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アヴェスターにはこう書いている?
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深見奈緒子 『イスラーム建築の世界史』(その1)

 ユダヤ教の建築は、その後の歩みを見ても、定形をもたず、さまざまな建築文化に依拠していく。ただし、聖櫃を納める場所と説教壇はどのシナゴーグにも設置される。イスラーム建築がモスクの奥壁に仏像や神像のようなものを置かず、メッカの方角を指し示すミフラーブ(壁龕)と、宗教指導者が説教を行うミンバル(説教壇)を置くことは、シナゴーグに学んだ可能性が高い。また、シナゴーグとモスクが、信徒たちの集会所である点も共通する。(p.4-5)


モスクがシナゴーグから深く影響を受けている可能性というのは、確かに、ムハンマドが生きていた頃のメッカやメディナなどの状況からしても大いにありうることと思われる。



(引用者注:ムハンマド)が生きているころは、大きな石を置き、壁に槍を立てかけて礼拝の方角を示していた。礼拝の方角のことをキブラ(向かう方向)と呼び、7世紀にはキブラ側の壁(キブラ壁)に木の絵を描くこともあった。8世紀にはモスクにおいて礼拝の方角を示すミフラーブ(図2-40)が確立する。ミフラーブはアーチ形で、キリスト教会堂のアプスや、シナゴーグのニッチが手本になった(図1-3、5)。
 ムハンマドは三段の踏み台に腰かけて信者たちに説教を行った。これが起源となり、8世紀ころまでにミンバルが確立する。その過程には、シナゴーグの説教壇や教会堂の聖職者席などからの影響が考えられる。……(中略)……。またミナレットの成立にも、灯台やキリスト教会堂の鐘楼が大きく影響した。(p.19-20)


確かに、私も教会堂の聖職者席とミンバルの類似性や影響関係について思いついたことはあるし、鐘楼とミナレットの類似などにも何度も思い至ったことがある。

本書は上に引用した類の仮説が多数提示されている。しかし、残念なのはそれを検証まではしてくれていないことである。この場合、検証ができるのは専門家だけであり、素人と専門家の最大の違いはここにあると言ってもよいのだが、残念ながら一般向けの本ということもあり、この点に関する掘り下げには物足りなさを感じる。



 11世紀以降、イスラーム教の墓建築ではキャノピー墓と墓塔が各地へと広まり、モスクのミナレットも西アジアでは断面が円形になり、さらに高くなる。アジア各地に伝播した仏教建築においても塔建築が盛んになり、日本でも木造の塔が数多く建てられる。インドのヒンドゥー教でも本殿の上にたつ塔(シカラ)が強調される。ボロブドゥールやアンコール・ワットを加えると、9世紀ころから12世紀ころまで、このような塔文化が宗教を超えて、東アジアから西アジアまでアジア一帯を包んでいた。塔の思想の背景には、天を希求する思想があり、こうした思想が12世紀のフランスでゴシック建築を生みだす原動力となったのではないだろうか。イスラームの墓建築やミナレットもその一端を担う存在として位置付けられよう。(p.46-47)


なるほど。9~12世紀頃に、ユーラシア各地で高い塔が建てられたというのは興味深い。本書は天を希求するという思想的なものがこの背景にあるとするが、私は少し違った見方である。すなわち、このあたりの時代は「13世紀世界システム」のグローバルなリンケージが確立へ向かう途上の時代であり、各地のヒト・モノ・カネの結び付きが次第に強くなっていく時代であることから、都市化が進み、富裕層の富が増していく時代だったと理解する。そのようにして都市に集中しつつあった富と権威を誇示する手段として高い塔が好んで建てられた、ということではなかろうか。



 初期の仏教文化においては、釈尊の骨を納めたストゥーパが人々の崇敬を集め、饅頭形で内部空間をもたない建造物であった(図2-61)。2世紀ころにはストゥーパと共に仏像を崇拝するようになる。ストゥーパも小型化し、建造物の中に祀られるようになり、ストゥーパや仏像を祀るチャイティヤ(祠堂)が造られる。ストゥーパはやがて塔の形に姿を変え、日本の仏塔では屋根の頂部に付く伏鉢となる。
 仏教寺院においては、ストゥーパや仏像などの崇拝の対象を納める建築と同時に、出家した僧侶たちが暮らす建築が必要であった。前者のチャイティヤに対して後者をヴィハーラ(図2-62)と呼び、日本では僧坊という。中庭や石窟の広間の周りに小さな部屋が並ぶ。次章で新たなジャンルとして、マドラサについて述べるが、マドラサ建築の成立には仏教の僧院建築(ヴィハーラ)が影響を与えたとされる。
 一方、仏教を圧倒したヒンドゥー教の建造物(図2-63)は、日本の神社のように、御神体を奉納する本殿(ガルバグリハ)とその前殿(マンダパ)という構成をとる。古代ギリシアの神殿建築も同様で、神の宿る場所の作り方の共通する形の一つかもしれない。本殿の上にはシカラ(塔)が建ち、周りを巡る形式も現れる。また、本殿と前殿の間にいくつかの部屋が挿入されていく点も、日本の神社建築とよく似ている。最初は石窟や石彫だったヒンドゥー寺院は、石積寺院に収斂し、シカラに地方色が現れるようになる。(p.66-67)


ストゥーパが日本の仏塔になったというのはよく言われるが、五重塔のような塔自体というより、その屋根の上についている金属製のポールのような部分がそれである。

マドラサは中庭を持ち、周囲に部屋や大空間を置くチャハール・イーワーン形式の建築として普及していくが、単に中東の風土の問題というだけでなく、仏教の僧院建築の影響もあったというのは興味深い。

ヒンドゥー教寺院と日本の神社建築の構造の類似性については、私もインドでヒンドゥー教寺院の実物を見てきた後で気付いたが、南アジアから東南アジアにはある程度深く影響しているが、その外の世界からはやや隔離されたイメージを持たれるインドの建築が、実際にはいろいろな建築文化の地域と影響関係にあったり、共通の形式を持っていたりするというのは大変興味深い。



 ロマネスク建築とゴシック建築は、いくつかの道筋から、イスラーム建築と関係をもつと考えられる。10世紀にアンダルシアに発生したアーチ・ネット(口絵3、図2-14)は、ペルシアへと伝わった(図3-25)だけではなく、ロマネスク建築にも、アーチ・ネットに類するリブを用いてドームを構築する実例がある(図3-42)。特にイベリア半島のモサラベ教会堂や南フランスのロマネスク教会堂の交差部のドームなどに顕著である。また、この時代に西欧一帯で流行した四分ヴォールトや六分ヴォールトは(図3-41)、区画の対角線にアーチを交差して架けるので、アーチ・ネットの変種とみなすこともできよう。建設時に構造的なガイドラインとしてアーチ形のリブを用いることによって、見栄えも施行度も高くなるようアーチを交差させるという点が共通する。構造的な工夫から生まれたものが、意匠的な美しさに転化して発展を遂げるのである。アンダルシアからのアーチ・ネットの波が、西欧のロマネスク建築やゴシック建築を生む誘因の一つとなったのかもしれない。アーチを交差させる造形は、ロマネスク建築の回廊部分や西正面にも好んで用いられ、交差する半円アーチが、続くゴシック建築で支配的となる尖頭形アーチを生み出した。(p.106-107)


興味深い仮説ではある。ただ、この時代の建造物が、本書の指摘する通り構造美を特徴とするのだとすれば、必ずしも直接的な影響関係がなくても並行的に生じたと考えることもできるように思われる。そのあたりをどのように検証・反証していくのか興味が惹かれる。


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