アヴェスターにはこう書いている?
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NPO法人さっぽろ時計台の会 編集 『札幌時計台創建135周年記念 札幌ものがたり 札幌のあゆみを知る』(その1)

 明治3年7月、中山峠を経由する有珠-札幌間103キロの道路開削工事が始まった。施工は東本願寺で新門主現如上人自らが指揮をとり、総経費は1万8057両、使役人員は延べ8万5300人で明治4年10月に完成した。通称「本願寺道路」、現在の国道270号[sic]である。
 東本願寺は徳川家と古くからの関係があり、鳥羽・伏見の戦いが始まった頃には薩摩・長州軍による焼き討ちを恐れていたほどだった。このため新政府に誠意を示すため、信徒の力によって北海道開拓を援助することを決め、明治2年6月新道開削、移民奨励、教化普及の3項目を掲げて政府に請願した。(p.47)


本願寺が明治以降の植民地開拓・支配に積極的に加担してきたことはしばしば目にしてきたが、その動機ないし利害関心の歴史的背景がこの叙述で理解できたように思う。

なお、本願寺道路は現在の国道270号となっているが、これは誤りで、国道230号が正しい。



薄野遊郭は、開拓の職人、人足の足止め策として官主導によって設けられたのである。(p.48)


これと同様の記述は札幌の歴史について調べるなかでしばしば目にしてきたが、『戦後性風俗大系』が指摘するように、戦前の日本社会は「売春公認」の社会だったということの一つの認識根拠と位置づけることもできるように思われる。



 この“札幌本道”は幅7~13メートルで両側に側溝を掘り、大小合わせて323橋を架けている。工事に従事した職工・人夫をはじめ関係者は延べ74万9000人、総経費84万3000円という巨費を投じて完成した日本で始めて[sic]の洋式馬車道だが、優秀な外国人技術者によって道路建設の技術と労務管理を教えられた記念すべき道路でもある。
 開拓使では、この工事に従事していた人夫1100人を札幌-銭函間の馬車道開削に回して明治6年12月に完成させた。明治2年12月の夜間、銭函と札幌とに烽火をあげ、火炎を目標に路線を定めて双方から伐木にかかったが途中の大湿地に阻まれて中止した道路である。これで札樽間の往来も可能になった。(p.49)


札幌本道が日本初の洋式馬車道であり、その工事に従事していた者が札幌-銭函間の馬車道も手掛けていたとは知らなかった。この馬車道は後の明治13年に手宮-札幌間の鉄道路線として使われるものであろう。



明治4年10月、政府財政の悪化で開拓使は厳しい予算制度をしいたのだが、積極財政をとる岩村はトップの座にある黒田の決済を受けずに、額外3万円の土木工事を独断で行った。……(中略)……。
 だが、こうした黒田を無視したともとれる岩村の独断は、黒田に対する公然とした批判であり、挑戦でもあった。
 明治5年10月11日、樺太、宗谷、根室、浦河、函館各支庁の主任官を招集しての会議が札幌で開かれた。各地のこれまでの実状を調査し、実地検査を行って将来の開拓方法を合議するという趣旨のものだった。しかし、この会議こそ、黒田と岩村に代表される薩摩と土佐の抗争に決着をつける舞台でもあった。
 大久保利通の片腕として国事に奔走する黒田に札幌本府常駐を求めると同時に、黒田の開拓次官の辞任を暗に求めているものだった。岩村はこれを草書にしたため、主任官らに署名捺印をさせて賛同を得、これをもって黒田に迫ることにしていた。
 ところが、会議3日前に札幌に乗り込んできた黒田はいち早く岩村の策動を察知し「余は病いのため会議には臨め得ず。よって会議は諸君らに委ねる」という内容の手紙を岩村に突きつけた。黒田は、自分の激怒ぶりを会議欠席という奇策で主任官らに知らせたのである。10月11日、会議場の次官官舎のガラス邸に定刻参集してきた主任官らは事態の急変に困惑し、任地へ戻ると言い出す。止むなく岩村は黒田を宿舎に訪ねるが、病気を理由に黒田は会おうとしない。岩村の再三の懇請に黒田はようやく顔を見せ、会議出席を承諾する。会議は予定通り開催されるが黒田は一言も発せず、岩村の草書は朗読も開陳もされずに終わった。翌明治6年1月17日、胆振巡視中の岩村に免官の辞令がとどいた。その他、岩村派と見られていた幹部も一斉に免官となった。そしてこのあと黒田は、同郷の薩摩出身者を続々と採用し“薩摩開拓使”を作りあげていく。(p.51)


岩村通俊と黒田清隆とが、それぞれ土佐と薩摩を代表しており、この対立の結果、薩摩が勝利したという。なるほど。この薩摩の勢力が後にはあまり目立たなくなって行くはずだが、そのターニングポイントなども知りたいところだ。



 この幅広の空地を多目的に利用しだしたのは明治8年ころからで、手はじめは花壇であった。人が集まり易い場所ゆえ農業仮博覧会や運動会場など各種の行事が催され、明治42年になって大通逍遥地として整備されていった。大正12年に都市計画法と道路交通法の適用を受けて公園と道路の二重の性格を持つようになり、14年には大通風致地区に指定された。しかし太平洋戦争中に公園機能を失い、食料事情の悪化で畑となる。戦後は塵捨場(雪捨場)の状態に。
 ……(中略)……。
 自慢でいえば、北海道拓殖銀行が寄贈した3丁目と北海道銀行による4丁目の噴水をあげておきたい。ここから眺めるテレビ塔(1丁目)の景観とテレビ塔の上から見下ろす大通公園はまことに美しい。(p.56)


大通公園の歴史。本書でも「札幌の顔」とされているが、札幌という街の成り立ちを考える際にも、非常に重要な位置づけにある場所であるため、もう少し掘り下げて知りたい場所ではある。



第2回の卒業式が終わってまもなく、演武場正面の屋上の鐘塔が時計塔に改築され、直径1.67メートルの文字盤を持つ大時計が取り付けられた。鐘塔は農学校の始業の合図のためのものだったが、大時計は市民に正確な時刻を知らせるものだった。(p.59)


札幌農学校の演武場だった現在の時計台。鐘塔から時計塔への変化は、この演武場という多目的ホールが単に札幌農学校だけのものではなく、札幌という街の人々のものでもある、という意味を持つことに(象徴的に)繋がるのかもしれない。



 開拓使ではケプロンの建言、あるいは意向を踏まえて現在の大通北1条東1丁目から東4丁目の三町四方を工業局管理地とし、米国から購入した水力・蒸気両機関を装置、アメリカから招いた機械技師の指導の下に木挽きから器械、器具製造などの器械工場を設けた。また、工業局管理地の北側隣接地には物産局管理地が設けられ、豆、麦などの農作物や農民の副業として栽培・飼育した麻や繭などを原料とする官営の加工工場が建設された。こうした生産物の工場供給で移住者の生活を安定させ、同時に海外や他府県からの移入を減らして北海道産物の移出・輸出力を増大させる、という計画だった。開拓使では40ヵ所以上の官営工場を設けたが、その半数以上が札幌に集中した。(p.60)


開拓使は官営工場を多数設けたが、北海道庁時代には政策の転換により民営化の方向になっていく。なお、土地の管理も部局ごとに管理地が決まっているシステムというのが興味深い。


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