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アヴェスターにはこう書いている?
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北岡伸一 『後藤新平 外交とヴィジョン』(その2)

 日本側における満鉄の発想の起源として、あまりにも有名なエピソードがある。すなわち、児玉源太郎は日本軍がようやく鴨緑江を渡って満州に入ったばかりの頃(37年5月)、部下に命じて東インド会社のことを調べさせたという。それは実はがんらい後藤のアイディアであって、後藤は東インド会社という非政府機関がその事業という形で実質的な植民地統治を行なったにならい、満鉄を中心とする満州経営をすでに考え始めていたというのである。(p.83)


満鉄のシステムがロシアの東清鉄道に倣ったものであったという点は先日このブログでも触れたが、歴史をさかのぼると東インド会社による植民地支配へとさかのぼるということか。なるほど。



 文装的武備とは、がんらい武装的文弱という言葉と対比して用いられたものであった。日露戦争のさなか、後藤はすでに満鉄を中心とする満州経営の必要性を説いていた。それは、満州に大量の兵力を駐屯させたり、軍備の増強を進めたり、満州における軍の発言権を温存することよりも、鉄道を中心として合理的な経営を進め、農業や牧畜を振興し、大量の移民を実現することのほうが、軍事的効果の点からみても一層有効であるという主張から出ていた。ただちに大量の軍事輸送を行ないうる鉄道や、ただちに遊撃軍たりうる移民は、潜在的な軍備でもあったからである。(p.94-95)


鉄道はが経済的な発展の手段であるだけでなく、軍事的なインフラでもありうる。そう言われてみれば、他の交通インフラ(道路、運河、港湾)も同じような意味をもちうる。



実は文装的武備という名称には、最初から軍の支持を得るという目的が込められていたようにも思われるのである。(p.96)


なるほど。この指摘は次の引用文の主張へと繋がる。



 以上に明らかなように、文装的武備の名で呼ばれた政策は、たしかに広義の安全保障の意味は持っているが、とくに軍事的な色彩を帯びた政策ではなかった
 むしろ後藤は満鉄による満州の文明化自体に強い関心を持っていた。文明の恩恵を与え、かつ世界文明に貢献することに、後藤は強い誇りを感じていた。しかも文装的武備と呼ばれた多くの政策は、実は日本とロシア、日本と清国の間の対立関係を相互依存的な関係に変えていく機能を持っていたのである。(p.101)


「文明の利器」によって相互の経済的な互恵関係を形成し、そのことによって、対立関係の重要性を低下させ、協力関係の重要性を上昇させるという発想か。こうした発想は今日の国際情勢でも有用性を持ち続けていると思われる。しかし、昨今の日本の外交を取り巻く情勢を見ると、こうした発想は乏しいようである。



 また長春では、旧市街から離れた荒野に新市街の建設が計画された。これを担当した技師加藤与之助の設計は、半径90メートルの駅前広場を中心とする大規模で立派なものだったが、後藤はそれでも道路が狭すぎると批判して、幹線道路は東京のそれと同様に20間(36メートル)とするよう指示した。そして反論する加藤に対し、パリのシャンゼリゼやベルリンのウンター・デン・リンデンを見よと言い、実際に加藤を洋行させてしまった(越沢明「大連の都市計画史」および「長春の都市計画史」)。
 後藤はすでに台湾でも都市建設を経験していた。しかしそれはいわば本能的な都市計画であって、必ずしも十分な自覚や根拠があって出来たものではなかった。しかし満州における後藤は、本格的な都市建設者であった。持ち前の豊かな想像力と台湾での経験に加え、ロシアの大規模な計画を知ったことにより、たぐい稀な都市建設者としての後藤が生まれたのである。
 都市建設には様々な目的があった。居住者にとっての便利も重要であったし、植民者としての威容を示すという政治的な目的も重要であった。しかし後藤は、文明の象徴たる壮大な都市の建設を、ほとんど義務と感じ、またそのことに無上の喜びを感じていたのではないだろうか。……(中略)……。
 ただし、その文明化が、天下りの押し付けになっていなかったことも、忘れてはならない。たとえば後藤は日本風の地名をつけることを厳に戒め、必ず中国風の名前とするよう命じた。「生物学の原則」からして当然の発想であった。また都市の構成においても、中国人街を差別することを厳に戒め、むしろ中国人が多く住み着くように工夫した。そうしてこそ、満鉄の繁栄はありうるのだというのであった。そこにも「生物学の原則」や「文装的武備」の発想が生かされていたのである。
 今日から見て、満州の文明化に関する後藤の使命感を帝国主義のイデオロギーと指摘することは易しい。後藤の文装的武備こそ、最も狡猾な帝国主義だということもできるだろう。しかし激しい国際対立の渦中に、まるで武装したような態度で満鉄が乗り込んだとすれば、相互不信・相互猜疑を招いて、はるかに悲惨な結果をもたらすことになったのではないだろうか。その意味でも、後藤のアプローチの建設的な性格は評価されてよいもののように思われる。(p.102-103)


都市計画者としての後藤の要点となるような要素が高い密度で描かれている箇所と思われる。



事実として、シベリア出兵に積極的であったのは、彼ら親露派であり、消極的であったのは、原や牧野など、英米との協調を重視し、ロシアとの関係にさほど重きを置かない人々であった。(p.178)


帝政ロシアの支配層にシンパシーを感じる人びとは、彼らを救うために出兵が必要であると考える傾向があったということか。なるほど。



要するに文明の普遍を信じつつ、その適用にあたっては生物学の原則にしたがったこと、これが彼の成功の秘訣であった。(p.228)


「生物学の原則」は、実態把握と実態(慣習等)の尊重、そして漸進的な変更といった要素に分解できそうだが、いずれも自分の思いだけで先走るような姿勢を自制する必要があることがわかる。多くの人びとにとってはこれは分かっているとしても、なかなかできないことのように思われる。


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