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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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稲葉振一郎・立岩真也 『所有と国家のゆくえ』(その2)

本書では、なんであれ最終的な帰責主体として国家を設定するのは、かえって国家の神秘化をもたらすことにもなるから、やめておいた方がよいと述べたにとどまる。(p.52-53)



同感である。

私の場合、メインブログ「ツァラトゥストラはこう言っている?」の方では政権批判を積極的に行っているのだが、同時に、この点を忘れないようにしなければいけないとはいつも思っている。ただ、それをメインブログの方に書いて自説をその場で相対化してしまうと、なかなか読み手には理解されにくくなってしまうのが苦労するところ。したがって、重要な論点でもそれを明示せずに書かなければいけないときがある。あるいは文才があればある程度までもっと書けるのかも知れないが、そうはいかないという現状がある。

それを続けていくと、下手をするとこうした点を忘れてしまったり、注意が足りなくなったりしはしないか、と自分なりに懸念はもっていたりする。

「官僚・行政が無駄なことばかりをして、自分たちの払っている税金を無駄遣いしている」という感覚が日本では広く共有されており(不正がないとは言わないが、諸外国の政府と比較してそう言えるとは到底思えない。そもそも人口の割の公務員の数は半分くらいだし、歳出規模も国民負担率もメチャクチャ低いのだから、そうした感覚は事実誤認に基づいているのだが)、そうした反感(ressentiment)をもとに、やや感情的な行政批判をする人が結構いる。

例えば、少し古い言葉だが、「親方日の丸」という言葉を使う人がいるが、私に言わせれば、そうしたことを言う人たちの方が、行政に依存する心理が強い。官僚や行政をかばおうと思わないとしても、「親方日の丸に依存してるのはお前の方じゃねぇか」と醒めた感覚で横槍を入れたくなる。

立岩が神秘化と言っているのも、不可謬で完全無欠なものとしての「国家」を設定すると、その主体に対しての責任を問いやすくなるから、何かあったときに「国家」の責任にするということが行われやすくなり、それが簡単にできると、何かにつけて「国家」が責任の最終的な主体とされることになり、その暗黙の、そして多くの場合明確に自覚されない前提としての「不可謬絶対の国家」が要請されることに関連していると思う。

つまり、立岩の言い方が十分に妥当かどうかはやや疑問だが、基本的に国家の神秘化と絶対不可謬性の要請は結びついており、また、そのように前提すると「国家」を帰責の最終的主体にしやすくなるのは確かであり、これらは相互的に強めあうだろう




自然な市場とそれを制約する国家という図式は間違っている。市場のあり方は、それがどんなものであれ、すでに規則によって規定されている。問題はどんな規則を設定するかであり、その手間・手続きの煩雑さについて、今ある規則より別の規則の方がより大きいとあらかじめ決め手かかることはない。(p.54)



「自然な市場」というのはあまり使わない言葉だと思うが、「自由な市場」とか「自由競争」と言った方が一般的だろう。規制緩和や「官から民へ」ということをやっても、やらなくても、どちらにも規則はある。それが少なければいいとは一概には言えないのだが、これらのことをしたら規則が少なくなると思う人は多いだろう。しかし、合法的に採用しうる手段が増えるならば、それは同時に規則の複雑化でもありうる。ここでも世の中は短絡的に発想する人が多い。規則は実定法だけではないのだ。



稲葉

労働力はみんなではないにしても、非常に多くの人、だいたいの人がもってるという話しをして、そこを踏みとどまるべき「立つ瀬」にしよう、というさえない話なんですよ。・・・(中略)・・・。それだけは奪われない、なくしえない、最後まで残る「財産」として。(p.79)



観念的な頭の中だけでの理論としてはこういう構成でも、それなりに成立ちうるだろうが、実践的にはこれは現状ではうまく行かないだろう。相対的に権力の強い側がネオリベ・ネオコンの路線で物事を進め、次々と「財産」を人々から剥ぎ取り、また、減価させているときに、こんな流暢なことを言っていては最後まで残るものも残らなくなる危険がある。

実際、「市場原理主義者ではない」と自称する市場原理主義者・竹中平蔵のような輩でも、こうした考えは持っているだろう。ネオリベのような「単純バカ」向けのロジックでは、こうした最後の砦を設定することはできず、確実に軽視されることになる。ましてや最後の砦に追い込まれる人と政策決定する人が別々の人であればなおさらである。

社会科学者として少しでも良い社会を目指そうとするなら、こうした発想からは抜け出すほうが良いだろう。
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