FC2ブログ
アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

稲葉振一郎・立岩真也 『所有と国家のゆくえ』(その3)
稲葉

 ところで、立岩さんのように「所有」をまずは「他者による所有」として理解しようというロジックならば、まさにもってるものの境界線というのはスタティック(静的)なものとして理解した方がいい。だけど、市場っていうのはダイナミック(動的)な取引の場ですよね。市場に限らず取引っていうのはダイナミックなものなので、ダイナミックな領域においては、「オレがオレが」のロジックの方がわかりやすいわけですよ。(p.81-82)



 立岩さんが今おっしゃったような話のベースラインになっているのは、おそらくは意外なことに、ミクロ経済学の教科書に載っているような「厚生経済学の基本定理」っていう話があるわけですけど、ああいう教科書的な話で想定されている状況と、根本的にあまり変わっていないわけです。
 ・・・(中略)・・・。つまり、取引に参加しなくたって生き延びていける、ある種自給自足に近いような条件が想定されている。これはトリッキーといえばトリッキーですよね。
 ・・・(中略)・・・
 つまり、経済学の教科書に書いてあって、市場経済バンザイ、オッケーという議論が展開されるときに想定されているのは、実はそういう状況なんです。だから、彼らは非常におめでたく市場を「パレート最適」を実現するメカニズムとして肯定できるわけですね。(p.84-85)



以上の二箇所における稲葉による立岩への批判は、なかなかいいところをついていると思われる。私は現在の日本の社会学者の中では恐らく立岩真也は最良の者のうちの一人だと評価しているのだが、確かに彼の議論はスタティックであるとも思う。

彼にとっての「フィールド」は主に障害者やALSのような障害者に近い状況の人たちについてのものが多かった。したがって、そうした自らの行為が制限されてしまっている人たちの活動に関して記述し、説明をしていくにあたってはスタティックな理論構成でもかなりのところまで示すことができたのだと私も思っていた。

しかし、経済や「国家」などを近年になって彼が論じているのを見ると、どうも十分ではない、というか規範理論の側に偏っているために、現実の現象を説明するまでにはかなり大きな「架け橋」が必要とされるし、理想を明確に定式化するという意味では理念型としての有用性は一応認めるにせよ、やはり現実を説明する力は十分でないと思っていた。そういう状態だったので、私以外の人が読んでも同じようなところに目がいくのだということが分かったのはひとつの収穫だった。

また、後段の、立岩が「厚生経済学の基本定理」に近い仮定をしているというのは、なかなか興味深い指摘であった。確かに、立岩は「論理的な感覚」を参照しながら、権利問題に関する議論からはじめて、個々の要素を組み上げながら論理展開していくので、「あるべき状態」が入り込みやすいというのはある。そのことを明確に指摘している点で、この記述は参考になった。

正直に言って、本書や他の本で見た限りでの稲葉振一郎という人の考えは、あまり私としては評価できないことが多かったし、あまり「鋭くない」と思っている。ただ、本書ではこの2箇所において良い批判をしたのは、少しだけ彼の評価を上げることになった。ただ、彼の単著を読もうとまではまだ思わないが…。



稲葉

状態っていうのは、ふつうに言う意味での「結果」であるとは限らなくて、もしかすると「初期条件」、出発点かもしれないし、あるいは途中経過かもしれないけれども、その途中経過におけるスナップショット的な状態というものがどんな状態を満たしていなければいけないかということを考える必要がある、というのがロールズの、あるいは功利主義者の考え方です。(p.102)



ノージックの「歴史原理」と「結果状態原理」との対比に関連する箇所での稲葉の説明。

ここで気づいたというかより明確化されたのは、例えば「結果の平等」と言われるものについて、それを「結果」というよりは上記のようなスナップショット的な「状態」として捉えた方が言葉としては適切であり、「状態の平等」という方がよい、ということ。今後はある程度の厳密性を求めたいときには、こうした言葉づかいを使うことにしたい。



稲葉

権力者を権力にとって不可欠なものとして自明視してしまうと、権力っていうものが過剰に一貫して(ある限定された意味で)合理的なもの――デザインされ、意図的に動かされているもの――として思い描かれる、あるいは権力者が神のようにイメージされてしまう、というところがある。・・・(中略)・・・。「権力者」と呼べるような特定の誰かがいたとしても、そいつは状況を創造し支配している神ではない、と追い出す。いなければなおのこと、状況を合理的意図的に配置して設計するやつはいない、ただ単に力の流れとして権力っていうのがあって、その結果、こういう価値観や思いや欲望を抱いている人間が生まれてきてしまうと描いていくことができる。(p.223)



この視点は重要である。私もしばしば権力について語ってきたが、メインブログで語ってきた範囲では、権力者と権力を結びつけて書いていることが多かった。今思えば少しばかり失敗だと思うまぁ、ブログは厳密さというより即興というか、覚書的な要素が強いので、どうしても砕けた理解の仕方で書いてしまうことが多いのだが、それでも多少、自覚の程度が低かったとは思う。

特定のアクターがいなくても、複数のアクターが活動するときに、彼らの活動の目的からすると派生的に、意図されない形で権力が作動を開始することがあり、それが一連の人々の行為の連鎖を誘発することがある。

これに関連することを一言述べると、例えば、陰謀論や「一番得をするヤツが犯人だ」というようなアホらしい推理が基本的に誤っていることが多いのは、権力者・実力行使者が必ずいると見立てており、それに対して「合理的」な説明から類推していってしまうからである。実際には、「誰も望んでいないのにある種の強制力が生じてしまって思うとおりに動けない」というようなことはいくらでもある。そうした事態をこれらの論では説明できないか、もっと悪い事に、間違った説明をしてしまうのである。
スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/94-09d0f502
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)