アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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まどか出版 編 『日本人、台湾を拓く。 許文龍氏と胸像の物語』(その2)

 札幌農学校で教授としての稲造は、知識の伝達もさることながら、人格の養成に重きをおいていた。知識は地域により時代により異なれど、人格が磨かれていれば人間はどこでも通用する。それが国際人・新渡戸稲造の思いだったろう。(p.64)


「人格が磨かれていれば人間はどこでも通用する」というのは、なるほどと思わされたフレーズ。単に記憶する知識ではなく、人が行動や判断する際に尺度として働くような類の知識を身につけることなどは、教育によって人格を磨く際に有用なものではないか、と思われる。

これこれの場合には、どのように振る舞わなければならないか、ということを教えても、そのように振る舞えるようになるわけではない。道徳の教科化などということが昨今言われ始めているが、この流れで行くと、この手の「教育」が施されそうで非常に有害であると考える。「愛国心を持て」という類の「教育」は、この類の教えの最悪の類型に属すると考えられる。

(政治指導者などが自国の人々に「愛国心」を持ってほしいのならば、そのようなことを教えようとするのではなく、誰もが好きにならざるを得ないほど素晴らしい国を創っていけばよいだけの話であり、殊更に「愛国心」などということを教えようとする必要はないはずだろう。むしろ、「愛国心」を持ってほしいとしてこれを強制しようとする人々がいる場合、彼らが欲している「国」は、多くの人にとってかなり性質の悪いものであり、それを取り繕うために人々を洗脳したい、ということに過ぎないと思われる。)

個人的には、例えば、マックス・ウェーバーのWertfreiheitという考え方を初めて知り、その考え方を習得していくプロセスで、ものの見方や振る舞い方などが変わったという経験がある。たとえ、その後、この考え方を批判することがあっても(現に今の私にとっては、この考え方にも批判すべき点はある)、そうした「知識」を身につけるプロセスの中で学び取ったことは無駄になるわけではない。



『道路ノ両側ニ設ケタル溝渠ニハ覆蓋ヲ用イルコトナク解放シアリテ停留セル水ハ腐敗シ汚物ハ悉ク沈殿セリ叉総シテ汚穢物ハ淡水川ノ辺ニ積ミ或ハ堀ノ付近ニ堆積スル等ノ状況ナルヲ以テ悪臭ヲ発散スルコト実に甚シ
 それでも二人は、『台北市ハ衛生工学上ヨリ論スルトキハ最モ不健康ノ土地タルヲ免レスト雖モ(略)予想ヨリモ比較的甚シカラサルノ感アリ』と感じた。ところでこの観察は城内と大稲埕に関するもので、艋舺に一歩足を踏み入れるや、楽観は消し飛んだ。
『上記ノ記事ヲ終ヘタル後ニ至リテ予等艋舺ヲ巡検シタルニ城内並大稲埕ノ方面トハ全ク異リ同地ノ全部ハ尤モ狭隘ニシテ且非常ニ不潔ナルコトヲ目撃シタリ』
 よほど衝撃を受けたのだろう。二人はさらに『最モ劣等ノ市街ニシテ同地ノ住民ニ付テハ最モ憫ムヘキモノアリ』と書き進み、コレラ等の巣窟となると指摘し、『台北市ヲ健康無病ノ地ト為サント欲セハ艋舺を現時ノ侭存置スルニ於テハ到底之ヲ為スコトヲ得サルヘシ』と断ずる。(p.90)


引用文中の二人とはお雇い外国人・バルトンとその助手・浜野弥四郎である。

明治29年(1896年)頃の台北の衛生状態がどのようなものだったかわかり興味深いのでメモしておく。



 衛生工学は人間のためのものだ。日本人のためだけ、清国人のためだけにあるのではない。どこに住んでいても人間が健康に暮らせるようにする、それが衛生工学の基本ではないか。そう思えば衛生工学に国境はないはずだ。限られた特権階級だけが健康に暮らし、大多数の人々が悲惨な環境にあまんずるような社会では衛生工学は必要とされない。だから元来衛生工学は、反権力的な特性を備えている。換言すると極めて広い社会性を持つと言える。イギリスでも多くの人びとが社会の改善のために戦っている。日本でも台湾でもそのような戦いは必要ではないか。(p.96)


反権力的というより、民主的ないし平等主義的な特性と言うべきかと思われる。衛生工学には国境はないというのは名言だが、そもそもあらゆる学問には国境はあるべきではない、のではないか。しかし、現実には学問や教育が国境を区切り、国境のこちら側とあちら側との争いを助長するということが現にあるし、これからもそれがなされようとしている。そうしたことに鈍感でありたくないと思う。



 当初、烏山頭出張所は山深い森林の中にあった。この時代、大幅な改善がなされていたとはいえ、台湾には疫病が多く、亜熱帯特有の風土病も蔓延していた。そのため、当初は工員のための宿舎だけが設けられ、その家族を住ませることは考慮されていなかった。
 しかし、八田は妻帯者はできるだけ家族とともに暮らすよう指示したという。これは家族とともに暮らすことで、工員は心置きなく職務に専念できるという理由からだった。そして、宿舎の改善だけでなく、集落の整備も進められるようになった。
 職員の宿舎付近には学校や診療所、公共浴場、売店などが設けられ、生活機能が考慮された集落ができ上がっていく。また、福利厚生についても配慮がなされ、テニスコートや弓道場があったほか、定期的に芝居一座を呼んだり、映画上映が行なわれたりしたという。
 ……(中略)……。
 医療面については、当時、最も恐れられていたマラリアについての対策が練られていた。……(中略)……。
 こういったエピソードから「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」という八田の思いが感じられる。工事は人間が行なうものであり、機械が行なうものではない。それがゆえ、人間を大切にすることは工事を成功に導く。これは八田技師が抱いていた「信念」であると言えるのかもしれない。(p.172-173)


働く人を大切にすることで仕事がうまくいくという考え方は、確かにそうだろうと思う。

また、労働者が家族ぐるみで官舎に住み、その周辺に生活のための(娯楽施設を含む)あらゆる施設が整えられていたというあたりは、炭鉱があった町(具体的には北海道の夕張や三笠など、空知地方の炭鉱都市)と似ているのではないか?私の研究テーマの一つとして、これらの町と台湾の金鉱があった町(九份や金瓜石)との類似や相違などを調べたいと思っているのだが、八田與一がかかわった烏山頭ダムの建設も比較対象として浮上してきたことになる。

なお、炭鉱の町と共通であるとすれば、烏山頭ダムの建設現場も、ここで書かれているほど理想的なものではなかった可能性が浮き上がってくる可能性がある。



 戦後、いつの間にか海芋の名所として知られるようになった竹子湖だが、花を愛でる人々の多くは、この地が台湾の特産米揺籃の地ということは知る由もないであろう。日本時代、この竹子湖の地において、戦中戦後の台湾のみならず、アジアの人々をも潤した「蓬莱米」が産声を上げたのである。(p.199)


竹子湖は現在、陽明山国家公園に含まれているが、是非行ってみたくなった。3~4月頃に「海芋季」(カラー祭り)というのがあるらしいので、その時期に是非行ってみたい。(海芋はカラーフラワーという花のこと)



 本格的な在来米の改良が着手されたのは1906(明治39)年であった。それまでの時期、米の増産は進んでも、品種改良に大きな進展は見られなかったのだが、日露戦争による農村の労働力不足と戦後も続く不況で日本内地の米不足が決定的となったことは、それまで奨励事業に注入してきた経費や労力の大部分を品種改良にシフトさせざるを得なかった。日本内地の市場でも受け入れられる品質の台湾産米を作り出すことに、もはや一刻の猶予もなくなったのである。

 品種改良は台湾南部の阿緱庁(現在の屏東県屏東市)農会で始まったことを嚆矢とする。まず解決しなければならない目下の課題は赤米の根絶にありと考えた阿緱庁庶務課長の武藤針五郎氏が、佐々木基庁長の賛同を得て、総督府へ補助を申請したことに端を発する。この改良事業には地元の農会、つまり日本でいう農協が主体となって行われたことに注目したい。1900年代前半に各地で設立された農会は、地方の庁と密接に連携し、さまざまな事業を行う、いわば役所と農民を結ぶ窓口であり、政府の下請け機関としての役割を担っていた。(p.205-206)


明治末期に(最大の産業が漁業から農業になったことに象徴されるように)北海道でも農業がかなり盛んになっていったようであるが、日露戦争による供給力不足という同じ要因が作用しているのかもしれない。

台湾における農会の位置づけも当時の台湾社会を考える際には重要な点の一つではないかと思われるのでメモしておく。



 一部の資料では、台中65号の別称が蓬莱米、すなわち台中65号イコール蓬莱米と記述されているものがあるが、それは誤りである。蓬莱米とは、台湾で栽培に成功した内地米の総称であり、どれか一品種を指す名称ではない
 蓬莱米の命名は1925(大正14)年、台中65号の完成はその4年後、1929(昭和4)年のことである。(p.231)


私もどこかの資料で読んで誤解していた。



 正門から総合図書館まで続くヤシの並木道は台湾大学のシンボルでもある。基本的な配置は台北帝大の時代から大きく変わっていない。合計すると台湾の国土の1パーセントを占めるという広大なキャンパスを持つ台湾大学だが、林立する校舎群を抜けると、キャンパスの片隅に喧騒とは全く無縁の農業試験場が姿を現す。台北市内とは思えないようなのどかな光景だが、農場の向こう側に見えるのは台北101ビル、まぐれもない首都台北の真ん中である。
 この農場の片隅に、学生たちが「磯小屋」と呼ぶ建物がある。建てられたのは1925(大正14)年というから築80年以上、台湾大学の建築物の中では最も古いものだ。台湾大学の前身、台北帝大が創立した1928(昭和3)年より以前に建てられたことになる。実はこの建物は1922(大正11)年に創立された台北高等農林学校の校舎として使われており、台北帝大の創立と同時に編入されたために、現在でも台湾大学の一部として使われているのだという。この建物を調査した研究者は、米軍によって撮影された航空写真と、台大に残されていた校舎の平面図を一枚一枚すりあわせて建築年代を特定したという。
 ……(中略)……。

 2012(平成24)年3月、この「磯小屋」に磯と末永の胸像が置かれ、お披露目された。磯小屋は老朽化が進み、数年前にこの磯小屋の中にある書類棚から磯の手書きによる貴重な原稿が発見されるなど、内部の整理も不十分だったが、胸像の設置とともに整備が進められた。
 2012年現在では、曜日限定ながら一般公開も始まっており、大学側も磯と末永の功績を広めたい考えだ。(p.232-234)
台湾大学のキャンパスは数年前に友人(台湾大学卒)に案内してもらったことがあるが、2012年より前だったため、ここは見学できていない。台北101が見える広い農場のようなところがあったという記憶はあるので、恐らくその近くにあるのだろう。

次回、台湾に行くときには、時間が許せば台湾大学を再訪し、磯小屋も是非見学してきたい。

公式サイトはこちら。これによると現在は水土日が見学可能。



 磯や末永がその生涯のほとんどを掛けたといってもよい蓬莱米は、現在でも台湾の日常生活に生きている。台湾の国民的ビールとして親しまれているのが「台湾ビール」だが、この台湾ビールは日台のつながりを秘めているのだ。
 一つは、台湾ビールの前身が日本統治下の1919(大正8)年に設立された高砂麦酒株式会社だということ。もう一つは、ビールのラベルを注意して見ていただきたい。原材料の欄に「蓬莱米」と小さな字で記載されているはずだ。ビールの原材料に米を混ぜることは珍しいことではないが、わざわざ「蓬莱米」と記載しているところにこだわりを感じてしまう。(p.239-240)


いずれの点も興味深い。



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