アヴェスターにはこう書いている?
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NPO法人さっぽろ時計台の会 編集 『札幌時計台創建135周年記念 札幌ものがたり 札幌のあゆみを知る』(その3)

札幌農学校は明治40年に農科大学として大学昇格を果たしたが、分科大学ではなく独立した帝国大学となることが課題として残っていた。明治44年1月に東北帝国大学理科大学が設置され、九州では分科大学も複数設置されたのに対し、北海道ではこの時点で東北帝国大学からの独立も実現しなかった。北海道帝国大学設立の運動が展開されたが、大学独立問題が具体化したのは大正5年に東北帝国大学医科大学が創設されたことを契機とした。札幌の農科大学が独立しても東北帝国大学の維持には支障がなくなったためである。(p.111)


帝国大学は複数の学科を持たなければならないという縛りがあったことが、東北と北海道の帝国大学設置に関して非常に大きな意味を持っていたことがわかる。



 大通公園の西端を締める姿で西13丁目に札幌市資料館が建っている。堂々とした洋風建築だ。面積は2階建で1637平方メートル。黒ずんだこの建物は大正15年にできた札幌控訴院であった。……(中略)……。
 戦後の昭和22年に札幌高等裁判所と名を変え、昭和48年に札幌高裁・地方裁判所庁舎(大通西12)に移った。……(中略)……。
 高等裁判所が去ったあと、折からの都市化の波に乗って大通公園を円山まで通すために解体すべきだとか、札幌市教育会館の別館にしたらいいなどという声もあがったものの、結局、札幌市資料館として保存活用することに落ち着く。(p.114)


時計台移転論に決着がついたのが昭和41年であったが、こうした歴史的建造物の解体や保存などの問題が比較的近い時期に起きていたということが興味を惹く。こうした札幌の動きが、小樽運河の保存運動の時期とも概ね重なるということについては、前のエントリーで述べた通り。



 昭和初期という時代は、4年に世界大恐慌が起こり「大学は出たけれど」という言葉が流行るなど深刻な不景気に見舞われた時代であった。こうしたなか、政府は外貨獲得のため観光収入に注目し、昭和5年、鉄道局に国際観光局を設けた。同局は海外宣伝用映画の制作、海外事務所の開設、国立公園指定、そしてホテルの新設、改造の推進と資金の斡旋等の事業を展開していく。(p.120)


昭和初期に旅行ブームがあったことと、国際観光局の設置との関係はどのようなものだったのだろう。恐らく、旅行ブームの流れができてきた中で、国際観光局を置くことで政府としてはその流れを促進しようとした、という流れで理解した方がよさそうに思う。



 大演習と行幸という国家的大行事は札幌へ大量の人の移動をもたらし、多額の国費が投ぜられ、不況下にあった札幌に非常な経済的効果をもたらした。
 札幌市はこの機をとらえて、12年通水予定の上水道工事をはじめ道路や橋の工事、市役所庁舎の新築、札幌飛行場の改良工事等々の新都市計画を実現することができた。往時の記念碑が大通西5丁目の聖恩碑である。(p.121)


昭和11年の陸軍特別大演習で昭和天皇が札幌に来たことにより、都市基盤の整備が促進され、不況対策としての効果を持ったということか。なるほど。



 北海道ではマイクロウェーブ建設工事の完成が31年8月と予定されていたため、NHKは30年10月に札幌にテレビ放送局を建設する計画を立てた。視聴範囲を広げる目的から手稲山頂に設けるべきとの北海道電波管理局の意見もあったが、名古屋の例に倣い展望台を併設した塔高120メートル、幅(脚間)35メートルの鉄塔を大通西1丁目に建設するというものだった。工事は31年6月に着工し、翌32年8月に竣工した。設計者は、塔博士の異名をもつ建築構造学者の内藤多仲。名古屋のテレビ塔も大阪の通天閣もそして東京タワーもこの人物の設計による。(p.140)


名古屋テレビ塔(昭和29年竣工)、通天閣(昭和31年竣工)、東京タワー(昭和33年竣工)と札幌のテレビ塔はいわば兄弟建築のようなもの、ということか。



 今日の制度として都市間の交流が促進されるようになったのは第二次世界大戦後のことである。アイゼンハワー米国大統領が1956年に提唱したピープル・ツー・ピープル・プログラム「国民対国民の交流計画」が契機となったといわれる。
 我が国で最初に姉妹都市提携を結んだのは被爆地・長崎であった。昭和30年のことである。札幌市が初めての姉妹都市提携を結ぶ昭和34年11月までの間に、33都市が姉妹都市提携を結んでいたが殆どが米国の諸都市との間で結ばれていた。
 ……(中略)……。
 都市交流に求められているのは、互いの経済上の利点ばかりではなく、異なる文化・価値観に触れることで、寛容な社会を形成していくことなのではないだろうか。(p.142)


姉妹都市提携が冷戦期の産物だったとは知らなかった。アメリカの都市との間で提携が結ばれるものが初期には多かったというのは、大統領の動きを受けて、アメリカの都市が動き始めたものが多かったからであろう。被爆地である長崎が最初に姉妹都市提携を結んだというあたりも、アメリカ側がこの制度に込めた意図が示されていると思われる。被爆地というアメリカに最も反感を持ってもおかしくない都市を、自らの側に親近感を持つ方向に引きつける、という意図である。

外交とは、味方を増やし、敵を減らすことによって、自国の立場をより強くするべきものだと考えれば、外交の戦略としては、非常に理に適ったものと言える。こうした動きは、冷戦期のアメリカにとっては、東側の陣営に日本が渡ってしまうという危険を少しでも減らす方向に作用するものと言えるからである。

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