アヴェスターにはこう書いている?
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大塚久雄 編 『マックス・ヴェーバー研究 生誕百年記念シンポジウム』
米堀庸三 「歴史学とヴェーバー」より

 ヴェーバーが生まれたドイツにおきましては、戦前には、ヴェーバーの理論ないしは実証的な研究を歴史家自体が引用することもかなり多かったのでありますが、戦後においては、むしろヴェーバーから離れようとしているような傾向が見受けられます。フランスおよびイギリスにおきましては、ヴェーバーの歴史上の研究が、その社会学的な理論とともに問題になることは、はなはだ少ないように思われます。
 戦後においては、御存じのように、アメリカで、タルコット・パーソンズによるヴェーバーの紹介が行なわれました。しかしアメリカの歴史学のなかにヴェーバーがどれだけ取り入れられたかということになりますと、それはかなり問題であると思われます。私が知っておりますかぎりでは、既成の欧米史研究家のあいだには、ヴェーバーの研究を取り入れた人は、むしろきわめて少ないと言わざるを得ないように思います。そんなところからいたしまして、「歴史学とヴェーバー」といった問題が、大きな研究会の報告のテーマになるということは、わが国のきわめて特殊な事情であると言って宜いように思います。(p.57)


歴史学に限らず、ウェーバーに対する関心の高さに関して、日本はやや特殊な位置にあると言ってよさそうに思う。



丸山真男 「戦前における日本のヴェーバー研究」より

 ここでは、「戦前における」という限定をつけましたが、たとえばきょう、あすに行なわれるようなかたちでヴェーバーについてのシンポジウムをもつということは、少なくとも戦前では考えられなかったと思うのです。つまり、社会科学の学界全体としてヴェーバーを問題とするという状況は、戦後にはじめて生まれたものであって、そういう意味での、ヴェーバー研究の「動向」といったものは、戦前にはそもそも語りえないことを御承知おきねがいます。(p.151)


戦後の一時期(このシンポジウムが行なわれた時期の前後10年程度?)のウェーバーに対する関心の高まりは、確かにそれ以外の時代とは違っているかもしれない。



戦時中、ヴェーバーの東洋社会論が着目されることになるのは、自然のなりゆきでした。(p.161)


中国への侵攻、朝鮮や満州に対する植民地支配という社会背景の下、東洋研究に対する関心が高まっていたことがウェーバー研究にも当てはまる。



住谷一彦 「総括一 日本におけるヴェーバー研究の動向」より

大塚さん、丸山さん、喜多野さん、いずれの方もヴェーバーとはかれの『経済史』を通じてはじめて出会っていることです。……(中略)……。こうして、三氏が『経済史』から『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に赴き、ついで『経済と社会』に行きついた点で軌を一にしていることは、おそらくまったく偶然の一致ではありましょうが、マルクス=ヴェーバー的思想像の形成という観点から見るとき、まことに興味深いものがあります。(p.180-181)


『経済史』がウェーバーとの出会いとなっているという点は、日本におけるウェーバーの受容が経済史の分野から始まったことと合致している。思うに、経済史の分野で受容が始まったがゆえに、ウェーバーの著作の翻訳も『経済史』が最初期のものとなったことが、その次の世代の研究者がこの本から始まることになる背景となっているということだろう。



安藤英治 「ヴェーバーにおけるRationalisierungの概念」より

いずれにしましても、このような“確証”という問題をつうじまして、ヴェーバーは、宗教的要求というものが、その要求の内容が宗教的試練に耐えうる信用のおける人間たることの要求であることを通じ、まさにそのことによってビジネス世界の資格にもなるのだ、ということを学んだわけであります。(p.231)


ゼクテに入団していること自体が、そのゼクテが要求している規律に従うことができていることを示す効果があるということに関連するコメント。



 少し話を飛ばしますと、今度内田芳明氏の苦心の名訳が完成したところですが、『古代ユダヤ教』に補論としてつけられた「パリサイ人」におきまして、ヴェーバーがパリサイ人を規定した社会学的な性質こそは、まさに“ゼクテ”にほかなりません。……(中略)……。あたかもその目でアメリカにおけるヴェーバーのゼクテ体験を頭においてみますと、ヴェーバーのパリサイ人の分析は、ほとんど、アメリカにおける体験がそのまま投影されているのではないかというくらいにまで、極端に言えば感じられるのでございます。(p.231)


興味深い指摘。


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