アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

津守真、津守房江 監修 『子どもの生活 遊びのせかい 4歳までの成長と発達/親子でたのしく暮らす工夫』

 遊びを探しているうちに、子どもは思うようにいかない相手やおもちゃに怒り出すときもあるだろう。そんな時は、子どもの遊ぼうとする意欲をちょっと盛り立ててやるおとなの励ましや心づかいで、その“時”を乗り越えることができる。(p.8)


言われていることは分かるが、具体的にこれを行うのが難しいと感じる。



 子どもは遊びの中で、その子の心の中にあるものを表現する。おとなが常識的に思っているのとはちがう遊び方をしても、危険がない限り口を出さずに見ていよう。遊びは“自分が楽しいと思うことをする”のだから、もっとも主体性が育つときである。
 ……(中略)……。
 子どもに関心をもちながら、おとなが主導権を握ってしまわないように、ということが“遊び上手”を育てる“遊ばせ上手”となるコツかと思う。(p.8)


関心を持ちながらも主導権を握らないというバランス感覚は重要。

個人的には(いわゆる平等主義型の)リベラリズムとこの考え方は親和性が高い。この見方では、簡潔に言えば、実践面でも個人(子ども)の権利や主体性を尊重しつつも、その子が自他を害さないような行為をしているかどうか、という観点から子どもの行為を見ることになるが、これは上記の引用文ともかなり重なる考え方であると思われる。

しかし、子どもの世話をしたり遊んでやる人に、こうした配慮が足りない場合というのは少なくない。例えば、子どもを見て「かわいい」と思い、単にその思いだけで子どもに関わろうとするような幼稚な養育者などがそうである。こうした例の場合は、子どもへの関心はあるが、主導権を握らないといった類の自制に欠けているわけである。反対に、子どもが好きでない人の場合、そもそも関心がないため適切な対処をとることにならない。前提条件がないという点で後者は不適格だが、前者は大抵の場合、自分は良い養育者であるというイメージを持っており、自らの行為に自覚がない場合が多いと思われ、その意味ではかなり性質が悪いとも言える。



子どもは日々変化し、成長するので親の思い込みは危険だなあと思う。(p.60)


同意見である。「この子は●●が好きだ」とか「この子は▲▲だ」といった決めつけを人はよくしたがる。それは子どもという変化の大きく、理解することや扱い方が難しい存在者を前にする不安があり、その不安を軽減してくれる方法だからではないか。



次々におもちゃを引っぱり出すのは、遊ぼうとする意欲があること。いちいち片づけるように言うと、遊びに熱中できなくなってしまいます。
 よく遊んで気持ちが満たされた後の夕方などに、一緒に片づけられるとよいでしょう。(p.74)


おもちゃを次々に引っぱり出して遊ぶことは悪いことではないという認識は重要と思われる。大人は片づけができることを良いことと見なすが、散らかすこと(につながるようなこと)はどちらかというと否定的に評価してしまう傾向があるからだ。

ただ、この引用文で提示されている解決法は、専業主婦を前提しているように思われ、共働きの世帯が増えている現状から見るとやや理想論という感じもする。しかし、たとえ実現できない理想だったとしても、それを提示して明確に認識できるようにしておくことは、それを手がかりにして次善の策を考えることにも繋がるので悪いことではない。



 子どもの自己主張がつよいということは、意欲をもっていることで、頼もしいことである。(p.80)


意欲というのは、本書のキーワードの一つであるように思われ、子育て全般に関わるキーワードでもあると思われる。

私の基本的な育児・教育観は、養育とは、子どもの成長を助ける環境となること、というようなものであるが、子どもの成長の内発的なエンジンが、意欲であるように思われる。

(ちなみに、上記でいう「環境」は、オートポイエーシスにおける「環境」の概念であり、子どもの成長というオートポイエティックなシステムを想定し、そのシステムが自己を区切るときに自己とは区別されたもののことである。したがって、親や養育者自身は日常言語で言われる意味での「環境」を準備したり与えるというだけでなく、自分自身の存在や日常言語的な意味での「善い環境」を与える行為も子どもの成長にとっての環境なのである。)



 子どもは自分の願いを本気で聞いてくれるおとながいて、自分の気持ちを受け入れられる経験を積むことで、他人の提案も受け入れられるようになってくることが、たくさんの記録からわかる。(p.80-81)


逆に言うと、他人の提案を受け入れる器量がない人間は、気持ちを受け入れられた経験が少ない場合が多いということになりそうである。

自分が気に入らない意見を持つ人と議論することがまったくできない者が私の周囲にもいる。こう考えると、ある意味では哀れな人である。



 おとなの顔色をうかがうようすが子どもにたびたび見られたら、おとなの意志に従わせようとする力がつよすぎないかと、考えることは必要と思う。(p.83)


大人の顔色をうかがうのに長けた子も知っているが、確かに、その子の親は親の意志に子を従わせようとする傾向が強い。こうした育て方の結果だと思うが、自分のやるべきことに集中する力なども弱く、困難に耐えても初志を貫徹するというような我慢強さや意志ないし意欲の強さも見られない。誤った子育てはその子に生きにくい人生を与える



“想像する”ことと“うそ”とはとても近いので、おとなの道徳観ではとまどうことも多いだろう。親が「うそはわるいこと」と厳しく叱る記録も見られるが、現実ではないことを楽しんでいるような“子どものうそ”は、「そうだったら、おもしろいわね」と軽く受けていればよいことが多い。(p.83)


なるほど。想像することと嘘とが近いというのは、今まで考えたことがなかったが、言われてみれば納得するところがある。

私個人としては、嘘をつかれることを非常に嫌っており、嘘に対して道徳的な悪であるとする評価を強く持っている。しかし、子どもなどと話す場合には、単にそうした評価だけに沿って対応すればよいというわけではない、ということを理解しておくことは私のような志向を持つ者にとっては特に重要であると思われる。



子どものすることはいたずらのように見えても、子どもにとっては意味がある。そこには成長するための種子がある。子どもが望むことを実現できるように手助けしよう。(p.97)


こうした成長の種子がどこにあるのか、一つひとつの行為の中から読み取り、それをうまく成長につなげていければよいと思う。



つまり、生活に一定のリズムがあると気持ちも安定しますし、自分から進んでできることが多くなるので、「早くしなさい」とせかすことばも減り、親子の関係もちがってくると思われます。(p.101)


確かに、生活のリズムが滅茶苦茶な生活を続けてきた親子がいるのだが、子どもは気持ちにムラが多く、親は子供に「早くしなさい」とせかす言葉も頻繁にかけており、子どもが大きくなってくることで、親に心を閉ざす方向に進んでいる。

生活を規則的に時刻ごとにすることを決めていない理由をその親に尋ねたところ、「予定通りに進まない場合に、そのことがストレスとなって楽しく生活することができないから」といった回答だった。個人的には予定通りに進まなかった場合、それがどのような原因によるものだったのかを客観的に把握し、それに対して対策を講じることで同じ失敗を繰り返さないようにして生活を常に再編成し続ければよいだけのことであると思われが、そうした努力はする気がなく、単に面白おかしく生活したいという志向が、この親子の成長を阻んでいる。意欲がないことは成長にとって致命的であり、成長のない人生には生きがいもない



スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/928-d18d0ba7
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)