アヴェスターにはこう書いている?
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須磨正敏 『ヲショロ場所をめぐる人々』(その1)

 地元に人別をもたない商人は藩政の中で種々の制限を受けていたが、近江商人、中でも琵琶湖畔の柳川、薩摩、八幡出身のいわゆる両浜組は、出稼ぎ商人の身分のまま、地元商人以上の特権をほしいままにしていた。彼らは城下に身元保証人である断宿(ことわりやど)をもち、この宿主である問屋の下におかれている形式をとりながら、実質上はこれらの地元商人の金主であり、逆に彼らをその傘下におさめていた。この蔭には近江商人の団結と、藩の財政の確立と維持に功労のあったその財力と、国元の彦根藩、天領の八幡町の強いうしろ楯があったのである。
 彼らが終始、出稼ぎの形式をとり、藩内に本拠を移すことを拒み続けたのは、一つには松前はあくまでも商売をするための土地であり、もし形勢不利とみれば、何時でも国元へ撤退するつもりでいたからであろう。(p.62)


蝦夷地で近江商人が大きな影響力を誇っていたことはこれまでも随所で読んだことはあるが、その要因の一つとしてここで挙げられている国元の後ろ盾としては具体的にどのようなものがあったのだろうか?



 松前へ進出してきた本州商人の中で、西川伝右衛門のように一代で天下の豪商と称され、その後、十代にわたって北海道を舞台にして永続した例は、全体から見るとまことに数少ない、幸運に恵まれたものである。文化文政時代の松前奉行所の調査によると、この時代までまがりなりにも営業を続け、あるいは途中で店を閉じ場所請負人に転じてその後も相応の渡世をしている者は、近江出身の商人に限ってみても、浜屋与三右衛門、恵比須屋源兵衛、福嶋屋新右衛門、住吉屋(西川家)ぐらいのものであった。競争相手が多くなって商いの立ち行かぬ者、慣れぬ場所請負に手を出して大けがをする者が続出した。(p.63)


小樽では西川家は明治になるまである程度の勢力を持っており、近江商人から加越能商人へのシフトということが言われるが、近江商人がこれほど長く滞在していた土地の方が珍しいという事実は重要。近江商人撤退後の各地の状況について知りたいところだ。



 明治に入り、場所請負制が廃止された頃を境に、請負人たちは場所から撤退し、あるいは没落していった。そしてこれと交替するように鰊場の親方衆が台頭してきて、明治期の鰊漁業の主役をつとめるが、これら親方衆の先祖や先輩にあたるのが、追鰊の漁民たちである。彼らはアイヌの楽園へ侵入した和人の先陣の一翼をになったともいえるが、いっぽう、明治期の開拓事業は、これに先行した追鰊漁民たちの苦闘の歴史を無視しては、その姿を正しくとらえることはできない
 たとえば、ここに一枚の表彰状がある。
 ……(中略)……。
 この中で、九代伝右衛門は、「余市忍路高島の山道を開いた」として、褒賞の言葉をもらっている。しかしこの褒賞は、西川家が独占すべきものではない。実際に山道開発の労働をになったのは、当時のヲショロ、タカシマ両場所の管轄領内で漁事を許してもらう代わりに、収穫の一部を運上家にさし出し、また、要求されるまま、ほとんど無報酬で山道の開発に当ったのである。これらの名もない漁民たちの苦労に慰労の言葉一つもかけず、西川家の名のみを讃えるのは、まったく片手落ちの褒賞であるといわざるを得ない。(p.79-81)


名もない漁民たちなどにも配慮しなければ、歴史を正しく捉えることができないというのは全くその通りである。

もう一つ付け加えると、江戸時代や明治前半頃には資力のある商人などが道路などのインフラを整備した事例が多くみられ、これを「昔の人は偉かった」といったように褒め称える言説があるのだが(これは観光のガイドなどが歴史を紹介するときにありがちかも知れない)、これらの商人たちは自分たちのビジネスに有用なインフラについて、現在のように行政が道路等の整備などをしてくれると期待できないために投資したという面が強かったということである。その反射的効果として人々の交通の便にも寄与したし、地域の経済にも寄与したというに過ぎない。こうした地域の経済が活性化することも結局は投資をした本人の商売に跳ね返ってくるというところまでもしかすると計算していたかもしれない。公共心のみから純粋に私財を投じて公共財を形成した、というわけではない、という留保をつけるべきと思う。



 北海道の鰊漁業の歴史を調べてみて興味あることの一つは、漁法が伝播してきた経路である。一つの文化が新しい地域に伝わるときの流れは、その新しい地域への人の流れと一致するのが普通である。蝦夷ヶ島への人の流れの源は東北、北陸であり、文化の運搬者もまたこの方面の人たちが、その主流を占めている。松前、江差地方の鰊差網の漁網とその技術も東北、北陸の人々の手によってもたらされたものである。鰊場の労働の歌もまたそうである。ところが、笊網・行成網といった大網の場合は、本州から北海道への人の往来の主流に逆らって、太平洋岸からオホーツク海、宗谷海峡を通って日本海を西下するコースをとっている。
 これにはいくつかの原因が考えられるが、最も有力なものが、松前藩の終始一貫した大網禁止の目を逃れるためであった。より効率よく鰊をとろうとした漁民は、藩の目の届きにくい奥地から大網の使用をはじめたのである。一藩の主要産業の技術の改良が、早くから漁場として開けた城下から遠く離れた辺土に始まったということは、珍しい事例であろう。北海道の鰊漁業を技術面から見るならば、松前、江差地方は一番遅れた地域である。(p.104)


興味深い。鰊漁業に関連する歴史遺産などを度々見ていると、使用していた網についての説明を見ることは多いが、それだけでは、それぞれの違いや歴史的な意義についてまで深く理解することはなかなかできなかった。網については、網の大きさやどれだけ大量に獲れるかという観点から整理すると分かりやすいらしいとは気づいていたが、この叙述は非常に今後の理解にとって助けとなりそうである。



昭和の「追分節」は昔とあまりにも様変わりしてしまって、満座の中で気軽に歌い出せる人が一人や二人必ずいる民謡ではなく、長年、追分道場に通って血のにじむような修業をつみ、羽織、袴に威儀を正して歌う、限られた人たちにしか出来ないものになってしまった。(p.155)


昭和以前の追分節は酒宴で囃子詞に全員が参加するようなラフなものだったが、昭和になってからより「高尚な」方向へと変化したようだ。変化の原因は何なのか?気になるところである。

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