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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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キム・ナンド 『つらいから青春だ』(その2)

親がものすごい金持ちでない限り(そういう人ははやくから財テクをはじめる必要もないだろう)、二十代でつくれる資金などじつは微々たる額だ。だから、わずかばかりのお金を倹約して、財テクをはじめるくらいなら、いっそのこと使いはたしてしまったほうがいい。
 もちろん、その出費は自分を成長させるためのものでなくてはならない。本を買い、旅にでて、なにかを学ぶことに使うのだ。
ほんとうにまとまったお金をつくりたいならば、はした金で数年はやく財テクをはじめるよりは、「よりよい自分」のためにお金を使おう。究極的には、自分の価値を高めて、高い年俸を得ることが「最高の財テク」であることを忘れずに。(p.69)


韓国で多くの若者が財テクをしていることに対する批判。確かに、20代で倹約しすぎて成長の機会を狭めてしまうよりは、成長の機会をいかにして得るかを考えながら金を使った方がいい。単なる消費のためではなく、自己教育のための投資のために金を使うべきだということ。これは若い人に限った話ではないとも思う。



 ぼくが財テクをやめたのは損するのがこわいからではなく、むしろ利益がこわくなったからだ。
 ……(中略)……。「金のような投資先がもっとないか?」と、関心がつねにそこに向いている自分に気づいたのだ。投資で稼ぐことが、仕事の楽しさをうばっていくと考えるようになったためだ。(p.70-71)


なるほど。利益が恐くなるという表現は面白い。関心が仕事そのものではなく、単なる金銭獲得、それも本業とは違うものに向ってしまうことによって、本業である仕事の楽しさが阻害される。そんなことをするくらいなら、本業での実力をつけるよう成長する方がいい、というわけだ。



ぼくは、ほんとうの成果を得るには、明確な目標と適切な方法、誠実な実践の三つがあわさってはじめて可能だと考えている。ところが多くの人が、さきほど木を伐る人のように「目標」と「方法」はさておいて、それ以上は考えず、「実践」の誠実性ばかりを問題にするのだ。
 これはひとつの惰性だ。ふりかえることをさぼった、勤勉なる怠惰だ。ふりかえらなければ、誤った目標に盲目的に突進したり、まちがったやりかたでムダな努力を続けることになる。

 では、どうやって自分をふりかえればいいのだろう?
 ……(中略)……。だが、ただ考えたり悩んだりするだけでは省察にはならない。もっと重要なのは経験だ。直接経験し、たくさんの本を読み、会話し、旅にでることだ。

 経験ほど人間を成長させてくれるものはない。ことさら、感受性が豊かな青春の時代に積んだ経験は、なにより貴重だ。自分をふりかえるのにこれ以上の方法はない。だから、できるかぎりさまざまな経験をしてほしい。それが非難されるような行動だったり、必要以上にきみの時間や労力を消耗することでないならば。「若いときの苦労は買ってでもしろ」ということわざは、意味もなく生まれたのではないのだ。

 ……(中略)……。

 会話は読書と同じくらい有意義な経験のチャンネルだ。とくに自分より経験が豊富だったり、洞察力がある人との会話は大きな気づきを与えてくれる。学校で学生たちをじっと観察していると、予想外に会話が少ない。かれらは自分では多いと思っているだろうが、それは気楽な友人や親しい先輩と「おしゃべり」しているだけだ。もちろんそこでは、ともに経験する困難を分かちあうという満足などを得られるだろうが、同じ迷路をさまよっていることも多く、自己省察できる慧眼を得るにはほど遠いだろう。
 それよりも、よきメンターを探そう。(p.75-77)


明確な目標、適切な方法、誠実な実践という3つの要素のうち、明確な目標と適切な方法は省察を必要とし、省察の最もよい方法は経験を積むことであるという。そして、経験のチャンネルとして著者が挙げているのが、直接経験、読書、会話、旅の4つである。

確かに、実践と反省(省察)とがかみ合うと非常に大きな力となる。本書の議論で独特なのは省察の方法を「経験」と呼んでいることだろう。経験を積んで成長することによって、成長する以前との比較や過去の捉え返しが適切にできるというのは、言われてみればその通りという気がする。成長がなければ反省するにも、過去の自分と現在の自分の到達レベルが同じ程度であれば客観視することは難しい。現在の自分と過去の自分の間に乖離があるからこそ客観視できる(しやすい)。

経験のチャンネルとしても、直接経験は言うまでもないが、読書、会話、旅のいずれも共感できる。これらの共通点は自分の視野を広げてくれるもの(ないし、自分の常識を覆すことがあるもの)だということではなかろうか。これによって直接経験をすることの意味もより深いものすることができる。読書や会話のない単なる直接経験だけでは、そこから学び取ることも限られてしまいがちに思う。



旅は、自分の不在が知人や共同体にとってどんな意味があるのか、思いめぐらせるいいきっかけになる。
 ……(中略)……。
 もうひとつ旅のいいところは、自分がしごくとうぜんだと感じていたことが、じつはまったくそうではなかったと感じさせてくれることだ。外国に行くとますますそう思う。……(中略)……。
 だから、カメラとケータイはひきだしにしまって、ちょくちょく旅にでよう。ガイドブックにでてくる名勝地だけを訪ねて写真を撮り歩く旅行ではなく、きみ自身にであいに行く、そんな旅に。(p.78-79)


ここで述べられている2つとも、同じような思いを抱いたことがある。やはり旅はよい。

カメラと携帯を持たずに旅に出ようとするのも、なるほどと思わされる。旅先で出会う人やひとりの時間を通して自分自身を省察することになるから、これらのものはその邪魔になることの方が多い。携帯については、特にfacebookなどを通して、リアルタイムに旅先のことを身近な人に知らせるツールとして使ってしまうが、これは旅の非日常性を日常の中に組み込んでしまうところがあり、旅の良さをかなり減じてしまうように思う。

カメラは人よりも場所や物に対して関心を寄せてしまう傾向を生むので、省察とは少し違う方向に関心を向けがちではある。ただ、壮大な景色や歴史的な場所へ足を運ぶことは、そのこと自体が精神を啓発することがある。カメラを通して自分の見方や関心が見えることもある。特に他の人の写真と自分の撮ったものを比較することでそれが見える。カメラは携帯よりは害が小さい(さらに言えば、別の効用を持ちうる)と思う。



 目標、方法、実践。
 世間的な意味での成功であれ、自分だけの夢であれ、人生でなにかを叶えるためには、この三つがひとつにあわさらなければならない。目標がなければ意味がなく、方法が正しくなければ非効率で、実践しなければ成しとげることはできない。ひとつでも欠けると、人生は、足が一本短い三脚台のように、力なく倒れる。
 つねにこの三つのバランスをとるためには、たえず自分をふりかえらなければいけない。この三角形の中心点に、自己省察があるのだ。


簡潔なまとめ。


キム・ナンド 『つらいから青春だ』(その1)

自分の情熱ではなく、人がいいという理由で選んだ職業や、安定した高収入が保証されそうだからと選んだ職業はむなしい、ということを指摘したいのだ。(p.34)


ここを読んだとき、「いやしくも人間としての自覚のあるものにとって、情熱なしになしうるすべては、無価値だからである」(尾高訳p23)という『職業としての学問』におけるウェーバーの言葉を想起した。

ただ、情熱が重要だとしても、「自分のやりたいこと」をすべきだ、とか、「自分のやりたいこと」を探す、という発想での職探しは基本的に誤ったものであると私は考えている。(本書もその点では同じようなことを述べている箇所があり、共感するところの一つである。)自分が職業選択をしていた時期にはそこまで思い至らなかったことなので、その点について本書についてのコメントで書ければと思う。



 大学に進学して最初に感じる困難は「目標が広がってしまうこと」だ。十二年間の小中高校教育をそっくり背負って「大学進学」という大目標が達成されたあと、「なにをすればいいのか」ばくぜんとしてしまうことによって感じる苦しさだ。(p.53)


今になってふり返ると非常によくわかる。私の場合は、大学に進学した時点では目の前に目標があったので、普通の学生としての学生生活は切り捨てて目の前の目標ばかりを見ていた。だから、進学直後にはこの苦しみは感じていなかった。しかし、その目標を失った後に、この痛みがやってきた。こうやって今、読書メモのブログを書いているのも、そうした苦しい日々を越える過程でいくつかの本や思想家、さらには共に考える仲間たちと出会ったことなどが遠い原因となっている。



失敗から学び、そこから一歩ずつ自分を成長させること。それが偶然への正しい頼りかただ。(p.55)


大学に進学して、上記のように目標が広がってしまうことによる苦しみの中に置かれたら、偶然に頼って自身を成長させるといい、というアドバイス。そして、失敗をして、そこから学べという。非常に理に適ったアドバイスだと思う。

自分が生きる社会がオートポイエティックなシステムであるかそれに近い動き方をするものである場合、偶然によって生成する事態と遭遇せざるを得ない。それに対しては事前に定まった対処法はない。当然、ここでは事前に定まった対処法がある場合よりも失敗する可能性は高い。こうした事態自体を自身の成長の糧とする発想に立てば、偶然の事態の捉え方も変わるし、そこから実際に成長することによって自分とその周りの社会にも(基本的により善い方向へと)変化が生じていくことになる。



 だが、資格試験や考試の受験を選んだのは、逆説的にも、安易で手を抜いた決断ともいえる。なぜか?自分では決意に満ちて試験準備を選択したと思うかもしれないが、じつのところは、自分の可能性について深く考えることを投げだした瞬間、自分の状況にみあった試験準備を安易にはじめたのではないのか。
 きみはこれまでの生涯、「試験勉強」だけやってきた。勉強はもううんざりだというが、内心は勉強(じつは試験をうけること)がいちばん楽になってしまっている。人との関係をつくっていくことも、ねばりづよく就職の扉をたたくことも、勉強とは次元のちがう「仕事のやりかた」に慣れることも、ものすごく難しい。「勉強がいちばん楽だった」のだ。しかも、若さのあらゆる問題を受験にすりかえてしまえば、その問題もしばらく猶予される。親や友だちに、そして自分に、ただ遊んでいるのではなく「なにかを一生懸命やっている」というメッセージもしめせる。
 だから、試験準備ははためにはすごくがんばっているようにみえても、人生の全体的なフレームからみれば、モラトリアムな怠惰のプロセスでもある。(p.60)


筆者が教えるソウル大学のような一流(有名)大学の学生に対するアドバイスとしては確かに的確と思う。例えば、日本でも、司法試験や公務員試験を受ける有名国立大学の学生のある程度の部分に対しては同じアドバイスが成り立つだろう。こういう場合でも、試験の結果がうまくいけばまだ良いが――実際、合格した後に出会う「偶然」によって、自信を成長させていけるようになる可能性はある――、試験に逃げているだけの状態で不合格が続くと精神的にもきつくなる。そういう人には、今受けようとしている試験は逃げ道ではないかと示唆してやることも必要な場合があるかも知れない。



 どんな職業でもいいから安定して高収入であればいい、という発想は、非常に消費中心的な考えかただ。……(中略)……。
 わたしたちの人生は仕事と余暇で成り立っている。仕事は職業と、余暇は消費と深い関係がある。そのため、ほんとうに幸せになるためには、良質の消費を楽しむのは半分にすぎず、楽しく働ける職業で残りの半分を満たさなければならない、ということに気づく必要がある。
 ……(中略)……。人生でもっとも本質的なよろこびを与えてくれるのは、消費ではなく仕事だ。好きな仕事をしているときの達成感は、よいものを買ったときのうれしさよりもずっと価値がある。(p.62-63)


安定した高収入の職業を希望する発想が消費中心的なものだという指摘は、今まで気づかなかった所だったので興味深かった。良質の消費をするための条件としての職業選択をしているということだと捉えられるから、これが消費中心的発想だということだろう。

確かに、著者が言うように、仕事の達成感と良いものを買ったうれしさでは違いがある。この対比(仕事と消費)は理念型的に用いることができそうに思う。つまり、例えば、中間的な領域を検出するときにも使えそうな気がする。

たとえば、仕事と消費の中間に、「家庭での生活」というものがあると思う。食事や余暇の主な場であるという意味では家庭は消費的な場であるが、例えば「子育て」は消費ではなく「仕事」のカテゴリーに入る。家庭において最も喜びを与えてくれるものは何か、何を家庭生活で価値があるものと見なせばよいか、ということを考えると、その中で「仕事」に相当するものだ、ということになるだろう。

また、余暇や消費でもいわゆる「体験型」と呼ばれるような消費がある。「旅行」や「●●作り体験」のようなものなど。単なるモノを買う消費よりも、こうした体験型の消費の方がより本質的な喜びを感じられるということも、この図式から導く(説明する)ことができる。

投資や流動性そのものへの選好の位置づけという問題はあるが、投資はその結果として単に金銭を増やそうという意味での投資なのか、何らかの活動の場や機会へと繋がることという意味での投資なのか、といった内容を分析することで、「仕事と消費」のどちらに近いかが決まるだろう。たとえば、「不動産ころがし」のような「投資」と、恵まれない子どもたちへの教育機会を与えるために教育施設などを創るといった意味での「投資」では同じ言葉を使っていても、意味合いは全く異なる。また、上述の「不動産ころがし」のタイプの投資ともつながるが、流動性そのものへの選好については、基本的に「金を買う」という消費の中に入ると考えてよい。だから、本質的な喜びは得られないし、モノを買うよりも喜びは小さい。だから、より多くの数字を求めざるを得なくなるのではないか、と思う。