アヴェスターにはこう書いている?
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『カイ Vol.20 特集 あの小樽に、この室蘭』
「港まち二都物語」より

高架桟橋は、石炭積み出し港の近代設備として、1911(明治44)年から30年余りにわたり活躍。……(中略)……。延長313m、高さ20m、幅23mという巨大施設だったが、なんと丸太組みの木製というから驚きだ。(p.13)


幌内鉄道の旧手宮線の始点となる手宮の岸壁に高架桟橋があったということは知っていたが、木造だったとは知らなかった。鉄道が走る大きな施設だから、漠然と鉄製のイメージがあったが、鉄で造るには少し時代が早すぎるかもしれない。



「オタルナイ」と呼ばれたその集落が、幕府から「村並み」(和人地内の村に準ずる扱い)とされたのは、1865(元治2)年。理由はニシンの大豊漁地となったためで、安政期には200軒ほどが定住する。当時、道南の和人地以外で同じ村並みに昇格したのはオシャマンベのみ。(p.13)


小樽が元治2年に村並みとなったということは、しばしば北海道や小樽の歴史に関する本を読むと出てくるが、長万部(おしゃまんべ)も同時期に村並みに昇格していたとは知らなかった。逆に、長万部はどのような理由で村並みに昇格したのだろう?というのが気になる。



また、国指定史跡「手宮洞窟」は、続縄文時代、北東アジアと交流があったことを示している。(p.14)


この点はもっと人に知らせると、興味を持つ人も増えるのではないか、と思う。



1892(明治25)年、ようやく室蘭-岩見沢間に鉄道が開通し、室蘭港は小樽に並ぶ石炭積み出し港として繁栄。(p.15)


室蘭は北海道の産業の歴史を見ていく際、特に重要な都市の一つであるように思う。

私の場合、まずは小樽、札幌、函館を中心に見てきた経緯があるが、港町で言えば室蘭、苫小牧、釧路については、少し詳しく知る必要があると感じている。余談だが、私にとって室蘭の重要性を認識するきっかけとなったのは、数年前に夕張に行った際、幌内(三笠市)の石炭は小樽から運び出されていたが、夕張の石炭は室蘭から運び出されていたという話を立ち寄った店のおばちゃんがしてくれたことだった。いろいろと足を運び、様々な土地の人と話をしていくことはやはり重要だと改めて思い直す今日この頃だったりする。



そんな折、1912(明治45)年に夕張鉱で2度にわたる大事故が起き、経営難に陥った北炭を、翌1913(大正2)年、本州の三井財閥が系列下に収める。これを足掛かりに、三井は日露戦争で獲得した新たな領土・南樺太へと進出。その中継港として発展したのが、小樽港だったのだ。(p.16)


三井財閥の南樺太進出との関連はもう少し詳しく知りたい問題。



「絵画が生れる場所」より

 小さな漁村だった小樽の針路を変えたのは、石炭と鉄道だ。……(中略)……。
 明治20年代には全道で内陸部への入植がはじまり、開拓が本格的に進んだ。移民団や物資の多くは小樽港から入る。このまちは、開拓の兵站基地となっていった。
 ……(中略)……。日本経済は日清戦争の勝利(1895年)で得た莫大な賠償金で金本位制を確立して、世界経済と結ばれた。日清戦争によって日本の資本主義経済はテイクオフを遂げたのだ。小樽には、府県の商社や銀行の支店が競うように開設されていく。1898(明治31)年、小樽と旭川は鉄路で結ばれ、翌年に小樽は、国際貿易港の指定を受けている。
 さらに重要なエポックとなったのが、日露戦争の勝利だ(1905年)。日本は北緯50度以南の樺太を領土に得て、一帯の漁業権も手に入れる。……(中略)……日本にとって、いよいよ本格的な樺太開拓がはじまる。小樽港は、南樺太の生産の消費に関わる膨大な物資の集散基地となった。……(中略)……。
 1907(明治40)年、内陸物流の最大の難所だった狩勝峠を鉄路が越えた。これにより釧路、帯広と小樽が鉄道で結ばれ、小樽商人たちが道東をも商圏に組み入れる。第一次大戦がもたらす空前の豆景気も、この根室本線延伸のたまものだ。北海道の雑穀取引の中心が小樽一極となっていく。(p.53)



明治の小樽の歴史を主に物流と経済の面から適切かつ簡潔にまとめている箇所と思う。明治20年代には北海道の内陸「開拓の兵站基地」となる。日清戦争後、明治30年前後になると金融システムが整い、旭川(内陸)との流通インフラ(鉄道)も整備され、国際貿易港として外へと道が開かれる。日露戦争後、明治40年頃には南樺太開拓の物資集散基地となる。ほぼ同時期に道東との流通インフラ(鉄道)も繋がっているのは、十勝の小豆など食糧を小樽を経由して大消費地である南樺太に向けて送り出すためではなかろうか。

また、第一次大戦期に「空前の豆景気」があったとされる。これは大戦により東欧の豆の生産地が戦場になったため生産が激減し、ヨーロッパで食糧不足が起こったため、小樽商人が十勝の豆を大量に売りつけることができたための好況である。これを背景として豆の投機売りによりロンドンの豆市場に大きな影響を与えた(高橋直治という商人が儲けた)というエピソードが生れたわけである。

この記事により、第一次大戦の豆景気に道東との鉄道の連結という背景があることがわかったことが私としては収穫だった。



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