アヴェスターにはこう書いている?
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坂野徳隆 『風刺漫画で読み解く 日本統治下の台湾』(その1)

 国島が渡った頃の台湾はすでに急速な発展を遂げており、帝国政府の南進基地として内地からの移住が奨励される注目の新天地でもあった。さらに、台湾は、安定度、幸福度という点から見れば、国島が乗り込んだあたりから、満州事変による昭和の動乱期までが最高の時代だった。(p.15)


新聞風刺漫画家・国島水馬が台湾に渡ったのは大正5年(1916年)のこと。この頃からの約20年間が日本統治期の台湾が安定していた時代というのは、確かにそのとおり。ということは、日本統治下の台湾を研究する場合、この時代のことは調べやすいかもしれない。



領台直後から、土匪鎮圧のため生死をかける兵士らが刹那的な快楽を求めることで酒と女の街として有名だった台北は、色香漂う「カフェー文化」を受け入れる土壌があったのである。(p.18-19)


台湾での「土匪鎮圧」のようなものはなかったと思われるが、北海道開拓開始時の札幌にも、すぐにススキノの遊廓ができたことなどが想起された。



 北門から市民大通の高速道路陸橋を潜り、城外へ。中華路はそのまま延平北路にかわり、かつての台北の面影をもっとも色濃く残す大同地区へ伸びていく。道の左右には、日本時代からある建物が並ぶ。古い外壁が崩れ、上部には草が生え、かつての洋風装飾が周囲の近代的ビルのガラスの反射に幻のように見える。南京西路を左に塔城街との交差点あたりが六館街の跡で、色街として日本人で賑わった場所である。領有二年目にはすでに高級料亭が建ち、台北の不夜城と呼ばれた大稲埕の中心だった。
 このそう広くないエリアは淡水河岸の波止場の茶貿易拠点として発達し、日本人が来る頃、台北の人口五万弱の約半数が住んでいた。日本人も最初の銀行や法院、医院をここに建てるほどの繁栄ぶり。しかしそこは台湾人街として城内の日本人街と区別された。そしてその「異境」の匂いが淫靡な空気を孕み、「金魚」に誘われた大和紳士の釣り人たちを招き入れていたのである。(p.21)


この六館街の場所は、今の迪化街のすぐ南のあたりと思われる。やはり札幌の狸小路やススキノの歴史と重なるものを感じる。



 いうまでもなく、台湾島はもともと対岸中国から渡り根を下ろした、いわゆる台湾人のものだが、日本統治時代「本島人」と別称された彼らは、文化、権力の中心から外れたところで二等国民の身分に甘んじていた。そんな彼らのなかから大正デモクラシーに触発され「新文化運動」と呼ばれる文化啓発活動が興り、中心地となったのが、当時富裕層と文化人の多かった大稲埕だった。
 迪化街のすぐ東側へ出た、車の往来が多い延平北路と民生西路の交差点周辺は「新文化運動」でできた台湾人の劇場、カフェー文化が盛んだったエリアだ。大正デモクラシー全盛時の飲食店は現存しないが、延平北路に昭和9(1934)年に開店し、今も当時のまま残る喫茶レストラン「BOLERO 波麗路(旧名「ボレロ」」は台湾人のみならず内地の文化人がクラシック音楽を鑑賞しながら芸術文化を論じた有名店である。
 また永楽座(現在の私立天主教静修女子中学の大講堂)は当時台湾を代表する激情として伝統戯曲や現代口語劇を上演。ここからは、やがて日本人統治者たちの警戒心を煽る社会改革運動が勃興し、大正10(1921)年11月には台湾民族運動の指導者として有名な林献堂が「台湾文化協会」を創設し、成立大会が盛大に行われている。(p.22-24)


大稲埕の自由な空間が、社会運動へと繋がったという点は今まで認識していなかった点で、本書から得た収穫の一つ。

次に台北に行く際は、是非「BOLERO 波麗路」という店に行ってみたい。



 ところが文官総督は内地の政党政治により政権交代が起こるたびにその首もころころとすげ換えられるようになる。諸事決定が先送りとなり、島内のプロジェクトは滞り、武官時代のダイナミックな経済発展は停滞してしまうのである。
 文官総督が運んできた内地延長主義とは、第一次大戦で西欧諸国の植民地における民族主義が高揚し、日本でも当時の首相原敬が自由と民主の思想を重んじるようになったことが背景にあった。(p.28)


武官総督から文官総督に変わったことは、台湾の歴史を紐解くと必ずと言ってよいほど出てくる話題だが、その意味するところは、それほど明確に語られないことが多い。本書はそのあたりを比較的単純明快にわかりやすく書いてくれるので、イメージしやすくなる。

文官総督は、内地の政党政治と連動したものであること、それとも関連して内地延長主義が政策の基本的な方向性であったことは押さえておくべきだろう。



台湾の老人たちの話を聴いていると、なかでも一番タメになったことは民族アイデンティティの自覚だったという。清朝が妻帯渡航を禁じたため、彼らの父系祖先は遡れても、母方は平埔族が多く、家系があやふやである。一度も直轄の政府も持たず、まとまりのなかった台湾に、基本的に単一民族でひとつの言語を話す民族色の濃い日本人がやってきて支配した。台湾人は初めて目の前に鏡を突きつけられたのである。
 台湾人と日本人はこうして表面的には肩を組み、互いを、あるいは自らを知り始めていく。しかしそれまで台湾人と日本人は結婚することすら許されていなかった。共婚法が施行されたのは昭和7(1932)年。(p.36-37)


台湾人というアイデンティティは確かに、日本統治時代に確立されていったものだろう。共婚法が昭和7年施行というのは、確かにかなり遅いと言うべきだろう。





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