アヴェスターにはこう書いている?
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佳山良正 『台北帝大生 戦中の日々』(その1)

 町並みは煉瓦建てが主で、とくに駅前から商店街の主要地区はほとんどで、ほぼ二階建てか三階建てに統一されていた。一階は店舗になっており、二階以上は住居であるのが普通で、歩道の天井はその住居になっているから、スコールを避けるにも、強い陽射しから逃れるにも非常に便利なものであった。これはテイシキャクと呼ばれていたが、熱帯に住む人々の知恵のなせるものであろう。昭和19年2月ごろは台湾はまだ豊かで、余裕があった。そして当時の台北はおそらく日本で一番美しい都会であったのではないだろうか。(p.13-14)


日本統治時代末期の台北の様子。なお、テイシキャクはもともとは華南が発祥と聞くから、大陸から台湾に入って来たものと思われるが、このように統一的に使うことになったのは、台湾総督府の政策による。



とくに軍事教練は理学部と農学部合同である。というのは前は理農学部といっていた名残りが続いていたらしい。(p.18)


昭和19年現在の台北帝国大学のカリキュラムには軍事教練があったことがわかる。学部の編成のあり方との関連が興味深い。



 そこで気が付いたが事務をとっている男性は全て海軍の将校か学習院の生徒の制服に似たものを着用していることであった。女性は普通の洋服である。これは正に植民地色の最たるものであったろう。官服と称して一般の官庁の役人から高校から小学校に至る教員まで官職につくと、この官服を着用することになる。……(中略)……。
 このように、今考えると笑いたくなるような差別があって、それが植民地では真面目に実行されていたのである。しかしこの官服の着用にあこがれていた人が随分いたのも事実である。とくに本島人のなかに多かった。(p.18-19)
身分の差別を表示する機能もあるが、これに憧れる本島人が多かったというのは、皮肉な感じがする。



これらの先生方と山根、加藤先生もすべて北大出身である。(p.28)


台北帝国大学の教授には北海道帝国大学から多くの人材が登用されたとは聞いていたが、少なくとも農学部に関してはかなりの割合だったようだ。



 大稲埕はほとんど本島人の居住区で西門の城外にあった。当時台湾の人口は660万人で、うち内地人は40万人足らずであったから、わずか6パーセントにすぎなかったのである。だから台北市の場合はその大部分が城内かその周辺に住んでいた。新竹、台中、台南、高雄の諸州や花蓮港などの主要な都市に分散している数もそう多くはなかった。戦時は軍人の比率が高かったが、平時では内地人の約50パーセントが公務員に関係していた。(p.39)


台湾の人口は現在の約1/4くらいだったようだが、日本の人口は戦後4倍にはなっていないことを考えると、戦後の人口の増え方がかなり大きいことが見て取れる。また、当時の世界の人口なども考慮すると台湾の人口は結構多いように思われる。

内地人は少なく、その多くが公務員に関係しているというのは、統治のあり方と関係しており興味深い。なお、おそらく残りの半分は内地資本の大企業に関係する人々ではないかと思われる。



 卒業式が終わった日の夜、大稲埕の江山楼の二階で農学部卒業生の壮行会が開催された。……(中略)……。
 江山楼は由緒ある料亭というところであろうか、その二階の広間で宴がはられたが、台湾料理、つまり福建か広東料理のテーブルを幾つものグループが囲むことになる。農学部長や役職の教授たちのスピーチがあって乾杯。卒業生のほとんどは入隊する。飲む酒は高砂ビール、ウイスキーは台湾産のエスペロ、それに日本酒は内地の「白鹿」と「白鷹」、そして台湾製の「凱旋」と「福禄」である。台湾の地酒というべき「米酒(ビーチュウ)」や「金鶏」はこのような席には出ない。
 ……(中略)……。
 考えてみると昭和19年9月ごろに内地でこのような宴会ができたろうか。また日本帝国の危機を語り、為政者の批判ができたろうか。(p.39-40)


高砂ビールは現在の台湾ビール。金鶏は台湾産の日本酒らしい。酒にはあまり興味はないが、台湾の農業関連産業の状況を知るための素材としては面白そうに思う。

戦争末期に為政者の批判までできるような宴会ができたというのはやや驚き。



 さてサイパン陥落以来、戦局は悪化の一途をたどり、海、空戦力の劣勢から輸送力は著しく減退して原料資材の絶対的不足を招き、軍需生産はもちろん、農業生産までも減退して日本本土の国民生活は日々逼迫していった。これにより、重苦しい敗戦という予想が少しずつ心の隅にしこりのように根付いてきていた。
 農学科のある助手が「これでは日本は駄目だ、一つとして明るい見通しがないではないか。国民一人当たりの摂取カロリーは今や1800カロリーを割っている。これで勝てると思うか」といって私に大声で問う。かなり酔っていた。当時、新聞、ラジオでの報道はわが方に有利なニュースばかりであったが、アッツ島の全滅、ガダルカナルの敗退、そしてサイパンの喪失は隠蔽できるものではなく、なにかしら人々の上に不気味な不安がのしかかっていた。そしてそのころから相手国への敵愾心をあおるために「鬼畜米英」という言葉が使われはじめた。また、ガダルカナル島で米軍が重傷を負って動けぬ日本兵を重戦車で潰殺する残忍性の報道や、美女が日本兵の骨でつくったペーパーナイフを使ってい写真を掲載するなどの幼稚性が新聞にあらわれだして、なにか末期的なものを我々に嗅ぎ出させたものだ。
 それでも懐疑派が厭戦の色をその言葉のはしにのせようものなら、多くの学生は「そんなことは断じて許さん。俺はまだ日本の戦勝を信じている」という者、あるいは「戦勝とまではいかなくとも、少しでも有利な和議にもっていけると信じているよ」という者が多かった。そしてそれらの学生は天皇のためというよりは、郷里の幼い子どもたち、本土の人々のために御楯になろうという気持ちがつよく心を支配していた。(p.40-41)


当時の人々の心理状況や戦況認識を感得させるメディアの報道の在り方などが垣間見えて興味深い。

有名な「鬼畜米英」という言葉は敗戦近くなり、形勢がかなり不利になって来てから使われはじめたという点に注目したい。少しでも強く人々を動員したいという支配者側の意向が何かしら反映しているのか?それとも情報を持っている支配層の人間にとって、負けることが見えてきたことに関する悔しさから戦争相手国への反感が募っていったことの反映なのか?いずれにせよ、逆境だったからこそ出てきた言葉だったらしいということがわかっただけでもこの言葉への認識が深まった気がする。


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