり、現実性そのものの成立にかかわっている。おのずと何かが見えるようになるためには、現実の宙吊りが必要であり、しばらくそれを維持することが必要になる。(p.62)


このあたりは、2つ前の引用文に対するコメントで私が最後に述べたことと深くかかわっている。思考の宙吊りとそれの維持をさせるような教育とはどのようなものか?



 アナロジーは、当の現象との隔たりがなおかなりある場合であっても、さらにそこに謎を残し、不思議さを残し続ける。アナロジーによる現象の解明は、別段決着がつかなくてもよい。現象を考えるための手掛かりは増え、少しずつピントが合う程度でも十分なのである。(p.63)


容易に決着がつかない問題には、こうした方法によって宙吊りを行うことが有効。



 キュビズムの仕組みで見る限り、形状が基本形の加算となり、持ち合わせた基本形に現実の事物を変形していく。この変形のプロセスに、イメージが関与する。物を見る。眼を閉じる。そしてさきほどの物を可能な限りイメージのなかで蘇生させる。ある意味でイメージをつうじた解釈である。そしていくつかの基本形から事物を再構成するような手順を踏んでいく。このとき現実の物との接点をどこかに残していかなければならない。物をどのように変形させようと、それが物であることの感触を残し、かつ多様でありうることの可能性を残しながら構成されなくてはならない。
 この構成には、現実の物と作品が離れすぎてはならず、近すぎてもいけないような微妙な均衡点があるに違いない。しかもその均衡点は、一つには決まらない。その均衡点をかたちと色から探り当てるところが、それぞれの作家の才能であり、資質である。……(中略)……。
 かたちの変形を極端にまで推し進めれば、実は抽象絵画になってしまう。……(中略)……。
 抽象絵画は、方法的な視点から現実性を別様に解釈できること、さらには方法的に制御できる変数を変えることで、際限のない多様性を確保できるかに見える点に特徴がある。ところが抽象絵画には「何かが欠けてしまっている」という印象が残り続ける。方法的に実行される圧倒的な多様性のもとで何かが欠けるのである。おそらくマティスにとってそれが存在するものの個体性であり、個体のもつ強さであった。
 物は、みずからによって物である。女体はそれ自身によって女体である。あるいは女体はみずから女体であることによって、それじたい一つの喜びである。絵画は、どのように方法的に制御されようと、一切の方法の一歩先において、みずから個体化する。この個体化するものが、みずからによる存在である。そしてそこにまで届かせようとすると、方法的な制御の一歩先で起きてしまうことにかかわらなければならない。それが抽象絵画ではごっそりと抜け落ちてしまうのである。
 このことは抽象絵画が、一目見ただけで面白さも良さも、またそれを描いた者の才気の質まで分かるが、それで打ち止めになってしまうことに関係している。絵から才気は感じられるが、そしてそれは小さなことではないにもかかわらず、それだけなのである。才気は、おのずと感じられることが必要であり、スタンドプレーではないはずである。見せつけるような才気には、凄さと同時にどこか過度に意図して見せつけるような余分さが感じられる。またその意味では見え透いている部分が残り続ける。一般に方法的に制御されなければ、作品は無作為が過剰となり、方法的に制御されているだけであれば、作品の現実は貧困になる。(p.106-108)


前半ではキュビズムに関して述べられているが、現実の物と作品との距離の微妙な均衡点について語られているところは、なるほどと思わされた。そして、その一つに決まらない均衡点を見つけるには才気がいるということも然り。一見すると子どもでも描けそうだ、などと言われるキュビズムや抽象絵画なども、実際に書いてみようとするとそううまくは行かないことが分かるが、その秘密が少し理解できたように思う。

また、抽象絵画に対する批評も、今まで抽象絵画に対して私が感じてきた違和感のようなもののかなりの部分を言い当ててくれているように思われる。ある意味、今まで読んできた中で最良の絵画に対する批評・解説だと思う。



 制作の試行錯誤は、一般に次のプロセスに進むことができるかどうかである。次のプロセスに進むことができたものは、その手前の部分が集合のメンバー(構成素)として確定していく。そしてプロセスの接続点には、ほぼ必然的に選択肢がある。このときプロセスが進めば、なにか特定の傾向がそのプロセス群のなかに出現してくることがある。そのとき作者は、よく分からない力によってそちらに引っ張られていくと感じることがあり、時としてまるで出発点では気づいていなかったものに向かって行ってしまうこともある。
 ところがこのプロセスの連鎖は、どこまでも続くわけではない。制作プロセスの連鎖が、どこかのプロセスに接続して、プロセスの閉域ができたとき、そこに作品の個体が出現する。すると、これはすでにある個体の必要条件を述べているのではなく、個体そのものの出現の仕方を定式化しようとしていることになる。
 しかもプロセスのさなかを進む経験は、個体が出現したとき、それが何であるかを知りようがない。……(中略)……。
 制作プロセスと作られた作品は、異なる次元(ディメンション)にあり、二重の現実性として成立している。(p.120-121)


一つ前の引用文の中で「絵画は、どのように方法的に制御されようと、一切の方法の一歩先において、みずから個体化する」と述べられているが、こうした個体化のプロセスがどのようなものであるかを示しているのがこの箇所である。

制作する行為の連鎖がシステムであり、作品はそのシステムの外部に副産物的なものとして生成している。一つ前の引用文で「方法的に制御されているだけであれば、作品の現実は貧困になる」と述べられているが、これは、こうした場合には、システムと作品とのギャップが非常に小さなものになることと関係している。



 ちなみに新たな角度や観点から、なにかが分かるということじたいは、それほど重要なことではない。むしろ重要なのは、どの程度の展開可能性があるかである。「器官なき身体」という概念で、さらにどの程度、展開見込みがあるかを感じ取り、考えてみるのである。そうするとこの語に込められた主張は、いささか過激なものだが、ほとんど展開見込みがないことが分かる。こうした場面で働く評価が、センスである。こうした場合には、一度それを理解したら笑って脇に置いておくのがよい。少なくともこうした視点を全面的に切り替えるような主張を、自己正当化の言説として活用するようなことは、ただの自己主張である。そこでは実際にはほとんど何も生み出されはしないのである。(p.186-187)


ここではドゥルーズとガタリについて批判しているが、ポストモダンと呼ばれたような議論のほとんどが、展開可能性はほとんどないように思う。あれらはいずれも過度に観察者の立場に立ちすぎており、それまで誰も語らなかった観点を探し、その角度から何かを語ってみただけ、(そして、そういう発見をした自分はすごいだろうと誇ってみたいだけ)という程度のものでしかない、というのが私の評価である。ある意味、二つ前の引用文で、河本は抽象絵画について才気は感じられるが、ただそれだけだと語っていたが、ポストモダニズムもそれと同じようなものだと考えている。

なお、展開可能性がないという主張に対して反論するためには、実際に展開させてみてどれほどのことが言えるかを示すことが重要であり、単に反論者があり得ると思っている可能性について語るだけではほとんど何の意味もない。


H.R.マトゥラーナ、F.J.ヴァレラ 『オートポイエーシス 生命システムとはなにか』

 言語が指示的なものとみなされる限り、必然的に言語は情報伝達の手段とみなされてしまう。「受け手」の不確かさの範囲が、「送り手」の特定化の度合いに応じて縮小されるような仕方で、有機体から有機体へとなにかが伝えられるというのである。だが言語は指示的ではなく内包的であり、言語の機能は方向づけるものの認知領域にはかかわりなく、方向づけられるものの認知領域で、相手を方向づけることだということが認められるならば、言語をつうじての情報伝達はありえないことが明らかになる。方向づけられるものは、自分自身の活動が独立に働くことの結果として、自分の認知領域のどこに方向づけが働くかを選択しなければならない。この選択は「メッセージ」によってひきおこされるが、こうしてつくり出された方向づけは、「メッセージ」が方向づけるものにとってもつ意味とは独立である。だから厳密には、話し手から聞き手への思想の伝達はなにもない。聞き手は、自分の認知領域に、相互作用をつうじて不確かさを縮小しながら情報をつくり出すのである。合意が成立するのは、結果としてそれぞれの有機体に生じた行動が、双方の維持に役立つような協働的相互作用が行われる場合だけである。(p.203-204)


マトゥラーナは、ルーマン的に情報・伝達・理解としてコミュニケーションを捉える場合に当てはめると、理解の場面に言語は主に関わっていると捉えているようだ。



生命システムで生じていることは、飛行機で生じていることに似ている。パイロットは外界に出ることは許されず、計器に示された数値をコントロールするという機能しか行わない。パイロットの仕事は、計器のさまざまな数値を読み、あらかじめ決められた航路ないし、計器から導かれる航路にしたがって、進路を確定していくことである。パイロットが機外に降り立つと、夜間の見事な飛行や着陸を友人からほめられて当惑する。というのもパイロットが行ったことと言えば計器の読みを一定限度内に維持することであり、そこでの仕事は友人(観察者)が記述し表わそうとしている行為とはまるで異なっているからである。(p.231)


オートポイエーシスにおける行為(作動)と観察との説明として分かりやすい説明と思われる。



以下、訳者・河本英夫による解題より。

 オートポイエーシス論は、コード化された情報やプログラムという発想そのものに異を唱えている。……(中略)……。生命システムの基礎に存在する情報プログラムから、生命システムは設計されているという構想そのものに異論が立てられているのである。(p.274)


このあたりの考え方は、私もあまり詳しくは知らないのだが、もしかするとエピジェネティクスの考え方と近いのではないかという気がする。



 未来社会への移行のコードは、ある種の歴史的変化をコード化するものである以上、必然的に「物語」の形式をとる。未来社会への必然的な移行を説く歴史哲学の「大きな物語」は今や崩壊し、日常的実践の「小さな物語」だけが残されていると、昨今しばしば指摘される。未来社会を予言する歴史哲学的な「大きな物語」は前世紀の遺物となり、もはや身近でコマゴマとした「小さな物語」を描き続ける以外にはないというわけである。このタイプの議論には、過度の自己限定がふくまれている。未来への志向は、行為者であるとともに観察者にもなりうる人間の固有性なのだから、未来社会をコード化すること自体は避けるべき禁止事項ではない。そうだとすると「大きな物語」のなにが放棄されねばならないのか、という問いが生じる。コード化という点についてだけ言えば、「大きな物語」に含まれる未来社会のコード化の仕方は、多くの場合、実現されるべき「未来社会像」を描いている。まるで箱庭を上から見下ろすように未来社会の見取図を描くのである。さらにそこに到達するための段階的な手順が設計図に書き込まれることになる。その結果大多数の人間はたんなる行為者となり、解読されたコードに従って見取図に接近するよう行動するだけになる。「大きな物語」に特有な未来社会を箱庭俯瞰的に描く、このようなコード化の仕方はもはや放棄されたのである。たとえ「大きな物語」をコード化する場合でも、人間の行為のプロセスの関係を規定するようコード化することはできる。その結果同じ未来社会に到達することはできるのである。だがこのようなコード化の仕方は、「小さな物語」の作製を積み上げて行くことによってしか修得されないであろう。オートポイエーシス論が提起するのは、このコード化の仕方の変更である。(p.278-279)


この訳書が出版されたのは1991年であり、その頃によく議論された「大きな物語」の終焉という議論に対するオートポイエーシスの構想から下された診断。なかなか興味深い。どのように行為のプロセスを継続させていくことによって望ましい未来社会に到達できるのかということが欠けており、到達したい結果だけが語られ、そこに至る道は現状との差から暗示されるというタイプの議論になってしまうことについて鋭い批判となっている。



多元論は、その主張のソフトムードにもかかわらず、みずからのみが観察者の立場に立ち、他の複数のシステムを判定しうるとする特権的な視点を前提にしている。それとともに各システムを産出のダイナミクスとしてではなく、並置されるべき固定した立場として誤解するのである。(p.302)


リベラルな考え方の人にとって馴染みやすい多元主義の問題点を鋭く指摘している。

オートポイエーシスの構想に触れて、行為と観察の相違が感じ取れるようになると、嘘くさい議論に対する感度が上がる。例えば、観察者の立場から無理に構成されている議論はたいてい現実との接点が十分でない。こうしたことはこの構想に触れる大きなメリットの一つだと私は考えている。