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アヴェスターにはこう書いている?
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佳山良正 『台北帝大生 戦中の日々』(その3)

 ラジオの警報では数十機のコンソリデーテドB24とその護衛戦闘機の編隊が、この住宅地を襲った。……(中略)……。迎撃するはずの我が方の戦闘機は一機も飛びたたず、前もって情報をつかんで退避していたという。乏しい戦闘機をできるだけ温存したい軍の気持ちは分からぬではないが、すでに市民の眼には彼我の戦力のさは歴然として映り、この時になって米軍に勝てるなどとは誰もが思っていなかった。(p.113-114)


大戦末期の台北への空襲。軍隊が守るものは、まず軍自身であり、次いで(実体としては存在しない)「国家」であり、具体的には政治・経済における有力者たちである。実際問題として「国民」(具体的な個々の人びと)を守るわけではないと理解しておいた方が良い。単に自身や「国家」などを守る反射的効果として人々が守られる「ことがある」という程度である。

現在、集団的自衛権の行使に関する政府の解釈変更が一政権の独断で行われようとしているが、軍事・防衛などに関する問題を考える際、軍事力に幻想を抱きながら考えるべきではない



 時に二人で万華の龍山寺付近に買い出しに行った。……(中略)……。
 寺の前の広場は露天商が思い思いに店を開き、昼間は野菜に肉類、魚類、コメ、雑穀まで売られていた。そして夕方ともなると屋台の肉を焼く煙と香ばしい匂いが一面に覆い、群がる人の胃の腑を刺激し、酒のむ男たちの喧騒が夕空にどよめいた。そしてその広場からほんの少し隔てて似たような建物が並び、その入り口には縁台を出して、形のよい脚を組む支那服の女がちらほらみえた。つまり万華の遊廓街なのである。爆撃に怯える城内や内地人居住地帯とは一変した別世界の光景のように私たちに映った。闇商売は公然と行われていたし、またそれによって人々は息がつけていたのである。勿論内地人も本島人も一緒である。このような情景は本土では考えられぬことである。(p.116-117)


龍山寺は台北でも有名な観光スポットの一つになっており、占い街のようなものがあることなどもよく知られているが、かつては台北城とは別の街であり、本島人たちの居住地区であった。現在もやや怪しげな雰囲気は残っているが、遊廓街だったこともあったというのは、何となく頷けるところがある。台北の歴史を知っていると、このあたりの流れが見えて興味深い。



 昭和18年から20年ごろにかけて、台湾にはインドや東南アジアの各地から研修生がきていた。これは日本政府の大東亜共栄圏構想の一環で、幹部養成のためであったらしい。(p.120)


これはあまり知られていない事実ではなかろうか。



 さて現実の支配者である内地人は、教育社会では不平等な入学競争によって中学以上の学校の大部分を占めた。本島人が進出できたのはかなり後であった。したがって有能な台湾の青年は日本本土で高等教育を受けるために渡航したのである。しかしせっかく高等教育を受けて台湾に帰ってきても、それを受け入れる職場がない。官庁は総督府が最高にあり、各州、各市、各郡にそれぞれ役所があった。当然これらの役所に採用されるべきだが、最下級の部の長である郡守になれたのは日本の統治間に僅か四人であったという。
 昭和18年の台湾総督府の高等官(勅任官、奏任官)は1444人であったが、そのうち台湾人は30人足らずであった。また公立中学校の校長は皆無、小学校1074校中たった5人がそれであった。このような差別があったのである。したがって私の知っている台湾人で内地で教育を受けたもののうち圧倒的に医師が多かった。これは比較的社会的地位の高い開業医として活躍できたからであった。(p.155)


保守系(右派)の日本の台湾統治礼賛論では、こうした点がしっかりと受け止められていない。銘記すべきことである。



 それと同時にというより、それより早く、本島人による露天商が今まで隠匿されていた食料品を山と積んで商いしだしたのである。屋台のビーフン屋や飯屋が各所にたち、人々はその味を楽しんだ。私はビーフンというものを知らなかった。戦争中は売られていなかったのだ。それが突然目の前にあらわれたのである。料理としては焼きビーフンと汁ビーフンがあるが、私は焼きビーフンが好きで焼きそばにも似ていた。(p.157)


「ビーフン(米粉)」が台湾語に由来することは知っていたが、戦争中には売られていなかったことは知らなかった。何故売られていなかったのだろう?



 武力犯行、政治的抵抗、これは過去の統治国と被植民地住民との歴史にはつきものの出来事である。台湾でもそれを経験している。しかし第二次大戦はこれらの動きを呑み込んでしまって一つの戦争目的への流れに入れてしまった。台湾人の戦死者三万数千人、しかし日本政府からも天皇からも謝罪の言葉がない。本当に心から天皇を尊敬していた人もいたのである。(p.173)


台湾の人々が「日本人」として戦争に参加した、ないしはさせられた、という事実はまず最低限銘記されるべきであろう。



 敗戦になって、軍人、官吏、民間人総数70万人の引き揚げが始まった。そのときの模様を鈴木明が台南の新聞「中華日報」に報じられた記事として述べている。
「朝露のまだ去らぬ早朝、一群また一群、さして広くない駅頭はまたたくまに台湾から出発する日僑で騒がしくなった。なかには教師であろうか、窓から頭を出して挨拶している人とひとかたまりの本省人(本島人)が『先生!先生!』といっていた。人として彼ら……日本人……は憎むべきではなかったのだ。汽笛一声彼らは住み慣れた台南から去っていく。彼らのなかには台南生まれの人も多かろう。在住30年、40年という人もあろう。
 しかし彼らは今や去らねばならない。大きな意志によって人生は動かされ、記憶されていく。大きな声で別れを告げる。ハンカチを振る。
 汽車はやがて走りだし、ハンカチを振る姿が小さくなり、やがて見送りの人はプラットホームから去っていった。地下道をくぐるとき『無事に帰るように』といった誰かの声がこだまして人々の耳をうった」
 このような温かい気持ちで送られた植民地支配者たちがいまだかつていただろうか。これは全く稀有のことである。(p.173-174)
日本の植民地統治を美化するつもりはないが、日本の台湾統治が全否定されるべきものではないという点は台湾の人々にも今も受け継がれている。社会的なレベルでは、日本統治時代の歴史的な遺産などを大事に保存している点にもそれは表れているし、個人レベルでも日本語世代の人々も日本に引き揚げていった人たちと連絡を取り合ったりしている人もいる。



 そしてさらに日本統治下では総督府をはじめ行政機関や企業は台湾人を差別し、上級職への登用はきわめて少なかったが、その分下級職には優秀な台湾人が多くいた。これらの人々は当然新政権のポストを期待したはずである。しかしすべての管理職は大陸人で占められ、しかもそれらのほとんどが学識、経験、能力に劣るものたちであったから、台湾人有能者にとってやりきれぬものがあったろう。(p.174-175)


常に外来政権により統治されていた台湾の悲劇。



 国民党側は、台湾人は日本人に教育された奸漢とみていたし、台湾人は日本統治下で体得した法治国家の精神を国民党政権に通ずるという幻想をいだき合法的手段として対応したのが悲劇的結果を招いたといってよい。彼らの描いた祖国には法支配の一片もなかったのである。
 この台湾人に対する鎮圧と称する殺戮は、米国の厳しい批判を浴びた。統治側が野蛮人で被統治側が文明人という欧米人には考えられぬドキュメントをみたからである。(p.176-177)


中華民国の統治がひどかったことが、まだましであった日本統治に郷愁の念を抱かせた、ということはよく言われるところである。



私のいたころの台北市は40万であったのに300万人を超えている。
 かつて2.28事件のとき国民党兵士が台湾人を日奴とよんでいた。その台湾人は今や日奴の奴を誇りにさえ思っているという。政治、経済、社会、科学について日本と同じセンスをもった漢族のグループとして中国人より勝れたものと位置づけているのである。(p.180)


上記の引用文で用いられていた言葉を使って言うと、「野蛮人」が「文明人」の側を「奴」と呼ぶ姿はある意味滑稽にすら映る。その後の台湾を見ると、こうした区別はもはやほとんどなくなっているように見える。私個人の問題として、戦後の台湾の歴史ももう少し詳しく学んでみるべきところに来ているように思う。


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