アヴェスターにはこう書いている?
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原田夏子、原田隆吉 『回想 東北帝国大学――戦中戦後の文科の学生の記』

 当時の帝大は北から北大、東北大、東大、名古屋大、京大、阪大、九大の七大学で、それらは旧制の高等学校の卒業生を受け入れる大学としてありました。ただ、東大、京大に続く第三の帝大として仙台に創立されたこの東北帝大は、最初は理科大学として発足、1911年に最初の学生を募集するとき、その入学資格を、高等学校卒業生に限らず、高等師範学校や旧制専門学校の優秀な卒業生にも入学を認めるという、後にこの大学の伝統となりましたいわゆる「門戸開放」が行われました。これによって、男子の専門学校生のみならず女子の場合にお適用の道が開かれ、日本女子大生も、試験に合格すれば入学が許されました。……(中略)……。九大も少し遅れて、この傍系入学の道を開きました。七帝大の中で戦前に傍系に門戸を開放していたのはこの二つの大学だけです。(p.10)


「当時」というのが筆者が入学した昭和18年頃の話であるとすれば、「当時」帝大は、さらに京城帝国大学(大正13年創立)と台北帝国大学(昭和3年創立)があったはずである。現在の「日本」の範囲を前提して過去を回想するというのはやや適切さを欠く叙述であると言わざるを得ない。

東北帝大が理科大学として創立されたという点は、その果たした役割を考える際には重要なポイントだろう。先日の台北帝大に関する本でも東北帝大の卒業生が軍需工場であった「日本アルミ」の工場長を勤めていたことが触れられていたことなどはその一つの事例と考えられる。

入学資格を旧制高校に限らなかったり、女子の入学も可能だったという点も興味深い。東北帝大と九州帝大が門戸開放を行えたのは、大正デモクラシーに繋がる時期(明治末期)に開設されていることも背景にあるのではなかろうか。



 東京から仙台を望みますと、親戚もなく足を踏み入れたことのない東北地方、その宮城県仙台でしたが、はやくから杜の都、日本のアルトハイデルベルグと讃えられていましたので、それにつけても憧れを強めました。(p.11)


仙台を杜の都というのはよく聞くが、「日本のアルトハイデルベルク」とは初めて聞いた。当時は広まっていた言い方なのだろうか。

ハイデルベルクはネッカー川のほとりの古都で川の両側の丘に囲まれた落ち着いた街という印象があるが、仙台はもう少し広々としたイメージがあり、私の中ではあまりしっくりこない感じがする。



 思想問題については日本女子大在学中、再々担任の注意を受けていました。昭和のはじめの大規模な思想弾圧で、女子大からも多くの検挙者を出したからです。また小学校から男女席を同じうせず、男女の交際も禁じられていました。それが大学ではじめて男子と一緒になるので特別の注意をされるだろうと格別にも思わなかったのですが、なぜわざわざ言われるのかと疑問が残りました。このことは間もなく知ることになりました。大学では数年前から経済科を中心に非合法グループとして教官の検挙があったり、女子学生もひとり特別高等警察、(略して特高 思想言論を取り締まる機関)に挙げられていました。また詳しくはわかりませんでしたが、恋愛関係の当事者二人の退学の話も聞きました。(p.15)


昭和初期の大学や社会の雰囲気がどんなものだったかわかる。



ただ先生の言われた「文盲」という言葉が、先生を思い出すとき浮かんできます。辞書には「文盲」とは、文字を見ていても読めない者の意のほかに、物や事柄を見ていながら、その存在や本質などに気のつかない者のこととあります。先生は後者の意味で使われ、芸術を解す事のできないもののことで、大学とは異質の軍人の世界に文盲との戦いが待っていること、先生はそれへの覚悟や決意をうながし、励まされ餞とされたのだと思いました。個人の思想や言動にも特高が耳を欹てていた時代に、軍人を文盲と言い切られた、先生の凛としたお心に感動しました。
 どこの教室も同じように一杯で、少しでも多く大学の講義を聞いておきたい、学んでおきたい、これが最後になるかもしれないという痛切な思いは共通していたといえます。(p.20)


「文盲」に関して思うことは、文化的なものに関心がなく、理解を示さない者と交流すること、そうした人間に囲まれて生活することは、なかなかつらいものである、ということ。ただ、「文盲」と見なされている側の発想の内側からも物を見ることは重要かもしれない。



戦争が深刻になるにつれて、物が何でも極端に足りなくなっていった時代に、本も例外ではなかった。その中で、岩波文庫は古今東西の古典的著述をコンパクトなかたちで低廉に発行しつづけていた唯一のものであって、当時の学生にとっては大変貴重であった。(p.105)

 
当時の学生にとっては貴重であったと述べられているが、これは過去の話ではなく、現在の学生や古典的教養のようなものを理解しようとする人にとっても同じように貴重なものだと思う。ただ、現在の学生がどれくらい岩波文庫を読んでいるか、ということはやや気になるが。



戦中はあれほど物資が欠乏して食うや食わずの生活が続いたのに、敗戦後はどこからか、あらゆる物資が姿をあらわしバラックの店が沢山並び、お金さえあればそこで何でも手に入るような自暴自棄的な活況を呈する、いわゆる闇市が開かれていたのである。(p.125)


仙台も台北(『台北帝大生 戦中の日々』)も同じような様子が述べられている。恐らく、当時の日本中で見られた光景なのだろう。



 大学構内こそ米兵も入れない安全地帯であったが、街の中ではしばしばトラブルが起きていた。国語学の小林好日教授が、ホールド・アップされて時計を奪われたと苦笑されたのもこの頃である。私たちは、日本の敗戦の現実を、はやくも身近な出来事にみつめることとなった。(p.128-129)


戦後まもない時期はこのようなことがあったのか。



 私に特に興味深かったのは、台北で公共図書館の日本のおばさんやお姉さんたちが、七つ八つの幼子たちを優しく導き、学校の先生と違って日本人と差別する雰囲気を全く示さなかった、これが強くアピールして楊少年の図書館好きは進んだという節と、満鉄図書館が大連の各所に幾つかの分館を設け、開架制をとって自由に本を探させ、十六年頃なのにソビエトを報告し、ナチを批判する図書も見出されたという節であります。満鉄図書館がその自由思想の故に日本を出たすぐれたインテリたちによって、日本本国よりもはるかに立派な理念と実績を示した、図書館史上の異彩であることはかねてより感じていました。日本の図書館は戦時中却って植民地で発展して内地をリードし、戦後内地へ引揚げたそれらの人材が四十年頃まで日本図書館界をリードしたが、彼らが第一線を退くに及んで、図書館は相対的な社会的地位の低下を免れなかった、と思うのです。(p.228-229)


興味深い指摘。

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