アヴェスターにはこう書いている?
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今田光夫 『ニシン文化史 幻の鰊・カムイチェップ』(その2)

 番屋は本来漁夫の寝起の場であるが、親方の居宅をかねる場合と、漁期間だけ開く“廻り番屋”とがある。後者は板張りの粗末な建物だが、前者では家族の居住区を“上番屋”と呼び、ぜいを尽くしたものが多かった。現在“鰊御殿”とされるものがこれに当たる。出身地の四国から原材を引いて建てたという旧伊藤漁場(仙法志)もあるが、概ね土地の木材を組み上げて造った。有名な花田番屋(鬼鹿)は五ケ統約200人の漁夫の起居に充分な広さがあった。番屋と廊下は巨木で組まれ、桁材も四間のものが普通で、中には六~八間に及ぶものが見受けられた。こうした巨材は、くさびと斧で割り裂かれたもので、釘を使わないのが自慢であった。いわゆる三十三間堂(香深)、旧平田漁場(仙法志)、旧小倉漁場(沓形)などは印象の深い建物であったが、或は朽ち、或は移されて、今では見ることはできない。網類は貴重な財産であったから、網倉は火災をおそれ、他の建物から離して建てた。(p.178-179)


親方の居宅を兼ねる場合と廻り番屋との2つの類型があるとされるが、小樽の祝津にある「茨木家中出張番屋」はその中間的な位置づけと思われる。親方の家は数件分離れた場所にあり、その点では廻り番屋と同じだが、船頭のような少しランクの高い人とヤン衆のような人のエリアとに区切られており、前者のエリアの方が格が高くなっているつくりは親方の居宅を兼ねる鰊御殿と共通している。

重要文化財にも指定されている花田家番屋は是非行ってみたいのだが、まだ行けていない。小樽の祝津に移築された田中家の鰊漁場建築(鰊御殿)でも、(外の建物を含めて)120人くらいが、起居できるといった程度だったことを考えると、花田家の番屋はさらに大きいということか。



 シャクシャインの蜂起(寛文9年、1669)の後、松前藩は惣大将(大酋長)の台頭をおそれて、交易量を削減した。それははねかえって藩財政を破綻させることになる。その頃、近畿地方は慢性的な金肥(干し鰯)不足に悩んでいた。この実態と蝦夷地の可能性と日本海舟運の実力をよく知っていた近江商人は、場所請負人として蝦夷地に進出する。彼等はやがてアイヌを使役して締め粕の製造(同時に魚油を生産)をはじめ、東北、北陸、西国一円の需要に支えられて企業的に成功した。鰊粕が遠隔地での生産にも拘わらず、鰯魚肥との競争に耐えることができたのは、アイヌ労働力及び追鰊業者(二八取り)からの収奪の激しさをしめすに充分であろう。(p.222)


p.34からの引用文でも触れている話題だが、近江商人のほか、松前藩、アイヌらの状況も少し書かれているので一応メモしておく。



 昭和8、9年になると、燃料を石炭に変えるために、竈の改装が各地で進められたが、漁獲の減少に加えて、食用化が進み、実効を見ることなく終っている。当時太平洋岸ではすでに、ミール工場や油圧式工場が現われていたが、漁期の短い鰊場では、稼働率が低く、実現の見通しは全くなかった
 因みに、合同漁業KKの、昭和13年の事業計画によれば、同社の鰊搾粕の生産予定量は、漁獲量の20パーセントを占めるにすぎない。鰊も、食用化が進み、魚肥の時代は終ったのである。(p.224)


昭和の初め頃は、様々な漁業の変革期だったのではないか?調べてみたい。

また、鰊の需要は当初は魚肥としてのものが大きかったが、この頃になると食用化が進んでいたのか。



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