アヴェスターにはこう書いている?
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須磨正敏 『ヲショロ場所をめぐる人々』(その2)

 慶応二年はタカシマ運上家にとっては大厄の年で、3月20日、ヲショロ境付近の野火が火元で季節風のヒカタにあおられ、運上家付属の建物、民家を焼きつくし、火の手は現在の小樽市手宮町にまで及んだ。鰊漁の真最中で、沖に出ていた船と網だけが残り、運上家では帳簿類のほかは箸一本も持ち出せないほど、瞬時のうちに一面炎に包まれるという参事であった。(p.176-177)


タカシマ場所の運上家はどこにあったのだろう?かつての町役場、神社、金融機関が複数集まっているあたりが、中心地だったと推測されるが、そのあたりなのだろうか?それとも明治以前には別の中心地があったのだろうか?



 元治元年(1864)、ヤムクシナイとオシャマンベの場所請負制を廃止して村並とした幕府は、翌慶応元年二月、西蝦夷地で一番和人の多いヲタルナイも同様に村並への昇格を申し渡し、従来の請負人岡田家は何らの特権を持たない、一介の追鰊取りと同様の扱いをうけることになった。この頃、請負人の場所経営は、直営事業では年々出費がかさんでいたが、追鰊業者相手の方は、入り込む漁師が増えれば増えるほど物資が動き、仕込みもふえ、したがって二八分として彼らから受け取る仕込み分の荷物も多くなっていった。
 幕府の出先機関である箱館奉行所は、ヲタルナイの村並昇格の理由の一つとして、請負人岡田家の運上金納入の遅滞や、同地への出稼ぎの者たちに対する冷酷な取扱いなどをあげているが、本音は請負人に代わって幕府が場所を直轄し、蝦夷地経営の費用を少しでも稼ぎ出そうという魂胆であった。(p.182-183)


なるほど。幕末期に蝦夷地の場所が村並になっていく理由は幕府の財政と関連していたわけだ。

あと、ヲタルナイは和人が多かったことから、早期に村並になったとは聞いていたが、他にどのような地域がどのような順序で指定されてきたかということは、あまり知らない。

ヤムクシナイは現在の山越郡にあった場所で、山越郡には長万部町が含まれていることから、ヤムクシナイとヲシャマンベはお互いに近かったようだ。なぜこの地域が最初に村並に指定されたのだろう?蝦夷地の歴史には西海岸からアプローチしているので、太平洋岸の地域にまでは知識と関心が到達していない。今後もまだまだ知るべきことは多い。



 東西両蝦夷地のうち、西蝦夷地の旧請負人は東地と違って実力者がそろっていたので、財政の豊かでなかった開拓使は主として農業に官金をつぎ込み、西地の開発は多く民間人の手にゆだねていた。また運輸、交通、通信業務にしてお、旧運上家の機構がいっきょに廃止されては、北海道の開発事業はたちまち麻痺してしまう。一方で旧制度の廃止を号令しながら、他方では、時節柄、従来以上に旧運上家の機能に対する依存の度合が大きかった。(p.189-190)


なるほど。確かに、偕楽園のあたりの農業試験場や札幌農学校など農業関係には官費が出費されているが、漁業関係はどちらかというと自由化の路線(場所請負制の廃止など)で民間の参入によって運営している。

旧運上家の廃止を言いながら、その機能には依存していたという指摘も興味深い。



 貞二郎は、買い手のないこの蟹で缶詰を製造することを考えついた。
 琵琶湖という魚の一大宝庫を擁している滋賀県は、湖で獲れる魚類の缶詰製造に着目し、県内の新しい産業として県民に積極的に推奨した。しかし経験のない事業のため、進んで手を出す者がいなかった。貞二郎はこの勧誘に応じ、明治19年、八幡町魚屋町に缶詰製造所を設け、小えび、鮒、小鮎のほかに、松茸、筍、青豌豆、牛肉などの缶詰の製造をはじめた。これらの製品のうち、青豌豆が各郡市で一番喜ばれ、売れゆきは上々であった。
 この経験をふまえて、明治21年に忍路、高島、小樽の三ヵ所に缶詰製造所を設けた。工場の技師は、あらかじめ八幡の工場で養成し、これを送り込んでよこした。蟹、鮭、鱈子、たまねぎ、りんごなどの缶詰を作ったが、中でもたらば蟹の缶詰製造は日本での元祖となった。(p.207-208)


鮭は当時は北海道の川ならどこにでもいたのだろうか。鱈子は、今でも積丹半島の反対側にある岩内町の名物がタラであることからも、近海で獲れたのだろう。玉ねぎは札幌黄が想起されるし、(今では余市町や仁木町が想起されるが)明治期には札幌がリンゴの産地だったことなども想起され、いずれも近くで獲れるものを加工して缶詰を作っていたであろうことが見える。

小樽で缶詰と言えば、北海製罐という大正期に小樽で設立された会社が想起されるが、この会社は元は函館の資本だったらしいので、ここでの話とは直接の繋がりはないのかもしれないが、何かかかわりはあるのだろうか?



 明治19年8月12日夜、大場庄兵衛宅ではあかあかと灯がともり、大宴会が開かれていた。主客は外務大臣井上馨、内務大臣山形有朋と随行員、これに加えて彼らを忍路まで出向えに来ていた岩村北海道長官の一行であった。……(中略)……。
 両大臣一行が交通の不便な忍路へ立ち寄り、大場邸に一泊した経緯についての詳細は明らかでない。しかし、当時、西川商店は三井物産と取引きがあり、三井の商況が週に一度は必ず忍路支店に送られてきており、大場庄兵衛は大阪滞在中足繁く三井の店に出入りしていた。この時同行していた益田孝は三井の大番頭であったことが、彼らの忍路一泊を実現させた太い絆であったようである。元来、三井物産は、井上馨の作った先収会社のあとを引き受けて、明治9年に設立されたもので、この時井上の推薦で旧先収会社の益田孝が支配人となり、おなじく馬越恭平も三井に移った。益田は鈍翁と号し三井財閥の形成に功労があり、また茶人として、茶器収集家として世に知られている。また馬越恭平は三井の重役をへて日本のビール王となった人で、酒器の収集で有名、徳利大尽と呼ばれていた。(p.225-227)


西川家と三井物産、井上馨、益田孝、馬越恭平という繋がりは、私にとってはやや意外性があり興味を惹かれた。三井や三菱の歴史を知っておくことは、明治期の日本の歴史を知るにはかなり有意義なことと思われる。知りたいことはいろいろとあるが、なかなか時間が取れないことが悔やまれる。

また、馬越恭平と北海道の繋がりと言えば、サッポロビールへと繋がる日本麦酒の経営にかかわったことが想起されるが、これはこの宴会の6年ほど後の話である。


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