全体として、後藤の漸禁論は成功を収めたと言ってよいであろう。阿片の禁止はきわめて困難な事業だからである。ただし、もう少し早く目標を達成できなかったかという批判はありうる。なぜなら漸禁政策に伴うはずの患者の治療や、密飲者の摘発・処罰において、総督府は必ずしも厳格ではなかったからである。その理由は、阿片専売の収入が総督府の重要財源となり、これを減らすことに総督府が熱をあげにくいところがあったらしい。 それは、専売制度にほとんど不可避的に内在する欠点であった。……(中略)……。後藤はこの可能性を、専売収益の使途を衛生目的に限定することで封じるつもりであった。しかしそれは実現されず、専売益金は一般収入とされた。(p.46-47)
後藤新平の台湾における功績の一つとしてアヘンの禁止におおむね成功したことが挙げられる。一気に物事を変えようとするのではなく、実情をよく調査した上で、現地の慣習なども考慮して徐々に変化させていくというやり方は、現在の政治の考え方ではほとんど採用されなくなってきた考え方のように思われ、こうしたやり方が成功を収めたという事実は知るに値する。
まず道路の問題があった。日本が台湾を接収してみると、道路と言えるようなものがほとんど存在しなかった。村落と村落の間、そして村落と市街との間には幅30センチ程度の小道があったけれども、市街と市街とを連絡する県道や国道に類するものはなかったのである。(p.49)
村落同士がかなり孤立していたということはよく語られているが、当時の台湾の交通の状況がよくわかる。
なお、軍以外の勢力を相手とするときも、後藤がターゲットとしてのは常に強力な力を持つ個人であった。彼らを説き伏せてその背後にある勢力の反対を押し切ることが、後藤の常道であった。……(中略)……。 このことを言い換えれば、後藤において、政治力は借物であった。(p.58)
後藤の政治手法のうち、事実調査を重視し、現地の慣習を重んじる「生物学の原則」は参考になるものだが、もう一つ、こうした優秀な人材のネットワークを活用するという方法も参考になるものがある。
当初の後藤の関心は、治安の確立と台湾の経済発展に向けられていたのである。 しかし実はそのことが、逆に台湾と大陸との関係を、密接かつ具体的なものとして浮かび上がらせ、後藤を大陸に直面させることとなったのである。すなわち、後藤は台湾経済の問題に取り組むうち、それが大陸とくに福建省の郷紳の手に握られており、大陸経済圏の一部をなしていることに気づいたからである。(p.63-64)
この後、台湾は大陸経済圏の一部から切り離され、日本の経済圏に組み入れられることになる。
ところでアメリカのフィリピン領有は、日清戦争で日本が台湾を獲得してから僅か三年後のことであり、偶然ながら後藤が台湾に赴任した年のことであった。しかもフィリピンは、言うまでもなくバシー海峡をはさんで台湾のすぐ南側であった。アメリカはこのあとフィリピンの独立運動に直面し、1902年にようやくその支配を確立するのであるが、これは児玉・後藤が「土匪」を制圧したのと同じ年であった。台湾における日本と、フィリピンにおけるアメリカとは、新興帝国主義国として、僅かな距離をはさんで植民地経営競争を展開していたのである。(p.67)
最後の一文については同様の認識を私も持っていたが、これほどまでに同時並行的に起こっていたという認識までは持っていなかったので参考になった。
後藤はより積極的に、過酷な講和条件によってロシアに深い遺恨を植えつけ、列強からの同情を失うことよりも、物質的利害にはむしろ固執せず、「国家の声位力望をして列国関係の要衝に拠らしむ」ることこと重要であるとし、それは「皮浅貪欲なる硬論主義の能く成す所に非」ずと主張したのであった。(p.73)
日露戦争の戦勝に関する後藤のスタンス。本書の後半でこうした相互利益に着目した外交姿勢がクローズアップされるが、この点も現代の政治において非常に参考にすべき点の一つであると思う。
スポンサーサイト
テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌
|