アヴェスターにはこう書いている?
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島田昌和 『渋沢栄一 社会企業家の先駆者』

 馬越本人は、その後、三井物産の関係から1891年より日本麦酒会社の経営立て直しに参画し、合理化策を徹底する一方、販路拡張に努め、たった一年で黒字転換を成し遂げた(『サッポロビール120年史』)。三井物産社内にあっては1892年に三井物産会社の専務役員、1893年には三井物産合名会社の常務理事と順調な出世を遂げている。しかしながら1896年には三井の枠を越えたビジネスを求めて三井物産を辞職した(大塚栄三『馬越恭平翁伝』)。(p.94)


馬越恭平が三井物産から日本麦酒会社に送り込まれ、上記のように黒字転換を成し遂げたということを、私は数年前にサッポロビール博物館の展示で知った。三井物産と日本麦酒会社(現・サッポロビール)との当時の関係がいかなるものであったのか、また、馬越が日本麦酒会社の経営を立て直す際に三井物産の持つネットワークや資金などが何らかの役割を果たしたのか、といったことが疑問として残っている。



 もう一つのタイプが、社会の専務取締役や支配人などに就任した渋沢の経営上の代理人とも言うべき役割を担ったメンバーである。その代表格の一人は植村澄三郎(1862~1941)である。北海道炭礦鉄道を皮切りに札幌麦酒、十勝開墾などの各会社を任されていく。植村が大きく認められるきっかけとなったのが札幌麦酒会社であり、同社は、北海道開拓使の麦酒醸造所の払い下げを受けて1887(明治20)年、渋沢、浅野、大倉らによって発足した。実際に北海道という現地で指揮を執る責任者を探していた渋沢や大倉の眼に留まったのが北海道炭礦鉄道の監査役であった植村で、1894年に専務取締役として加わった。
 植村は実質的な社長として手腕を存分に発揮し、外国人技術者から自前の日本人技術者への切り替え、東京(本所区吾妻橋、現・墨田区)に分工場建設計画の決定をして1903年から出荷を開始した。そして1905年には製造量でビール業界のトップにつくというめざましい成果を発揮した。その後、札幌麦酒は大日本麦酒と合併し、馬越社長・植村常務取締役という体制を24年間続けていくことになっていった。(p.94-95)


植村という人はこれまで知らなかったが、北海道開拓という文脈から見ると非常に重要な会社に継続的にかかわっていた人であるようだ。今後、注目してみたい。



 1908~09年にかけて「申酉事件」と呼ばれる大学昇格の挫折事件が起こった。東京高等商業学校側は独立の商科大学の設置を望んだが、文部省は東京帝国大学法科大学内に商業学科を増設する考えを推進し、東京高等商業学校専攻部の廃止を決めた。このためこれに反対する学生が総退学を表明するという事件であった(三好信浩)。
 ……(中略)……。その後も断続的に商科大学構想は東京帝大との合併を軸に提起され、文部省はあくまで帝大側に合併させる基本線を譲らず、膠着状態となった。このような苦難の末にようやく1920年に単科大学の設置を求めた大学令の実施により、「東京商科大学」への昇格を果たしたのであった(『一橋大学百年史』)。(p.167-168)


1920年というのは、日本の大学の歴史においては一つの節目となる年であるように思われる。同じ年に旧制大学が続々と設立されているからである。(慶応、早稲田、明治、中央、法政、同志社など。)


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