アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

北海道近代建築研究会 編、角幸博 監修 『札幌の建築探訪』
永山武四郎邸

 明治13(1880)年ころに自邸として建設し、西正面外観は主に洋風意匠が施されているが、玄関の基礎だけがほかより低い和風の特徴を持つ。基壇に軟石を用い、木部も寒冷地用に工夫されている。
 内部は、接客スペースに特徴があり、特に部屋の出入口額縁と洋風装飾は表裏異なったデザインで、素材、縦横比、配置など独特の表現をしており、その堂々とした様は目を引く。この装飾を境に書院座敷と洋風応接室が接続し、座敷の床はより高く、天井は逆に低くなっている。洋風応接室から見ると、まさに「洋」の額縁を通じて書院座敷の「和」を見るという趣向である。こうした特徴は、住宅史の上で過渡期の和洋混成として重要な価値がある。(p.40)


ここは何度か訪れたことがあるが、玄関の基礎が低くなっていることには、今まで気づかなかった。応接室から段差で高くなっている和室を見ると、額縁を通じて眺めるような形になるというのは、確かにこの建物の見どころの一つかもしれない。



札幌カトリック司教座教会堂聖堂

 外壁の黄色味帯びたスクラッチタイルは、その名の通り引っ掻き傷のようなざらざらした感触のタイルで、昭和初期の建築でよく採用された建材の一つだ。(p.42)


スクラッチタイルが昭和初期によく採用されたというのは、今後も注目してみたい。確かに、これまで国内の近代建築でも見たことがあるような気がする。



杉野目宅

 円山、山鼻地区には、旧北海道帝国大学の教授たちのモダンな住宅が少なくない。(p.58)



なぜその界隈に多いのか?札幌の街がどのように展開してきたかを把握することで理解していきたい。



北大交流プラザ エルムの森

 明治33(1900)年に現農学部本館の場所に時計塔をもつ木造2階建ての農学教室が建ち、続いて動植物学教室、農芸化学教室、昆虫学及養蚕学教室、農業経済及農政学教室、図書館・書庫が建築された。これらキャンパスの設計を担当したのは、東京帝国大学建築学科を出て間もない文部省技師中條精一郎中庭を囲む校舎配置は、当時の日本国内では珍しいアメリカ式のキャンパス計画であった。
 ……(中略)……。
 旧昆虫学及養蚕学教室は屋根が瓦葺きからトタンに変更され、内部では天井が下げられたことを除いて、ほとんど当時のままの姿だ。(p.80)


北海道大学のキャンパスの正門から農学部あたりの配置を見ると、確かに、中庭を囲むようなプランが今でも透けて見える。これもアメリカ式だったとは。北海道の開拓にあたってはアメリカの技術などが様々に取り入れられたが、この時期(明治後期)になってもアメリカ式のキャンパス配置が採用されたというのは興味深い。



北海道大学出版会

 旧図書館は大正3(1914)年に両翼が若干延ばされ、昭和26(1951)年には、西隣にあった理化学教室の講堂を移築して、正面玄関部分を増築しているものの、往時の雰囲気をよく残している。(p.81)


玄関部分は移築したものを継ぎ足したようなものか。なるほど。不思議な姿の理由が分かった気がする。



琴似屯田兵屋

しかし、建築の技術で注目すべき点は、小屋組にキングポストトラスを採用したことであり、わが国の洋風小屋組の極めて早い例である。(p.104)


この建築は、明治7年のもの。キングポストトラスとは、本書の解説によると「山形構造の中央に垂直材(真束)のあるトラス(三角形の集合形式に組まれた構造)」だが、トラス構造は明治期の北海道の木造建築(鰊番屋の類)の小屋組でよく見かけるものでもあり、これがどのような経路で入って来たものなのか、非常に興味がある。



新琴似屯田兵中隊本部

 中隊本部の建物は、ほかに江別市に野幌屯田兵第二中隊本部(明治17年ころ)が現存する。玄関ポーチとその装飾、小屋裏の構造は本建物とよく似ている。(p.108)


新琴似の中隊本部は行ったことがあるが、野幌にもあるとは知らなかった。調べてみると4月末から11月初め頃まで週末(土日祝)に公開しているらしいので、来年にでも行ってみたい。



札幌中央郵便局

 今でこそ大通公園は1丁目から12丁目まで、一帯の公園として広く市民に認知されているが、2丁目だけは昭和37年に郵便局舎が解体されるまでは公園でなかった。正確にいうと、南側3分の2が道路で(昭和30年代はバスの駐車場になっていたが)、北側3分の1を郵便局が占めていたわけである。(p.135)


大通公園にもいろいろな歴史がある。



 つまり、大通の北側は、お役人やお雇い外国人、それに学生たちがフロンティアスピリットについて英語で熱く語り合った英語圏であり、南側は、新天地に夢を託して移住してきた庶民が開拓の苦楽を語り合った日本語圏であったという見方ができる。(p.161)


大通より北の官庁街、文教地区、南の商業、居住地区といった分け方で紹介されることが多い区画について、英語圏-日本語圏という対比にしてしまうところはなかなか独創的。ただ、ややイメージが先行しすぎてしまっている感はある。



 昭和47(1972)年、札幌で開かれた冬季オリンピックを機に札幌は大きく様変わりした。(p.161)


確かに地下鉄やそれに付随する地下街など、現在に続く「近代的な札幌」の骨組はここでできたと言っても過言ではないかもしれない。



 札幌の街の建て替えがどんどん広まったのは、昭和33年の博覧会あたりがきっかけだったのだろうか。その頃までの住宅は戦前からのものが多く、二戸建、四戸建などの長屋がたくさんあった。(p.162)


なるほど。オリンピックによる近代化の背景には、戦後の官庁(出先機関等)の集中、高度成長期の人口流入等があると見た方がよさそうだ。

スポンサーサイト

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/986-d71a4718
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)