アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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藻谷浩介、NHK広島取材班 『里山資本主義――日本経済は「安心の原理」で動く』

 このように、中国地方では太古から戦後まもない頃まで、山から得た資源を徹底して活用する知恵を絞り、山を中心にして地域の経済を成立させていたのである。
 それを破壊したのが、戦後、圧倒的な物量で海の向こうから押し寄せてきた資源であった。特に石油はとても安く、便利で使いやすいため、爆発的に利用が拡大。木炭に取って代わるのにそれほど時間はかからなかった。
 そこに追い打ちをかけたのが、1960年に始まった木材の輸入自由化。そして、木造住宅の需要の低迷。(p.41)


『バナナと日本人』『エビと日本人』『かつお節と日本人』などからも、1960年代に様々なものの輸入が自由化されていたことがわかり、そのことが意味することについて私は関心を持っているのだが、木材もそれらより少し早い時期にすでに自由化されていたことを本書で知り、さらに興味を刺激された。



 労働市場でも、ペレットは、ガスや原油にはない、大きな可能性を生み出した。そもそも原油や天然ガスの輸入ばかりしていては、雇用はほとんど増えない。
 ペレットやそれを利用したボイラーの生産技術は、オーストリアが他国の二歩も三歩も先を進んでいる。他国にはない産業を育てれば、当然、関連技術も自前で育てることになり、労働需要が高まる。(p.77)


なるほど。もう10年以上も前になるが、私の大学の後輩がペレットのエネルギーやエコロジー的な観点などからの意義について関心を持っている者がおり、私はペレットというものをその人を通して知った。大規模のエネルギーの代替として考えるにはあまりに小規模のものだと当時は感じていたのだが、本書を読み、その可能性の広がりについての認識が深まった。

関連技術の開発とそのための労働需要の創出、そして、その技術を産業として売り出していくことによる収益。こうしたものがあればあらゆる問題が解決するという訳ではないが、あるかないかの違いが持つ意味は小さくない、ということ。10年以上前に関連した話をしばしば耳していたからこそ、本書から啓発を受けることができたのではないか、と思う。やはりいろいろな人との議論や意見交換などをすることは重要だ。



 オーストリアは、世界でも珍しい「脱原発」を憲法に明記している国家である。1999年い制定された新憲法律「原子力から自由なオーストリア」では、第二項で原発を新たに建設することと、既に建設された原発を稼働させることを禁止している。ちなみに第一項では核兵器の製造、保有、移送、実験、使用を禁止している。つまり、オーストリアは、軍事利用であれ、平和利用であれ、原子力の利用そのものを憲法で否定している数少ない国の一つなのだ。(p.88)


これは知らなかった。オーストリアはまだ行ったことがないが、関心が高まった。機会があれば、ぜひ行ってみたい。



 日本では、国にできないことを先に地方からやってしまうことが、コトを動かす秘訣なのだ。(p.137-138)


確かに。劇的に一気に社会を変えることは容易ではないが、比較的小さな地方で有益な事例をつくり、それを広めていく中で一気に展開するということもしばしばある。



 このように物々交換というのは奥深い。特定の人間たちの間で物々交換が重ねられると、そこに「絆」「ネットワーク」と呼ばれるものも生れる。(p.143)


なるほど。金ではなく物を交換することは、単なる経済的行為ではなく社会的なネットワークを生み出すことにも繋がる。相手が必要なものを知っている方が物々交換は有効に機能するから、自分自身も交換相手に自分のことを知ってもらうことが有利になる。お互いが共に自己開示しながら相手のことを考えつつ必要なものを与え、さらにそれに対するフィードバックをしていくという経験を重ねていけば、自ずとコミュニティの結び付きは強まる。

価値の共通基盤としての金だけを流通させていくマネー資本主義が、こうした社会的なネットワークを破壊する方向に作用するのと対極的である。



 筆者は、今日本人が享受している経済的な繁栄への執着こそが、日本人の不安の大元の源泉だと思う。(p.251)


なるほど。鋭く深い洞察。



 ところで全体の繁栄が難しいということになると、誰かを叩いて切り捨てるという発想が出て来やすい。官僚がけしからん、大企業がけしからん、マスコミがけしからん、政権がけしからんと、切り捨てる側の気分で叩いてきたが、そのうちに、「自分こそが、そのけしからん奴らから巧妙に、切り捨てられている側なのではないか」と疑心暗鬼になる人が増えてきた。特に日本人の四人に一人を占める高齢者には、経済社会の一線を退いた結果として、世の中から置き去りにされるのではないかという危惧を抱く層が多い。やりがいのある定職を持てない若者も、自分は置き去りにされているという実感が強いだろう。これが不満となり、さらにはその不満を共有しないように見える(うまい汁を吸っているのではないかと思われる)一部の日本人に対する不信、日本を叩くことで自国の繁栄を図っているのかもしれない(!?)周辺国に対する不信となって、蓄積され始めた。(p.252)


現代日本の社会に漂う空気をうまく捉え、分析している。

全体の繁栄が続くという認識が持てなくなる中で、それに執着してしまうことから不安が生じ、その不安を解消するために「全体」が繁栄できないならば、せめて「自分の側」は「繁栄」を続けるには、誰かが繁栄から脱落してほしいし、脱落させるために叩きたくなる、というわけだ。そうしたバッシング系の言説が流布する機会が増えると、どんなに何かをけしからんと叩いても、自分の生活が改善するわけではない中でそうした言説を頻繁に耳にすることになるから、そのうち、自分が切り捨てられる側(被害者側)になっているかもしれないということに「気づく」わけだ。そこで被害者意識が昂じていくと、その不安を共有しない「自分とは別サイドにいる人びと」に対する不信や嫌悪が強く出てくる、というわけだ。ヘイトスピーチなどを行う人びとが共有する被害者意識は、まさにこのようなものであろう。

この分析は主にヘイトスピーチやネトウヨのような右派側に強くあてはまるが、リバタリアン的ないしネオリベラリズムな志向の人々(さらには比較的リベラルな人びとも)が共有する官僚バッシングにも当てはまる。



 さあいよいよ今度は日本全体が、切り捨てられる側になってきたのではないかと不安に思う層が増え、不安・不満・不信を共有することで成り立つ疑似共同体を形成し始める。そういう種類の疑似共同体に属することで本当に安心立命が得られるのかどうか、はなはだ疑問ではあるが、一度属して少しでも仲間とつながった感覚になると、そこからはじき出されるのはイヤだ。はじき出されないためには、不安・不満・不信を強調しあうことで自分も仲間だとアピールするしかない。つまり疑似共同体が、不安・不満・不信を癒す場ではなく、煽りあって高めあう場として機能してしまう。
 安倍首相も、不安・不満・不信を解消する力量のある人物というよりは、自分と同じ目線で不安・不満・不信を共有し、自分の側に立って行動してくれる人物として人気になる。
 これが選挙前に維新を押し上げ、そして選挙後には安倍氏への期待を高めている浮動票の意識、彼らに迎合した一部マスコミなどが形成している「世の空気」の構造だ。(p.253-254)


特に中国と朝鮮半島に対する排外主義的なナショナリズムが高まっている構造はこうしたところに求められるだろう。

そして、集団的自衛権の議論でも、安倍が人びとの不安を煽るもの言いを続けるのも、ある意味ではこうした構造についてある程度の自覚があるからだろう。



 しかし冷静に考えて欲しいのだが、過去20年間でみれば日本のGDP総額は増えていないが、減ってもいない。バブルの頃世界最高だった一人当たりGDPも、今では世界17位だというが、絶対額ではこの間も微増している。それどころか生産年齢人口(15~64歳)当たりのGDPを計算してみると、今でも日本の伸び率が先進国最高だという。経済的な繁栄の絶対的な水準は、まったく下がっていないのである。
 ……(中略)……。
 経済は「ゼロサム」の世界だと思っていて、「他国が繁栄したということは、その分こっちが落ちたのだ」と何となく思い込んでしまう人がいるようだが、まったくの考え違いだ。
 過去20年間に北京は、馬車や自転車が行き交う田舎町から高速道路と地下鉄が縦横に走る大都会に一気に変貌したが、東京がその陰で、牛馬で物を運ぶ社会に転落したわけではない。(p.258-259)


何となく人々が感じる「衰退感」に対してデータに基づき反論している点は妥当。ただ、人びとが感じる衰退感や不安は、データで示される「絶対的な水準」以上に他国との相対的な比較に基づく「相対的な水準」に基づく面がある点には留意が必要かもしれない。

バブルの頃には、アメリカと一部の西欧の国を除けば、日本と同じ程度の生活水準の国はほとんどなかっただろう。現在ではそうした国だけではなく、韓国や中国の相対的に富裕な層なども日本と同じかそれ以上の生活水準を享受するようになっている(と見える)。周辺で随一であると自認しているときに感じる優越感や自己肯定感が、かつて格下と見なしていたような社会が同列のものと見えるようになることで失われていく。「誇り」が盛んに言われるのは、そうした不安ないし不満が背景にある。この、ある種のゆがんだ喪失感への対応ももしかすると必要になってくるものではないかと思う。里山資本主義ではマネー資本主義とは異なる価値観を実現することによって、その点を乗り越えていると思うが、多くの人にそれが実感を持って共有されるまでの道のりは長いように思う。



 「しかし現に日本は震災を契機に31年ぶりの貿易赤字になり、さらに赤字が拡大しているではないか」と反論される方もあろう。赤字になったのはその通りだが、原因は原発事故を契機に化石燃料の価格が高騰し輸入が増えたからであって、輸出=日本製品の海外での売り上げが落ちたからではない。そのため、日本が赤字を貢いでいる相手は資源国ばかりであり、中国(+香港)、韓国、台湾、シンガポール、タイ、インド、米国、英国、ドイツなどに対しては、引き続き日本の方が貿易黒字である。つまり幾ら欧米や東アジアから稼いでも、丸ごとアラブなどの産油国に持っていかれてしまう状態だということだが、このあたりの数字を確認せずに、日本が新興工業国との経済競争に敗れた、中国(+香港)や韓国に対して赤字になったと早とちりしている人が学者、政治家、マスコミ関係者の中にもたいへん多いのには、筆者は本当に辟易している。
 しかも国際収支は貿易収支だけで決まるのではない。(p.264-265)


マスコミの情報を見聞きしている限り、このあたりの数字に接することなく言説だけが踊っているということは常々感じる。円安を進めることで化石燃料のために支払うために円がより多く必要になる金融緩和も貿易赤字の原因の一つと言ってよいのではなかろうか。(これは輸出が増えるはずの分と相殺する部分があるので、あまり触れられることがないのだろう。)



 確かに、際限なくお札を刷ればいつかは必ずインフレになる。……(中略)……さらなる金融緩和の末に突然に極端なインフレが起きるという可能性もある。
 ……(中略)……。
 インフレがそのように急激にではなく、緩やかに始まるという根拠はあるのかといわれれば、「リフレ論」にはそれを保証するほどの理論的成熟も実証データの蓄積もない。間違ってインフレが過熱したときにそれを制御できる方策があるのかと問うと、「現に日銀がこれだけ長期のデフレをもたらしているのだから、今度は日銀が金融引き締めをすれば簡単にインフレは収まる」という答えが返ってくるのだが、そもそも「今のデフレは日銀のせいである」という説が正しくない限りは、彼らの言う対策も効きそうにもない。これは結局、信じる人は信じるという話で、賛否の議論が「神学論争」と呼ばれるゆえんである。
 ただリフレ論の信者に、ある共通の属性があることは間違いない。「市場経済は政府当局が自在にコントロールできる」という一種の確信を持っていることであり、これを筆者は「近代経済学のマルクス経済学化」と呼んでいる。昔ならマルクス経済学に流れたような思考回路の人間(少数の変数で複雑な現実を説明でき、コントロールできると信じる世間知らずのタイプ)が、旧ソ連の凋落以降、近代経済学に流れているということかもしれない。
 実際には日銀は、別段日本経済を滅ぼそうとしている悪の組織ではなく、これまで十数年続けた金融緩和が実際に物価上昇につながらなかったという経験をもとに行動している。(p.268-269)


リフレ論の信者の信仰内容を的確に定式化していると思う。確かに、金融政策によって政府が市場をコントロールできると信じることは、社会主義国の政府が計画経済によって経済をコントロールできると信じることと通じるものがあるし、金融政策の力を過信しているあたりも、経済という土台が政治や文化などの上部構造を規定しているという図式とよく似ている。



 結論だけを申せば、日本で「デフレ」といわれているものの正体は、不動産、車、家電、安価な食品など、主たる顧客層が減り行く現役世代であるような商品の供給過剰を、機械化され自動化されたシステムによる低価格大量生産に慣れきった企業が止められないことによって生じた、「ミクロ経済学上の値崩れ」である。……(中略)……。そしてその解決は、それら企業が合理的に採算を追求し、需給バランスがまだ崩れていない、コストを価格転嫁できる分野を開拓してシフトしていくことでしか図れない。(p.270-271)


『デフレの正体』の結論を一言で要約するとこうなる。私もこの見方が妥当だと考える。したがって、金融緩和という処方箋は危険性は高めるが「デフレ」への本当の対処法にはなり得ない(むしろ、問題を解決せずに先送りして更に悪化を招いているのが現状である)と考える。

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