アヴェスターにはこう書いている?
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NPO法人さっぽろ時計台の会 編集 『札幌時計台創建135周年記念 札幌ものがたり 札幌のあゆみを知る』(その2)

 草創期の札幌では、創成川沿いに屋号が○八の宿屋と秋田屋という2軒の宿屋が現れたように、旅人宿は創成橋や豊平橋界隈に集まっていた。それは、陸路にしろ水路にしろ主要な交通路の要であったということだ。しかし、鉄道が登場すると次第に停車場付近に集まるようになった。(p.82)


宿の位置(の変化)から、交通の流れ(の変化)を読むというのは、他の地域でも応用できそうだ。



 草創期の本府の用品及び商品は小樽から篠路を通り琴似川を遡って届けられていた。このため札幌、石狩、小樽間の水路の中継点として開かれた篠路と札幌を結ぶ陸路の必要性は高かったのである。(p.84)


明治6~7年にという比較的早い時期に伏古川に沿って延びる道(かつて丘珠街道とか篠路街道と呼ばれた現在の道道273号線)が開かれた背景。



 明治初期の札幌の学校を俯瞰してみると、明治4年に官立の小学校資生館が開校し、周辺の村落でも白石村では善俗堂が手稲村では時習館が開校するなど初等教育の立ち上がりは早かった。そして明治9年には高等教育機関である札幌農学校が開校している。北海道で最初の中学校が誕生したのはそれからやや間をおいた明治24年のことである。これは明治政府が当初、初等教育機関と専門性の高い高等教育機関の成立を最重要視し、中等教育は後回しになったことの表れともいえる。(p.86)


限られた資源を使う順序としては、初等教育を広く受けさせることと高等教育で専門的な技能を持った人材を育成するということに力点を置くのは理解できる。ただ、北海道以外の地域でのタイムラグと北海道との差はどれほどだったのかが気になる。



 拓銀設立の目的は、「北海道ノ拓殖事業ニ資本ヲ供給スル」(拓銀法第一条)ことであった。府県の農工銀行との最大の違いは、拓銀には、農工銀行や勧業銀行にはない総合的な金融機関としての幅広い金融活動が認められたことであった。拓銀は道外の潤沢な資金を供給する窓口となった。
 大通東1丁目で開業を迎えたが、業務の進展に伴い手狭になってきたことと、札幌の中心地が創成川付近から4丁目一帯に移ってきたことから、明治42年4月、大通西3丁目に木骨・外壁石造2階建ての本店1号館に移った。(p.90)


銀行の立地と市街の(経済活動の)中心の推移の関係も興味深い。



その間、大改修などが行われたのだが、高度成長時代に危機に見舞われた。時計台移転論である。幸い昭和41年に市議会で現在地永久保存の決議がなされて決着がついたが、時計台愛護のために時計台をまもる市民の会(現NPO法人さっぽろ時計台の会)が生まれたのは昭和50年であった。(p.93)


時計台は札幌農学校があった場所に残る唯一の遺構という意味合いも持っている。その意味で、現在地永久保存という決議はその意義を踏まえているように見受けられ、先見の明があったと思う。

興味を惹かれるのは、昭和41年は隣町である小樽で小樽運河論争が始まる契機となった埋立の決定がなされた年でもあるということである。そして、昭和48年から近隣の木骨石造倉庫の解体が始まり、その頃から市民団体が立ち上がり始めたという流れがった。札幌の市民運動はそれより2年ほど遅れて始まっているようだが、小樽運河の危機を見て、時計台にも同じことがあるかも知れないという危機感を持ち、同じように動き始めた札幌市民がいたということなのかもしれない。直接の因果関係がないとしても、共時的に事態が進行しているところが大変興味深い。時計台の保存運動などについても、もう少し詳しく知っておく必要がありそうだ。



 帝国大学の最低条件として複数学科の設置が必要であった。このため、農学校を東北帝国大学の一分科大学とするという考えから、北海道の運動は東北の運動と密接に結びついていった。39年5月に発表された北海道事業計画の中で、大学設置問題がまた、北海道拓殖計画上に位置づけられたことによって設置運動は勢いを増した。大学設置の理由はいくつか掲げられたが、その主なものは北海道産業・事業発展のための人材養成であり、大学による人材の吸引力であった。
 この頃、大学設置に関する問題は財政面のみであったといわれていた。そこに足尾鉱毒事件で非難を浴びた古河財閥から大学建設に多額な寄付が行われたのである。これにより仙台に東北帝国大学を、札幌に農科大学を設置することが決まった。(p.95)


仙台に理科大学、札幌に農科大学という分担で複数学科が設置された経緯は、帝国大学には複数学科の設置が必要だという条件が大きく効いていたわけだ。古河財閥からの寄付があったことは、現在も北海道大学構内に残る古河講堂が物語っているが、この時の寄付が大学への昇格を可能としたということか。だとすれば、古河財閥の寄付は、北海道大学の歴史にとっては非常に画期的な事実だったということになる。



 札幌で製麻は比較的早くから行われていた。慶応年間には大友亀太郎の御手作場にはロシアから麻種がもたらされていた。……(中略)……。亜麻は麻類のうち最も高級な繊維でその用途は極めて広い。道庁の保護の下、明治20年札幌に北海道製麻会社が創立した。同社は、わが国最初の亜麻を原料とする会社となった。……(中略)……。
 製麻は当初から軍需への依存度が強かった。日清戦争は同社を飛躍的に発展させたが、軍需に依存するあまり戦後になると不況に陥り、業界の再編が進められた。(p.97)


今から考えると意外な産業が軍需と関連があると聞かされ驚く。札幌でも早くから行われていた割には話題になることが少ないように思われる。

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