アヴェスターにはこう書いている?
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坂野徳隆 『風刺漫画で読み解く 日本統治下の台湾』(その2)

 バナナの生産拡大も領有直後から日本人研究者を大量動員して研究され、シンガポール、フィリピン、ハワイ、ジャワから輸入した30種類以上を台北の士林園芸試験分所などに植え、品種改良を行っている。また移出バナナの輸送試験なども船倉の温度湿度の調節など細かく実験された。その結果バナナは大正2(1913)年の主要果実生産高の半数を占めるようになるのである。
 しかし1920年代前半バナナ価格が下落し、アメリカの恐慌により内需が大幅に低迷。これを輸送費で補おうと、生産者の台中州は内台航路を独占する日本郵船、大阪商船に対し基隆・神戸間の運賃値下げを要求するも、拒絶されてしまう。そこに目をつけたのが台湾航路開発を目論んでいた新興船会社の山下汽船だった。
 山下は高雄・横浜間の定期航路開設を条件に、台中産のバナナ移出を一手に引き受ける。これによって京浜市場への輸送が時間・コストとも軽減されるのである。(p.46-47)


台湾のバナナも商品として売るために研究が行なわれていたというのは押さえておきたい。

また、日本郵船、大阪商船の独占(寡占)に対して山下汽船の参入により運賃が値下げという構図は、昨今の航空業界のLCCの進出と似ており興味深い。以前、高雄に行ったとき、バナナやパイナップルの缶詰などが出荷されていた時期があったことがかつての鉄道施設を利用した博物館で紹介されていたのが想起された。



 一方、バナナとともに内地で大量消費された台湾のフルーツといえば鳳梨(パイナップル)だろう。パイン缶として輸出され、量は大正期に急増している。台湾名産のスイカも続こうとしたが、中央政府による移出許可はウリミバエという南西諸島以南で瓜類や果物に寄生する害虫問題などで台湾当局の予想以上に難航し、「西瓜移出問題」として連日台湾の新聞を賑わせた。(p.47)


パイナップルの輸出・移出は缶詰の技術の発展と重なることで大きな進展を見た。この時期の缶詰と言えば、私が想起するのは小林多喜二の『蟹工船』(1929年)であり、これはオホーツク海(北洋漁業)での蟹の缶詰という商品の生産に関する問題(を題材として当時の「グローバル資本主義」の問題点)が描かれているが、台湾のパイナップル缶の生産過程などはどのようなものだったのか、気になるところである。



 農産物の移出には港湾施設とそこまでの島内の鉄道が必須だった。明治41(1908)年に台湾縦貫鉄道が完成し、大正11(1922)年には海岸線が開通。このとき国島は「バナナのようになる」と描いているが、実際にバナナが大量に移出できるようになった時期と重なっている。(p.48)


台湾の経済発展と交通インフラの整備状況の整合的な関係には注目すべき。



もっとも国島が頻繁に描いたのは、灌漑用水にも利用可能な自然湖ダムで、もうひとつの台湾の大インフラ事業「日月潭工事」だった。日月潭は台湾中央部、750メートルの高地にある自然湖で、その水位を上げて発電用貯水池とし、10万キロワットという当時東洋最大の発電施設を造る計画だった。台湾中心部に、台湾を動かす一大電源となることから台湾の心臓と呼ばれた。
 前述の第七代台湾総督・明石元二郎が命がけで推進し、台湾を農業国から工業国へ転換させるための一大プロジェクトである。しかし不況や工事費高騰などにより、10年に亘って工事は中断。その工事のために設立された台湾最大の半官半民会社「台湾電力」や、台湾・本国経済界を巻き込む数々のドラマチックな社会・政治問題に国島が興味を持ったのは当然だろう。(p.50-51)


日月潭は現在は有名な観光地でもあるが、まだ行ったことがない。是非行ってみたい。「農業国から工業国へと転換させる一大プロジェクト」という位置づけは現在の風光明媚な観光地としてのイメージとはかなり異なるが、そのギャップもまた興味深いところ。台湾の近現代の歴史を理解するためには、「台湾電力」についてももう少し詳しく知る必要があると感じている。



 台南、そして基隆や淡水を占領したスペイン人は、原住民が金製の装飾を着けていることに気づく。訊ねると、東部で発見したという。彼らは南部の恒春や台東で砂金を発見しながら、東海岸の山や渓谷で金鉱を探した。しかし見つからぬままオランダに駆逐され、台湾全島はオランダの統治下に入る。東という見立ては当たっており、実際に東北部の金瓜石鉱山が偶然台湾人により発見されるのは、日本人が領有する直前のことだった。
 ……(中略)……。
 金瓜石の金が日本時代にとり尽くされた後、金脈はこれまで見つかっていない。金瓜石は現在観光地として整備され当時の様子もよくわかるので、台湾版ゴールドラッシュやスペイン人の金をめぐる探検、横堀博士の見立てに騒いだ社会を想像することができるだろう。(p.52-54)


台湾に眠る金が原住民にも古くから利用されていたという点は興味深い。金瓜石の黄金博物館にも是非行ってみたいのだが、私の計画では、北海道の夕張市の石炭博物館とこれを比較してみたいと考えている。



 台湾では炭鉱も開発されていたが、良質のものは深堀りが必要で技術的に困難だった。対岸中国で安く上等な石炭が輸出されるため、台湾は石炭を輸入に頼ったほどである。山が高く高低差を活かした水力発電所の建設は理にかなっていたといえる。(p.54)


地形と水力発電の適合性についての指摘はなるほどと思わされた。



 阿里山などで巨大なヒノキ林を見たひとも多いだろうが、台湾では1990年代になるまで一部山岳部への進入には制限がかけられていたため、桃園近郊のヒノキの森など近年公開されたエリアの樹齢2000年の巨木は圧巻である。台湾の山は、世界でも日本と台湾にしか分布しない、これら貴重な巨木の宝庫だった。(p.55)


ここ数年、台湾人の友人たちが台湾で山登りをして巨木の写真をfacebookなどにアップロードしているのを目にする機会があったが、その背景がわかったような気がする。私も是非一度は見てみたいものである。



 一方、クスノキからとれる樟脳は大正時代までセルロイドの可塑剤や防虫剤に使われ、台湾総統府の初期の重要な輸出産物のひとつになる。台湾中部にクスノキプランテーションが造られ、世界屈指の産出地となったが、大正末期にドイツで工業用合成樟脳が開発され、プラスチックが主流になると次第に衰退していった。(p.55-56)


樟脳が台湾の輸出産物だったことはしばしば目にして知っていたが、ドイツを中心とした化学工業の発展がその衰退の要因となっていたわけだ。工業化が進展した時代らしい産物の変遷であり興味深い。



 戦後、国民党政府は日本人がヒノキなど天然資源を乱獲し台湾の山を破壊したように反日宣伝していたが、山林大国から来た日本人は木材管理を厳重に行い、逆に乱獲したのは山地の環境保護にまったく目を向けなかった国民党政府の方である。天然資源の乱獲は総督府により制御され、つねに科学者の調査による計画的な伐採と保護が行われたのである。(p.56-57)


やや総督府を持ち上げすぎの感もするが、戦後、台湾にやってきた国民党の兵士らの教育水準等を考えてみても、基本的な方向性としては恐らくそれほど誤ってはいなさそうに思う。ただ、最近は台湾の人びとは環境への配慮についても、かなり関心は高いと感じており、この点に関しては日本以上ではないかと思う。

(ついでに言うと、原発に対する態度や政府の独断的で非民主的な決定への抵抗――台湾政府が独断で中国とのサービス貿易協定を締結しようとしたことに対し、学生らが立法院を占拠したことは記憶に新しい――といった点でも台湾社会は日本社会より上を行っていると思う。)




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