アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

佳山良正 『台北帝大生 戦中の日々』(その2)

日本アルミは軍需工場であるから軍の監督下にある。例の台湾沖航空戦による被害はほとんどなかったという。そして工場は休日返上で運転されていた。
 港は近いようだが、市内見物といった雰囲気はとてもなさそうである。町全体が軍需集団といった感じで、結局私は木村家で一週間ほど休養して台北に帰ったということで、この旅行は終わったのである。……(中略)……。木村さんは東北帝大の工学部出身で、新設された台北帝大工学部の教授、助教授のなかにも同窓の人が何人かいるらしい。(p.70)


花蓮港(現在の花蓮)に関連する叙述。日本アルミという軍需産業の工場があり、町全体が軍需集団といった感じという。現在も花蓮の観光名所のひとつに松園別館があるが、これも太平洋戦争末期の日本軍に関連する施設だった建物であり、やはり戦争や軍事に関連する都市だったことを偲ばせる。ちなみに、現在の花蓮は「田舎の少し大きめの街」(田舎の県の県庁所在地)といった感じで、美しい浜辺や太魯閣(タロコ)渓谷といった自然の美しい渓谷などが近くにあり、市街地はそれほど大きくはないがある程度のものは揃っているという過ごしやすそうな町というのが私の印象である。

なお、台北帝大の工学部の教授・助教授に東北帝大の卒業者が複数就いているというのは、私にとってはかなり興味深いポイントだった。というのは、台北帝大の理農学部には、北海道帝大の農学部の卒業者がかなりの割合を占めていたことと同様の傾向が見て取れると思われたからである。すなわち、東北帝大は理科大学と農科大学からなり、前者が現在の東北大学、後者が現在の北海道大学の前身であるが、台北帝大の農学関係の学部で北海道帝大=札幌農学校の卒業者が多く、理工系の学部では東北帝大理科大学の卒業者が多かったとすれば、台北帝国大学の成り立ちがどのようなものであったか理解することに繋がるように思われるからである。(もっとも、戦前の日本にはそもそも大学というものが数えるほどしかなかったので、大学の教授となりうる学位を取得できるのもその限られた大学の卒業者にほぼ限られるだろうから、おのずとこのような人の流れができてくる、ということでもあるように思われるが。)

私の台湾と北海道の比較というテーマから見ると、台北帝大は札幌農学校に関する探究と並行して行うべきサブテーマの一つであり、そうした関心から興味が惹かれた叙述だった。



 私は小樽市から台北にやってきた。途中神戸に二回ほど寄ったが、どこでも夫人仲間で呼び合う間では「奥さん」というのは中流の中、上以上というところであったと思う。しかし台湾の日本人社会ではどんな下層的生活をしていても「奥さん」と呼び合っていた。
 これは植民地という環境がそうさせているのだろうか。来た当初はいささか異質なものを感じた。といってべつに軽侮の気持ちはまったくないのだが……。一般の商店、八百屋、魚屋などの女房は「おかみさん」と普通よんでいて、それがごく自然であった。それが台北では一律に「奥さん」である。それと会話のアクセントが広島から九州にかけてのもので、その端はしに方言がのぞいた。しかしおおかたは標準語に近いものであった。(p.72)


台北では生活水準に関わらず「奥さん」が使われており、「内地」とは異なってたというのは興味深い。そもそも日本本土で使い分けがあったというのは、現在とはやや感覚が違う部分もあり、興味深い。しかし、それ以上に興味深いのは、台湾での用法である。「植民地という環境」が影響しているのだとすれば、恐らく以下のようなことではないか。

すなわち、当時の台湾社会においては「日本語を母語とする人々の集団」はマイノリティーであり、かつ、基本的に支配階層に属する社会層を形成していた。その社会の中では「日本人(内地人)」と「台湾人(本島人)」の間には法的および社会的な差別や差異が存在しており、前者が優位に価値づけられていた。そうした価値基準が共有されている中ではどのような生活レベルの日本人であっても、台湾社会の中では上位層に位置づけられているという自己認識を持つこととなり、これが「奥さん」という語を用いる背景となった、ということである。また、「一律に」使われたというのが本島人をも含めてのことであるとすれば、当時の台湾の日本人社会で使われていた表現をそのまま現地の人々が学び取ったということではなかろうか。

また、台湾における日本語のアクセントが広島から九州にかけてのものだったというのは、台湾に移住した人びとがもともと住んでいた地域が関係していると思われる。私自身の経験というか、私が知る台湾の日本語世代の方の日本語も確かに「標準語に近い」ものであったが、アクセントは少し特徴があった。私はあまり九州方面の方言やアクセントは知らないので何とも言えないが、このアクセントの特徴は九州方面のものだったのかもしれない。私としては、従前は母語ではないことの影響、すなわち台湾語なまりのアクセントなのかと思っていたが、そうではない可能性もあることに気づかされた。



このころ台北の映画館では上映開始とともに宮城の写真が大きく映しだされ、天皇・皇后の写真も出て、一同起立して国歌斉唱したのである。今も思うのだが、本島人たちはどんな気持ちであったかである。それが終わって着席、後に二、三本の映画が映写された。入場者の半数近くは本島人である。インテリ層がかなりいるのである。なにか政策の幼稚性を感じたのである。このことについて日本人は見事にしっぺ返しをされた。というのは敗戦となり、中華民国の占領下におかれた時、私は一度だけ映画館に入ったことがあった。そのとき上映開始とともに、蒋介石総統夫妻の写真が大きく映され、耳慣れぬ国家が斉唱され、最敬礼をさせられたのである。(p.79-80)


(第二次大戦前後の)当時の映画というメディアとナショナリズムとの関係は、恐らく研究されているだろうが、確かに興味深いテーマの一つではあるかも知れない。

また、中華民国が台湾に入ってきた時、結局日本と同じことを繰り返している部分があるということは重要な認識であると思われる。本島人にとっては、どちらも「どんな気持であったか」と思う。

また、本島人のインテリ層が映画をよく見ていたというのも、少し興味が惹かれる。



 病室は入口は一つだが、なかは七号と八号室に分けてあって、七号室は本島人、八号室は内地人が占めていた。構造やベッドなどには全く差はなかった。(p.82)


本島人と内地人を分けているのは、差別を助長する面はあっただろうが、母語が違ったり、習慣が違ったりということを考えると、それなりの合理性もあるように思える。



当時は小樽の街も大通りのみが舗装されているだけで、ほとんどががたがたの道であった(p.82-83)


道路の舗装状況というのも、インフラ整備の程度を図るバロメーターの一つとなりそうだ。三線道路があった台北の方が小樽よりも道路インフラの状態は良かったのかもしれない。




スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/937-a22def3c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)