アヴェスターにはこう書いている?
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山岡淳一郎 『国民皆保険が危ない』(その2)

国民の側からすれば、医療保険が整備され、そのメリットを実感できるようになれば政府への信認が高まる。政府は、社会保険を介して国民を管理、統制できる。この統制機能は、ファシズム体制下では「人的資源」の動員に利用された。この点も皆保険への歩みにおいて忘れてはならないポイントだ。(p.143)


医療保険を含む社会保険の三つの機能的特性(相互扶助、制度資本、国民統制)についての説明より。忘れられがちな側面だが、広い視野から医療保険を見るには重要な視点。



 明治維新後、国のかたちが「脱亜入欧」で近代化されるのに合わせて、医療にも欧化政策が採り入れられた。明治政府は、東京帝国大学を西洋医学の導入口としてヒト、モノ、カネを集中した。東大だけがドイツ人教授による授業を認められ、その卒業生が他大学に赴任して西洋式の医師教育が広まった。(p.144)


ここでは「他大学」と書かれているが、明治の中期くらいまでで言えば、「大学」は東京以外には京都(明治30年)くらいしかなかった。明治末期に東北と九州に帝国大学が設置され、大正7年に北海道、続いて京城、台北、大阪が大正後期から昭和一桁、昭和14年に名古屋に帝国大学が設置されるという流れである。この辺を考えると、ここで「他大学」と書かれているのは、「現在の大学の前身となる(医)学校」ということかもしれない。



 相互扶助の観点から農村では「医療利用組合」が、静かに普及していった。
 ……(中略)……。
 東京医療利用組合の組合長には、農学者で世界的に知名度の高い新渡戸稲造が就任している。新渡戸は、「中野病院(現中野総合病院)」の設立式典で、
「疾病に対する治療は人間の最も尊貴なる生命の保護として、貧富、高下、都鄙の別なく享受されなければならぬことであることは言うまでもありません」
 と、挨拶をした。ここに及んで農林省は医療組合の状況調査を始めた。……(中略)……。
 農林省は、医療組合は農山漁村の医療に必須の施設だという考えに至り、設立を促進する。37年末には単独の組合で医療事業を経営するところが102、連合会経営が30、連合会所属組合は1359に達した。これらの組合組織で経営する病院は87件、診療所175件で、働く医師の数は500人を超えた。国の統制色が強まったとはいえ、医療組合は農村医療の支柱へと育った。(p.160-162)


新渡戸の関与はいかにも彼のヒューマニズム的でリベラルな考え方と合致しており興味深い。

また、ここでは引用を省略したが医師会が医療利用組合に自らの患者を奪われると考えて反対していたという点も興味を惹かれる。



 戦時統制下、医療保険の加入者はどんどん増えた。国保の保険者である組合は、全町村の98%、六大都市を除く市部の63%で設立されている。国保加入者は4000万人を超え、国民の医療保険加入率は七割に達した。国民の健康を守る保険制度が人間を殺し合う戦争のバックアップとして拡張されたことは、歴史のアイロニーとして私たちは深く、記憶にとどめておかねばならないだろう。(p.167)


政府による統制という側面の最も端的な事例。もっとも、こうしたある種の「悪用」と捉えることもできるような役割を果たしたからと言って、公的医療保険制度の意義を否定するべきものではない、ということは言うまでもない。健康で強い兵士をつくる社会的基盤として整備されたものは、健康で優秀なビジネスマンの基盤にもなりうるし、健康で文化的な生活を送る市民の基盤にもなりうるのである。



 そもそも医療は、互いに支え合って社会を維持する制度資本なのか、経済成長を託す産業なのか、という基本的な議論もないまま省庁縦割りの縄張りごとに目先の利を追う施策が積み上げられている。
 明治以降、西欧モデルを追って近代化されてきた歴史をふり返っても明らかなように、医療は、第一義的には相互扶助による制度資本として整備されねばならない。社会の底に「だいじょうぶ」と感じられる網が張られてこそ、人びとは多様な挑戦をし、ダイナミックな経済活動が展開される。医療を単なる成長産業ととらえて短期的利益を負うのは、愚策だろう。
 それは医療の荒廃が進むアメリカを見れば明らかだ。……(中略)……。
 米国の厖大な医療費は、どこへ流れ込んでいるのか。
 民間保険会社やビッグ・ファーマと呼ばれる製薬会社、病院、医療関係者の懐へ
、である。ひと握りの金持ちは高い保険料を払って、世界最高峰の医療技術の恩恵を受けられるが、中流以下の大衆は思うように医療機関にかかれず、恐るべき格差が生じている。すべてがお金次第だ。(p.176-177)


医療を単なる成長産業と捉えて短期的な利益を追うのではなく、制度資本として整備されるべきという観点は非常に重要で、医療に関する政策などを見る時の基本的な視点として常に保持すべきだろう。



 マネジドケアの商売の仕方そのものについても、とくに集団訴訟といかたちで問題にされています。たとえば、虫垂炎の患者が起こした訴訟をみてみましょう。
 患者は、腹痛・発熱で医師を受診しました。医師から、80キロ離れた施設での八日後の超音波検査を指示されました。これがマネジドケアの手口で、遠い施設を指示したら患者は行かないかもしれない、八日待ったら治って検査を受けないかもしれないということで、こういったかたちの指示を出すわけです。
 患者は正直にこの指示を守って家で寝ている間に病状が重くなりまして、救急外来に行ったときは命が危ない状況で、緊急手術になったわけですが、後で、かんかんに怒りました。というのも、この指示を出した医師は、コストを減らしたらボーナスが出るという契約を保険会社と結んでいたからです。こういったことは国民に良質の医療を提供するという法の精神に反すると言って、最高裁まで訴訟を戦ったのですが、負けました。(講演「マネジドケアの失敗から何を学ぶか」)(p.178)


アメリカの民間医療保険はマネジドケアという方法で運営されており、以上の引用文はその問題点を李啓充氏が指摘したもの。

公共の利益よりも私的な利益が優先される状況は、医療のような生命や健康に直接かかわるような分野では抑制・規制されてしかるべきだろう。



 だが厚労省の本意は、市町村で差がある保険料の均一化を理由に、保険料を一気に引き上げて、公的医療費を抑えることにあるようだ。全国の市町村は、国保の保険料を抑えるために一般財源から国庫に繰り入れている。その額は全国で3700億円に達する。繰り入れがストップしたら保険料が大幅に上がるのは明らかだが、厚労省はすでに都道府県知事宛てに通知を出して、繰り入れを止めにかかっている。10年5月の通知で、国保広域化に向けて、保険料の均一化のため「保険料の引き上げ、収納率の向上、医療費適正化」などを行い、一般財源の繰り入れを「できる限り早期に解消する」よう求めた。
 ……(中略)……。
 ちなみに大阪府で繰り入れを全廃すると、国保加入一世帯当たり、保険料は年2万円アップするという。(p.203-205)


市町村国保を都道府県へと広域化する議論の背後で、厚労省が見えにくいところで暗躍しているといったところか。

逆に言うと、中央政府が財政責任を放棄してきている流れの中で、市町村が保険料を上げないために相応の努力をしているという点は評価してよい、とも言える。



国は条件の悪い、リスクの高い加入者を国保に押しつけた。国保を皆保険の「最後の砦」にした以上、国庫の補てんや財政調整は必要条件だった。
 皆保険が達成された当時、国保財政全体に占める国庫支出金の割合は50%を超え、70年代には60%ちかくを占めた。ところが、80年代の中曽根政権のころから国庫支出金は急激に減り始め、現在では25%程度まで下がっている。自治体が国保を維持するには繰り入れに頼るほかない。このまま国保の広域化が行われれば、大多数の加入者の保険料が上がるだろう。
 実際に、2011年度の国保料の改定で全国の自治体は、一斉に国保料を引き上げた。市民への通知では、計算方式の変更などを理由にしているが、前年の厚労省から都道府県知事への通知に沿っているからだろう。
 ……(中略)……。
 国保の広域化・統合化をめざすなら、国庫あるいは都道府県からの補てんの筋道を示さねばなるまい。非正規雇用者については、彼らを雇って利益をあげている雇用主にも責任はある。「週30時間以上の勤務」という被用者保険の加入条件を緩和し、非正規労働者も被用者保険でカバーするのが本筋ではないだろうか。
 ……(中略)……。広域化で統合を図るなら、国保と被用者保険の垣根を取り払い、一体化しなくては意味がない。だが、組合健保や共済組合は国保との合併に反発する。そうした利害の対立を、同じ土俵で議論するための言葉と思想を、この国は失ってしまった。(p.205-207)


国保を皆保険の最後の砦としている以上、国庫による補てんや財政調整は必要条件であるというのはその通り。しかし、実際は中央政府はこの30年余りの期間、財政責任を放棄しつつあり、国保広域化の議論でもそれをさらに進めようとしている。この流れに歯止めをかけるためにも公共的な議論が必要だが、そのための「言葉と思想」が失われている

これにどう対処していくべきか。難問である。

また、非正規労働者が増えているという現状を踏まえると、それに合わせて被用者保険の加入条件の緩和をすべきだという主張には傾聴に値するものがある。(被用者保険の負担のあり方自体もいろいろと検討を要するが。)



ヨーロッパ諸国の改革に共通するのは、硬直化した制度を活性化するために市場や競争の刺激を取り入れながらも、根幹の「社会連帯」はブラさない点だ。利害が対立する者どうしも、社会連帯の基盤は共有している。だから、コミュニケーションが成り立ち、実践へと転じられる
 かたや日本は、利害対立を受けとめるための「公共の思想」が見失われて久しい。けれども、完全に喪失したわけではない。東日本大震災の被災地で、さまざまな支え合いが始まっている。ふり返れば「国民皆保険」が、公共の思想を具現化したものだった。綻びは確かに生じている。だからこそ、今一度、国民皆保険の「相互扶助」「制度資本」としての意味をとらえ直し、次の半世紀へ向かって私たちは歩み出さねばならないだろう。(p.212)


「公共の思想」の例としてヨーロッパ、とくにフランスでの「社会連帯」という思想が紹介されている。日本の場合、「国民皆保険」という公共の思想を具現化した制度資本がある点も指摘されている。ヨーロッパの社会連帯の思想をそのまま日本に持ち込んで一般化させることは困難だろうが、現在ある制度を見直して活用していくという方策は可能性があり、その点で国保に注目すべき理由があるように思われる。


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