アヴェスターにはこう書いている?
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今田光夫 『ニシン文化史 幻の鰊・カムイチェップ』(その1)

 初期場所請負人は近江商人であった。古来蝦夷地の産品は、小浜、敦賀などに陸上され、琵琶湖北岸まで駄送し、それから膳所(大津)まで水運、再び駄送又は宇治川の水運で京阪市場に運ばれ、松前向けの商品は、このルートを逆に持ち込まれた。近江商人はこのルートの要に位置し、古くから松前との接触があり、蝦夷地の生産の可能性、海運の実状、さらには京阪をはじめ西国一帯の商業的農産物(油・藍・綿)の生産地の実態(金肥(魚肥)の需要の増加・高騰・品不足)を熟知していたので、あえて請負にふみ切ったのであろう。(p.34-35)


初期の場所請負人に近江商人が多かった理由。



 祝津は小樽近海の千石場所であったが、浜が狭いので漁場はそれぞれ間口十五間に限られ、そこに青山、白鳥、茨木の三漁場が並び、番屋建築はぜいを競っていた。
 茨木家は堅実だがしぶちん、青山家は教育熱心といわれていた。白鳥家では当主がなくなって三兄弟が後に残されたが、いずれも遊び好きで膨大な遺産を三、四年で蕩尽したといわれている。真偽の程はわからないが、小樽花柳界始って以来の大尽遊び、芸妓を裸にして金貨を拾わせたとか、下駄を探すのに百円札で火を点したなどと伝えられていた。(p.69)


祝津は今も鰊漁場に関する建築が多く残されている地区であり、広い意味での鰊御殿がいくつも残っているが、漁場の間口が限られていたとは知らなかった。確かに浜は狭いかもしれない。

青山、白鳥、茨木という祝津の三大網元の家柄についての論評はなかなか面白い。



 安郎の父猪俣安之丞は蝋燭場所ほか鰊漁場の経営で財をなし、余市きっての財閥にのし上がった。現ニッカ工場の敷地を含む余市川右岸の埋立は彼の独力の工事であり、現道立中央水試(当時国立北海道水試)の建設もほとんど彼の寄付によるものであった。彼の邸宅はその全盛期の明治6年(1873)の建造で、それを明治30年(1897)から三年がかりで、ほとんど新築に近い改装をしたものと伝えられている。越後の宮大工、米山仙蔵の設計で、木造瓦葺地下室付き二階建て、延約千平方メートル。屋根は猪俣家の家紋入りの若狭瓦、土台は御影石、柱・梁など美事な一本材を使った伽藍調の建物である。屋根の両端には木製のしゃちほこ、天守閣を模した望楼が目をひく。大正末期の古い記憶をたどると、漁舎は隣接して別に設けていたから、この建物はもっぱら住宅・事務所・来客接待にあてられていたようである。正に「鰊御殿」の名にふさわしい建物といえる。やがて鰊漁業が不振となり、遂には人手にわたり、昭和14年(1939)小樽市の現在地(平磯岬の頂き)に移された。名付けて「銀鱗荘」、時の北海道長官石黒英彦の命名という。(p.72-73)


余市の猪俣家の「銀鱗荘」には、行ってみたいと思いながら、なかなか行けずにいる。料亭・旅館として活用されているのだが、何となく敷居が高い感じがしているのも大きな要因となっているように思う。



 場所請負制度が全蝦夷地に行き渡ったのは元文期(1736~41)とされているが、追鰊もこの時期以後は、凶漁対策もさることながら、生産の拡大を志向したものと思われる。場所が利尻、礼文、宗谷地方にまで拡大されると、それまでの追鰊の概念は薄れ、生産の拡大一方に変わった。(p.93-95)


鰊漁の漁場が北へと展開していくが、凶漁対策から生産拡大へと目的が変わっていったという理解は興味深い。根拠が明確かつ簡潔に示されていればなおよいのだが。



商場の経営を商人に請負わせる場所請負制が発足してからは、運上屋の機能は、交易所から漁業経営の拠点へと変わり、それまで、対等の儀礼として行われていた「オムシャ」も藩あるいは幕府の法令や漁場内の規則を申し聞かせる伝達式に変わり、運上屋は行政官庁的機能をもった場所支配の拠点へと変質した。(p.107-108)


運上屋の役割などもまだまだ分からないことが多いところ。



 当時の唯一の遺構として「旧 下ヨイチ運上家」(重要文化財、昭和46年指定)がある。
 荒れ果てて放置されていたが、嘉永6年(1853)の古図に基づいて復元された(昭和54年)。当時の場所請負人竹屋長左衛門が建てたものである。規模は、桁行28.9メートル(当時39.8メートル)梁間15.3メートル、切り妻造り、長柾葺きの石置屋根。建物の右半分を上手といい、畳敷き中廊下形式の止宿所で、通行の役人、勤番下役を泊める座敷を並べ、中央は帳場、番人居間、台所、左手は土間、酒部屋、雑部屋とし、一部二階に、番人、下働き女、一般通行人の寝部屋八室を設けた。
 この建物に使った木材量は213立方メートルに達し、木柄は極めて大きく、運上家建築の標準型と見られ、其後に建てられた鰊場建築の原型と考えられている。(p.109)


旧下ヨイチ運上家は是非行ってみたいと考えている。


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