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越澤明 『後藤新平――大震災と帝都復興』(その2)

 台湾における製糖業の発展は地元台湾人の経済力を高め、政治的な地位を向上させた。製糖業で成功した台湾人実業家の代表人物が辜顕栄であり、戦前で台湾人からただ一人、貴族院議員に勅選された。その子、辜振甫は台湾を代表する財界人で、総統李登輝の資政(顧問)となり、中国と台湾との交流・交渉の台湾側責任者(海峡交流基金会の初代理事長)を15年間務めた。辜顕栄の孫であり、辜振甫の弟の子がリチャード・クー(エコノミスト)である。(p.107)


製糖業で潤った台湾人はそう多くはなく、在来型の製糖業を営んでいたような台湾人はむしろ経済的に苦境に立ったのではなかろうか?



満鉄付属地の課金は関東州の租税に比べて三分の一以下と低かった。つまり、満鉄付属地の住民は満鉄のおかげで関東州や内地よりも安い税金で済んだわけである。満鉄は鉄道(主に大豆等農産物の輸送)、港湾(大連港の経営)、鉱山(撫順炭の販売)による収益を活用して、約30年間にわたり、都市建設を実行し、居住する日本人・中国人のために都市経営に多大な経費を支出し、投資を継続していった。
 満鉄付属地の市街地の施設(道路、公園、住宅、病院など)はいずれも当時の日本国内の大都市に劣らず、あるいは内地の大都市よりも優れた水準であった。その理由はこのような満鉄の地方経営にあり、このような経営方式は満鉄初代総裁の後藤がつくりあげた。(p.125)


満鉄の経営がどのようなものであったのか、非常に興味を惹かれる。



このような満鉄会社の特殊な役割は日本が独自で編み出したものではなく、ロシアの東清鉄道の方式をそのまま見習ったものである。満鉄は国策会社として一定の行政権限を持ちながら、水準の高い都市建設を実現していった。(p.125-126)


本書で描かれる満鉄の経営について読み、様々な要素がうまく絡み合ったシステムだと感心したが、この叙述でその理由が納得できた。もともと長い期間をかけて積み重ねられてきたシステムが土台にあったことがわかったからである。満鉄はある意味では、東インド会社などの系譜に属するものと考えればよいのだろう。



 満鉄の鉄道付属地の大部分は、土地の形状は整った長方形である。これは東清鉄道の創業当時、ロシアが強権的に用地買収を行い、その土地を満鉄がそのまま引き継いだからである。しかし、長春の満鉄付属地は不整形である。これは満鉄が新規に用地買収をしたものの、ロシアのように強権的な用地買収はできないため、買収に手こずり、買収地を継ぎ足した結果が不整形になってしまったのである。ロシアと日本の権力の違いが土地の形に反映されている。(p.143)


興味深い指摘。



1907年と1910年の両国の協定で、ようやく日本側の満鉄の終点は、孟宗屯北方四キロの地点(現在の長春駅の地点)として長春駅を新設し、既存の寛城子駅はいったんは日露の共有とした上で、さらに、その共有権を日本はロシアに時価65万ルーブルで有償譲渡し、ロシアの完全所有とした。このようなロシアとの複雑な外交交渉、駆け引き、補償の折り合いなどのテクニックを、今日の日本人はまったく知らない。このロシアとの交渉の史実は今後の北方四島や千島樺太を考える上でも知っておくべきである。(p.144)


今日の外交に関しては、声高に自分の主張を繰り返すだけというパターンが余りに多く、このようなことをどんなに繰り返してもほとんどの場合、何の解決にも繋がらない。むしろ相手国との関係が悪化するだけで何の得もないことが多い。こうした子供じみた対応からは早急に卒業してもらいたいものである。



 後藤が晩年までしばしば周囲の者に語ったのは「植民地にはまず第一番に学校を拵え、それからお寺を建て、次に病院を完備しなければ、移住民に永住心を起こすことができるものではない」という考えであった。これは言いかえると、永住する気を起こさせる、内地よりも立派な都市を建設する、現地を豊かにするということである。立派な都市計画を殖民初期に実施し、公共施設を整備するという方式は、後藤の信念であり、また満鉄付属地の都市建設の成功によって、それは彼の確信となったのである。(p.160)


確かに後藤は台湾赴任直後も医学校を設立していた。教育を第一に持ってくるあたりは、人の重要性をよく認識していた後藤らしいと思う。


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