アヴェスターにはこう書いている?
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蝦名賢造 『札幌市の都市形成と一極集中』(その1)

 黒田清隆の北海道開拓の上に残した足跡は限りないが、その一つに北海道開拓の指導者たちを主としてアメリカに仰いだ点があげられる。……(中略)……。黒田は在職中、新知識を得るために外国人のお雇い技師を招聘し、75人の多きに及んだが、そのうち45人はアメリカ人であった。(p.24)


いわゆる北海道開拓はアメリカの西部開拓の続きとしても捉えられるが、ここを結びつける決定に大きな役割を果たしたのが黒田清隆だった。



 明治15年の札幌・幌内間の幌内鉄道の開通は、札幌の区画に影響を与えるとともに、その完成は、小樽から札幌を経て幌内までの鉄道建設となり、東京・横浜間、大津・大阪間に次いで日本で三番目の開通となり、札幌を中心とする交通網の大動脈となった。この路線の開通によって、道都札幌への物資補給にとっての安定した輸送路が完成し、また札幌周辺への移住がほぼ終了し、それ以降の石狩平野内部の開拓に向っての跳躍台となった。(p.26)


幌内鉄道については、小樽から見ると、空知の炭鉱から小樽(手宮)の港へと石炭を運んでいくものとしての意味が強調されることになるが、札幌から見ると、行政の中心地である札幌と外港である小樽、また、札幌と内陸部を繋ぐ流通経路としての意味が強調される。鉄道敷設のルート決定に際しては、札幌を経由するルートであることも幌内鉄道が小樽の港と結ばれることとなった要因になっていたのではなかろうか。

なお、幌内鉄道はしばしば日本で三番目に開通したと言われるが、厳密にはこれより数か月先にできていた鉄道がある(数カ月で廃線となった)ため、正確ではない。



 幌内鉄道全通により奥地の開発が進められ、その好影響も現れ、鉱山・農村方面に対する札幌の商圏も次第に拡張し、札幌最初の商業の発展と称せられる繁栄の時代を現出している。
 ……(中略)……。

 札幌は道庁設置以後このような発展をとげてゆくが、明治25年大火が発生し、地方裁判所、区役所、警察署、銀行、新聞社など、消失実に887戸に及んだ。しかも現場は市街地随一の繁華街南3、2、1条、大通西2、3、4丁目、市街地の約5分の1の消失であり、前年に比し同年末には戸数707を減じ、空家1000軒といわれ、札幌始まって以来の大不況の到来となった。
 その結果、開発途上にあった札幌の商圏も、すでに明治22年特別輸出港に指定されるなど発展途上にあった小樽を基盤とする小樽商人に追い上げられ、奪われていった。……(中略)……。
 この時期以後、札幌は小樽の商圏にその勢力範囲を奪われ、明治、大正、昭和へとそうした状態が継続し、昭和10年代より戦中、さらに戦時体制時代にまで及んでいる。ちなみに札幌が商業、金融上の事実上の北海道のセンターとしての地位を次第に獲得してゆく時期は、金融にあっては昭和17年札幌に日本銀行支店設置されて以後のことであり、戦後の昭和25年頃に札幌の道センターとしての地位が確保されてゆくが、その経緯については後章に触れるところである。(p.28-29)


幌内鉄道が札幌にもたらした経済的な効果はかなり大きなものだったということか。

ここの記述で違和感を感じるのは、小樽商人に商圏を追い上げられ奪われた、という趣旨の叙述である。札幌ができた時から一貫して小樽の方が人口が多かったはずで、小樽商人が札幌を「追い上げた」というのは当たらないのではないか?むしろ、現在の状態を過去に持ち込んで解釈しているようにも思われる。



 明治37、38年の日露戦争の勃発は、札幌における近代的工場増設の一大契機となった。38年に大日本麦酒会社が設立され、全日本ビール産業の市場を独占するに至る。40年には帝国製麻会社による日本製麻業の地位を独占する。この時代、札幌地区の工業生産額の全道比は30%内外を占め、札幌が工業都市としての機能の充実発展と地位の確立が明確になってゆく。(p.34)


札幌は現在も2次産業が弱い町ではある。北海道の中では集中しているが、それがすなわち工業が盛んであるということを意味するとは限らない。その点に注意が必要と思われる。



 戦前、小樽はまさしく北海道の金融面の中心地であった。明治26年派出所としての設置に始まる日本銀行小樽支店は、発足当時朝鮮半島への金融の抑えとしての門司支店と並んで、樺太に対する金融上の拠点と言われた。日露戦争終了後の明治41年頃は、小樽は北海道で最大の商業都市であり、大正の初期青函連絡船の開通とともに少しはかげりが見えはじめたものの、第一次大戦では海運業や倉庫業が小樽商人の活況を支えた。「小樽は道内金融の中心として、一時期、小樽市内の銀行街は“北のウォール街”の異名をとっていた」(日本経済新聞社編『日本都市シリーズ札幌』P.165参照)こともある。
 しかし第一次大戦後、室蘭港の発展とともに石炭積出港としての機能も小樽から室蘭に移り、北海道唯一の物資流通拠点港としての地位も函館に脅かされるに至る。
 そして昭和17年、戦中の統制経済の実施とともに、著しく数多くの行政官庁が札幌市に設置されるとともに、それらの連絡その他の理由により札幌市に日銀支店が設置されるに及んで、自から各種の金融機関の札幌市集中がみられるようになる。かくして札幌市は北海道の金融上の中心都市となった。(p.43)



青函連絡船ができたことは、函館の流通拠点としての機能を高めるため、小樽が独占的に占めていた地位が相対的に下がったということか。また、室蘭との石炭積出港としての競合については、明治44年、室蘭港に石炭積出用海上高架桟橋が建設されていることが注目される。北海道の主要港湾の歴史を並行して眺めてみると北海道の流通の歴史がかなり見えてくるかもしれないと感じる。



 島判官の本府建設構想のイメージは、『新札幌市史』によれば、「おそらく近世の城下町を考慮にいれての構想と思われ」、「特に土塁で区切られているとはいえ、民地を本府に隣接して本府区域内に配置する構造は、島判官の出身佐賀藩の城下町である佐賀の都市構造に類似している」とされる(第二巻通史二、32頁参照)。(p.45)


城下町の配置となっているという見方は他の本でも指摘されていたが、島判官の出身地佐賀と類似しているというのは、興味深い。

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