アヴェスターにはこう書いている?
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まどか出版 編 『日本人、台湾を拓く。 許文龍氏と胸像の物語』(その1)

大正12(1923)年に、日本初の環境型地下ダムを造った鳥居信平の取材は、実は許文龍氏からいただいた言葉がひとつのきっかけになった。それは「台湾のことを深く識りたいなら、水のことを勉強するといい」というものである。
 工業化が進んだとはいえ、今も台湾社会の屋台骨は農業であるから、農民たちが営々とつないできた水の絆をたぐれば、自ずから台湾と日本両国の関係や水に対する人々の心情がわかるだろうというアドバイスだった。(p.20)


確かに、引用文で触れられているようなダムのほかにも、茶業、製糖業、パイナップル(缶詰)など、農業と結びついた産業は特に歴史的に台湾を見る時に極めて重要な意味をもっている。



フランスは、あわよくば台湾を掠め取ろうと狙っていた。
 すでにフランスは清国の属領だったベトナムを植民地化するために清仏戦争(1884~85年)を強行している。軍隊を台湾の基隆に上陸させ、台湾海峡を封鎖して清に全面戦争を仕掛けた。イギリスの調停で天津条約が結ばれ、ベトナムの宗主権はフランスの手に落ちた。
 この敗北を機に清は、台湾の戦略的重要性に気づき、台湾住民を「化外の民(教化の及ばない地域の人々)」と突き放す方針を改め、台湾を省に格上げして近代的な統治に着手する。が、日清戦争の結果、台湾は日本に割譲された。フランスは台北に領事館を置き、海峡を隔てた対岸の福州には造船所も開いた。喉から手が出るほど台湾をほしがっていた。
 日本国内では難航する統治と財政負担の増大から「台湾を一億円でフランスに」との売却論が高まった。しかし政府は、せっかく手に入れた植民地を他国に売ろうなどと考えてもいなかった。まして「北守南進」を唱える軍部には妄言としか響かなかった。「北」は三国干渉で遼東半島を還付させられ、朝鮮でもロシアの勢力が強まって軍部は動けず、守りを固めるのみ。逆に「南」は台湾を「図南の飛石」として対岸の福州から華南を勢力圏に入れる南進策が桂太郎らによって立案されていた。(p.24-25)


日本が台湾を植民地化した頃、フランスも台湾の領有を狙っていたという点は、日本における台湾論では、日本と台湾との直接の関係ばかりがクローズアップされる傾向があるため、あまり重要視されていないように思われるが、当時の世界情勢の中で日本の台湾植民地化を位置づける必要があるとすれば、やはり西洋列強や清国とその属国などの動向全体に目配りが必要であるように思われる。



政党を指導する原は、本国と台湾は同じ制度にすべきと譲らなかった。その根底には民衆の支持を基盤とする政党政治家の「平等主義」が横たわっている。条約改正で諸外国に対して平等な待遇と自由を求めるからは、植民地にも同じ論理を適用しなければ筋が通らないと考えたようだ。
 かたや新平は、台湾は日本の国際的地位を向上させ、経済発展を遂げるための一部とみている。
 現地の実情に沿って一日も早く「科学的施設、文明の利器」で民心をひきつけねばならない。人々の物理的環境が良くならなければ近代的な未来は開けない、と確信していた。
 「しくみ」から統治を考える原と、「物理」から入る新平の違いは興味深い。
 ……(中略)……。
 やや先回りをしていえば、新平の特別統治で台湾に文明の利器が持ち込まれ、民族自決主義に目覚めた台湾人は日本本土と同等の権利を求めるようになる。原が政権をとると、台湾総督を武官から文官に交代させ、内地延長の同化主義に転換する。(p.28-29)


原敬と後藤新平の考え方の対比は確かに興味深い。台湾総督が武官から文官に変わったという点は台湾の歴史を語る際、よく出てくる話題だが、その背後に原敬がいたという点は押さえておきたい。



 日干しレンガで造った台湾独特の赤茶けた家々の間に、木造の擬洋風建物の影がちらりと見える。
 擬洋風とは、明治の初め、欧米建築に近づきたい大工の棟梁たちが見よう見真似でこしらえた和洋折衷の建築様式だ。唐破風の軒にキューピッドが飛ぶ信州松本の「開智小学校」がその典型だが、台北では手の込んだ建物はないものの、資金も建築資材も限られたなかで本国の風を取り込もうとする日本人街が少しずつ拡がっていた。(p.31)


児玉源太郎と後藤新平が台湾に赴任した明治31年頃の叙述。台北で今も擬洋風の建築で残っているものはあるのだろうか?あるのなら見てみたいところだが。



 新平がスカウトした面々は、行政の専門家集団を形成し、台湾からやがて満州、逓信省、外務省、内務省、東京市、関東大震災後の帝都復興院へと新平が活躍の場を拡げるに伴って移動する
 中村是公は、満鉄総裁から鉄道院総裁、東京市長と新平が辿ったコースを後ろから追いかける。藩閥の圏外にある新平が、政官界の荒波をかき分けて進むには、このような自前の人材ネットワークの構築が不可欠であった。(p.35-36)


後藤新平が彼が築いた人材ネットワークと共に移動したというのは興味深い。西澤泰彦の植民地建築に関する研究でも、官庁の建築家たちが台湾から他の植民地へと移っていったことが示されていることとも符合すると思われる。



 バルトンの基礎調査は新平の台湾赴任を待って実を結んだ。新平はバルトンに「きみの報告書に従って衛生工事と市区改正にとりかかる」と伝えた。都市建設の審議機関を組織し、台北の「市区計画」が策定される。本国政府の関与を受けない特別統治だけに法的処理は迅速だった。
 1899(明治32)年4月、「台湾下水規則」が制定され、日本領内で初めて下水道と都市計画の関係が制度的に明文化される。本国で「下水道法」が成立する一年も前のことだった。以後、台北の下水道は、帝都東京に先んじて整えられていく。
 翌1900年には「台湾家屋建築規則」という都市建設の公的ルールが制定された。
 家を建てる際、雨の多い気候に配慮して道路沿いの商店や家は一階部分に「庇のついた歩道」(亭仔脚)を通し、道路に面さない家屋は周囲に12尺以上の空地と幅六尺以上の道を設ける、と定められる。(p.47-48)


下水道のほか、鉄筋コンクリートの建築なども本国より早く普及していったことなどの背景の一つとして、本国の関与を受けない特別統治であったことが挙げられるというのは、なるほどと思わされた。



 さらに城壁の跡は、そのまま三車線の広い道路に変える。壊して建てるスクラップ・アンド・ビルドではなく、既存のモノを活かす、本来的な意味での都市再生に近い。資金的制約からの苦肉の策とはいえ、長尾ら土木技術者のセンスが光る。(p.50)


台北の「三線道路」ができる背景には、資金的制約もあったというのは興味深い。



 製糖産業と土地のバランスに決定的な影響を与えたのが「原料採取区域制度」だった。
 これは「原料採取区域」内の農民が耕作したサトウキビを製糖会社が指し値で買い取れる制度である。製糖会社にはサトウキビの独占的買い取り権が与えられたのだ。それが呼び水となって、新興製糖、塩水港製糖、明治製糖、大日本製糖、帝国製糖と本土資本が続々と進出してくる。製糖工場が南部から中部、北部、東部へと各地に建設されるにつれ、「原料採取区域」はアメーバ―のように増殖し、全島のサトウキビ適作地域を覆いつくす。
 とうとう伝統的な赤糖工場は新設を禁止され、機械設備を一部改良して操業していた工場も新式の製糖工場に呑みこまれる。原料採取区域の拡大は、土地を奪われ、安い値でサトウキビを買い叩かれる農民に恨みを植えつけた。ここから台湾の農民運動が芽生え、内地延長主義で本国並みの待遇を求める民族運動へとつながっていくのである。(p.57)


かなり強権的に製糖工場の進出が誘導されたようである。

現地の住民の犠牲があったこと、それが待遇改善を求める運動へとつながっていったという点も押さえておきたい。


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