アヴェスターにはこう書いている?
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坂野徳隆 『風刺漫画で読み解く 日本統治下の台湾』(その3)

 皇太子の「次高山」命名により、台湾では山岳への関心が高まった。……(中略)……。
 本格的な登山環境の調査研究がはじまり、総督府に台湾山岳会が設立されたのは時代の変わり目である1926年のことだった。……(中略)……。
 そこに芽生えたのはスポーツ、文化としての山岳愛好だった。台湾では以後日月潭と組み合わせた新高山登山などが奨励され、男性を中心に登山ブームが起きた。しかしこれは思想悪化状態を覆すための思想善導、郷土教育の一環でもあった。19世紀欧米で起こったこの郷土教育は、愛国教育とも同義で、日本政府は人心の安定と社会秩序の回復のためにこの時期から積極的にそれらを取り入れていたのである。
 また、舶来のボーイスカウト運動も、台湾では青少年の精神健全化に用いられた。(p.89)


 なるほど。山岳を通して土地としての郷土に対する愛着を高めるだけでなく、それと結びつく自らの故郷としての郷土への愛着を高め、故郷に結びついている家族や近隣の人びとへの愛着とそれらが混じり合うようになっていくことから、それらを地理的にも人的にも含むものとしての「国家」という共同幻想への献身的態度を醸成していくというわけだ。

この際、本来、郷土・故郷と「国家」とは本来イコールではないが、戦争などの場合に「国家」に献身させられる際に懐かされる観念は、各自にとって身近で親しみを感じている「郷土・故郷」を守るためには「国家」を守らなければならないという論理によって導出されるように思われる。



 日本なら体育祭は秋だが、明確な秋が存在しない台湾ではスポーツに適した時期は冬となる。(p.90)


なるほど。ただ、台湾の北部は冬は天気が悪い。その意味ではあまりスポーツに適した土地ではないのかもしれない。

ちなみに、体育祭は日本では秋だと書かれているが、日本の中でも北海道の場合は運動会などの類は春に行われている。一律同じではないという点だけは指摘したい。また、台湾の冬と北海道の春・秋とは同じくらいの気温だったりするので、その辺も興味深い。



 郷土愛や人心の健全化を育むのにスポーツは最適だった。社会に自由な雰囲気をもたらすスポーツ振興は大正デモクラシーの産物でもあり、婦人運動とも結びついて、国島の漫画はスポーツウーマンが活躍し、男は三味線で家にこもるという風刺画で時代を表現している。
 なかでも野球は精神修行と結びついて内地では明治期から推奨されてきたが、台湾では領有15年後から中学校の野球団が生まれ、皇太子行啓の前には各地に野球協会が結成されるなど、その一大拡充期にあった。(p.90-91)


スポーツと政治の関係というのも、掘り下げると意外と面白そうなテーマだったりする。例えば、1か月ほど前だったか、浦和レッズの試合で「Japanese only」という横断幕が掲げられたという問題があったが、それもこのテーマと関連する問題だったりする。この問題に関してはJリーグの対応は私が予想したより素早く、処分も妥当なものだったと考えている。それは、右傾化・国家主義の流れが次第に強くなり、きな臭い世の中に向かいつつある中で、まだ日本という社会の中に良識bon sensが残されていることを示した点で非常に評価しているからである。

台湾で野球と言えば、台湾代表が戦前期の高校野球で甲子園に出場したことが想起されるが、このことも大正デモクラシー期以降の野球の興隆が背景となっているわけだ。この件について映画「KANO」が先日、台湾で放映されたことは記憶に新しい。日本での放映が待ち遠しい。



 昭和10(1935)年4月21日の新竹南部を震源とする地震は、現在までに台湾で最大の被害者数をだしたものとして記録されている。……(中略)……。
 ……(中略)……。ちなみに苗栗県三義郷には、このとき壊れた縦貫線レンガ製のアーチ橋が「龍騰断橋」の史跡として残され観光名所になっている。(p.114-115)


このアーチ橋も是非行ってみたい。



台北では淡水河が毎年決壊していたが、領有後総督府土木課の技師たちが護岸工事を行うことで被害がとまった。水害で困っていた大稲埕や萬華の住民は大喜びだったという。(p.116)


日本統治時代の近代的なインフラ整備が台湾の地に恩恵をもたらした事例の一つ。



 台湾人がしゃべる言葉は現在「台湾語」と呼ばれるが、もともとそんな名前の言葉はなく、意外だが、日本人が当時作った呼び方である。(p.127)


やはりそうだったか。台湾の言語状況はいろいろと複雑だが、社会の成り立ちが分かる意味で興味深いテーマでもある。



 日本時代も台湾人は日本語を習い、日本語使用を奨励されたが、当初はけっして強制はされなかった。台湾人の日本語教育環境が整わなかったこともあり、台湾人と日本人がそれぞれの言葉と文化で共存する複合社会が皇民化政策(教育)導入まで長く続いた。台湾人は民族のアイデンティティである言語を奪われなかったおかげで、町でも台湾語と日本語が飛び交う奇妙な二重言語の社会が展開したのである。
 戦時体制になると日本語の使用が強制される場面も増えたが、それも統治最後期の5年ほどである。日本時代の台湾人は日本文化に包囲されながらも、軸たる台湾語文化を守り、そのうえに日本語文化を形成していったのである。(p.128)


このあたりの問題については、もっと詳しく知りたい。



 戦後も日本語を流暢にしゃべる日本語世代の台湾人(70代以上)、あるいは原住民に会うと、彼らのアクセントが微妙に今の標準日本語と異なることに気づくだろう。例えばアメ(飴、雨)やカキ(牡蠣、柿)のアクセントが逆なのである。もともと区別が難しいアクセントゆえ間違えたのかと思えば、当時はそう習ったのだという人が多い。これは当時、台湾に赴任した教師、警官、総督府官吏には九州や四国出身の日本人が多かったためである。
 語法にしても西日本のそれが多く、「不可能だ」を「シキラン」と言うなど、台湾語の文法に近い表現と西日本の語法が合致したものや、「来る」「行く」が標準語とは逆になるなどの語法が頻繁に現れる。(p.128-129)


日本語世代が街を歩くこともかなり最近は少なくなっているのではないだろうか。あの世代が次第にこの世からいなくなって行くことに寂しさを感じる。



 春のお花見といえば内地では桜で、台湾でも台北郊外の草山(現在の陽明山)に染井吉野を移植した。しかし亜熱帯の山地では春のタイミングは内地とは異なり、旧正月の一月終りから二月には桜に混じって桃や梅の花が盛んに咲いた。現在もその頃陽明山に行くと、桃、梅、桜が一緒に咲き乱れる奇妙な光景に包まれる。(p.134)


陽明山の花見も是非してみたい。



中秋の名月の夜、家族や仲間と楽しむ野外バーベキューは今でも台湾の風物詩だが、なぜバーベキューが人気なのか不明である。しかし当時の漫画を見るとこの野外での食事は変わっていないことがわかる。(p.135-136)


この風習については知らなかった。今度台湾人の友人に聞いてみたい。



 台湾の法制度も内地に比べ遅れていたし、例えば昭和に入ってすぐ、内地では「簡易生命保険法及郵便年金法」が導入された(1926年10月)のに対し、台湾での施行は遅れること15年後の昭和16(1941)年4月1日、樺太と同時施行だった。(p.136-137)


簡保ができたのが昭和初めだったということも初めて知った。制度ができた背景はどのようなものなのか?気になる。



 皇太子も行啓の際に入湯した、台北の北にある、落ち着いた雰囲気の北投温泉。最近では日本の北陸の有名老舗旅館も支店進出して話題となった、日本人にも人気の観光地である。もともと温泉好きな日本人が開発した、台北の奥座敷、遊廓や健康的な運動場、軍施設などが集まる一角でもあった。その温泉街からすぐの高台に昭和7(1932)年、台湾別院として開かれた長野の善光寺がある。
 本尊は当時のままである。こんなところに、と意外だが、台湾には日本の13宗派のうち8宗が入り、昭和初期には東本願寺や西本願寺が豪壮な寺院を建て、説教や講和[ママ]、葬儀、子弟教育活動を行った。そうした日本の宗教団体のなかには植民地支配に加担したものが多かったといわれる。その証明か、逆に純粋に内地人の信仰の拠り所として建てられたものは破壊されず、現存しているようである。(p.137-138)


北投温泉博物館は以前行ったときは閉まっていたので、いつか必ず行きたいと考えているが、善光寺の別院があるとは知らなかった。北投に行った際は、足をのばしてみたい。ちなみに、西門町にかつて西本願寺が、萬華に東本願寺がかつてあったが、今はない。

寺院が植民地支配に加担したというが、具体的に何を行ったかということも非常に興味がある。



総督府により内台の壁がいつまでも存在しつづけた台湾では、本島人の日本化はいわれるほど徹底していなかった。小中学校や職場で日本的な態度習慣を身につけても、家庭へ戻れば伝統的な習慣を貫いた。(p.141)


むしろ、家庭へ戻ればそれまでどおりの習慣を維持できたからこそ、統治もそれなりにうまくいったのではないか。後藤新平の「生物学の原理」のような現地の習慣を尊重するやり方は――植民地統治自体の是非という問題は措けば――むしろ妥当と言うべきだろう。



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