アヴェスターにはこう書いている?
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(株)ぶらんとマガジン社 編著 『我が青春の街角へ 小樽昭和ノスタルジー』

 於古発川(おこばちがわ)と色内川に挟まれた小樽の中心街、稲穂地区は、もともと旧幕臣の榎本武揚が開発した土地だが、手宮地区は明治初年、石川県出身の能島繁蔵が開拓使の要請を受けて開いた土地である。
 現在の住所でいう「手宮」……(中略)……。港に面したこの界隈は昔は手宮町(表町)と呼ばれた。
 一方、内陸にある現在の錦町、豊川町、末広町、梅ヶ枝町、清水町、石山町などは手宮裡町と呼ばれる能島繁蔵所有の土地で、当初はリンゴ園を作る計画だったが害虫被害によって全滅、やむなく宅地開発に乗り出した経緯がある。
 能島はまず土地をならし、小樽と手宮の間を阻む石山を切り崩して道路を造り、所有の山から湧き水を引いて銭湯(小樽最初の銭湯)や魚屋に供給。これが小樽で初の上水道となった。(p.54)


幾つかの本で小樽の歴史を紐解いてみたが、かつてのオタルナイ場所(小樽郡)に相当する地域での出来事の記録が主に続き、タカシマ場所(高島郡)やヲショロ場所(忍路郡)での出来事などはあまりわからない。さらに言えば、東側の旧朝里村や現在の銭函周辺などの歴史については、幾つかエピソード的な事実が表れるほかはほとんど何の記述もない。

手宮裡町という地名は今までも何度か目にしたことはあったが、どの地域を指すのか分からないことが多かった。本書の記述で範囲がかなりはっきりわかった。また、リンゴ園は札幌の郊外でかなりつくられていたようだが、小樽でも計画されていたことがわかり興味深い。なお、宅地開発された後、どのような人々が住んでいたか、という点については、港湾関係の労働者が多かったのではないかと推測している。例えば、錦町にも古い餅屋があるが、小樽の餅屋は港湾労働者たちのエネルギー補給に資するものだったという趣旨のことがしばしば語られていることなどとも整合的であると思う。



 残念なことに、太平洋戦争中に爆撃の目標になるという理由で、昭和19年に壊されてしまったが、その遺構の一部である赤レンガの壁は手宮公園の崖に今も残されており、平成13年には、旧手宮駅周辺に残る機関車庫などの鉄道施設とともに、重要文化財の指定も受けている。(p.67)


手宮にあった高架桟橋に関する記述。壊された理由が戦争に関連することは知らなかった。木造だったというから、確かに攻撃を受けたらひとたまりもないだろう。しかし、その後の石炭の積み出しはどのように行ったのだろう?



 北海道開拓の玄関口であった小樽は、道内で収穫された上質な小豆などの集散地だったため、菓子文化の発展に好条件だったこと、明治13年の鉄道開通により、菓子の販路が全道に広がったことなどから独自の菓子文化が栄えた。(p.188)


小樽には古い和菓子屋が多いことの背景。小豆などの集散地となったことの背景も、ひとつ前のエントリーで既に述べたとおり、やはり鉄道(根室本線の延伸により十勝地方と連結されたこと)にある。また、鉄道によって内陸への販路が広がっていたという点も、(ひとつ前のエントリーで触れているが)旭川とも明治31年にはすでに結ばれていることが指摘できる。

鉄道により北海道の内陸部とリンクし、港により本州と南樺太とリンクする土地であったことが、大正期前後の小樽の繁栄の背景にある。


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