アヴェスターにはこう書いている?
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片岡秀郎 編著 『札幌歴史散歩』(その4)

 明治23年に帝国議会が開会され、政府予算は議会の手続きを要するようになり、予算の削減は国庫に入れることなく学校の歳入に組み入れることのできる「官立学校及図書館会計法」(明治23年3月制定)の適用を受け、財政的な苦境から抜け出そうとした。明治25年、校長心得の佐藤は北海道庁長官、内務大臣井上馨、文部大臣井上毅らに陳情を重ね、同28年4月1日に札幌農学校は文部省の直轄学校となり、「官立学校及図書館会計法」の適用を受けることとなった。
 ……(中略)……。
 農場収入は農学校財政に潤いを与える見込みであったが、実際には予期したほどの額にはならず、農学校歳入予算中に占める比重もさほど大きなものとはならなかった。維持資金に属する農場(のちには基本林・演習林も含めて)の収支決算が経常的に黒字となるのは明治32年以降のことであった。(p.200-201)


佐藤昌介は札幌農学校の2度の危機を救ったとされるが、その2度目の危機がこの学校財政上の問題であった。官立学校及図書館会計法の適用を受けることにより、農場収入を学校の歳入とすることで財政力を確保しようということなのだが、実際にはそれほどうまくいっていたわけではなかったというのが実情のようである。



 札幌におけるレンガ生産は、明治10年に工藤宇三郎が開拓使工業局に製品を納めたのが最初という。しかし、どこの粘土を使って実用化したのかなど不明な点が多い。明治15年、白石などでレンガに適した粘土が発見されると、次々とレンガ工場が設立されるが、いずれも短命に終わった。
 鈴木煉瓦製造場を興した鈴木佐兵衛(すずきさへい)は、……(中略)……。明治17年7月、農商務省北海道事業管理局鉄道科の平井晴二郎(明治17年10月、松本荘一郎が工部省鉄道局に戻り、平井は幌内鉄道の権少技長鉄道科長となるが、この時点では鉄道科長心得の職にあったとみられる)の要請で、旧手宮機関車車庫(現・鉄道記念物)など幌内鉄道用のレンガ工場を白石村(『新札幌市史』によると、この場所は白石村87番地、今の白石区本通9丁目南にあたる)に設置し、製品18万個を納入する。明治19年から3年間、北海道庁本庁舎(道庁赤レンガ)と北有社鉄道用レンガを供給するとともに、同19年、月寒村に瓦用の工場を設けた。続いて北海道製麻会社の建築レンガを供給した。(p.219-220)


手宮機関車庫も北海道庁本庁舎も平井晴二郎の設計によるレンガ造の建築であり、いずれも鈴木煉瓦製造場で製造されたレンガを使用していたということがわかる。

なお、北有社は、官営幌内鉄道の経営を請負うために設立された団体であり、幌内鉄道用のレンガ供給も引き継がれていることを示していると思われる。



大正後期から昭和初期にかけて数社が廃業にいたっているが、これはレンガの大口需要先であった鉄道敷設が一段落したこと、明治24年の濃尾大地震、大正12年の関東大震災でレンガ造などの組積造建築は大きな被害を受け、地震国日本には不向きであるとされたこと、鉄筋コンクリートが進出してきたことなどでレンガは斜陽化の一途を辿りつつあり、レンガ生産に終止符を打つに至ったものとみられる。(p.221)


日本の近代建築の場合、レンガ造の建築はほとんどが明治期のものと思われ、特に関東大震災以後のものは非常に少なくなる。このことはレンガの製造業にとっても大きな打撃であったことがわかる。



 開拓が進み、明治20年(1887)代に入り寒冷地稲作への見通しがつくようになると、水田造りが盛んになり、水不足が大きな問題となってきた。(p.244)


こうした需要に伴って各地に用水路が作られていく。

農業の生産技術や生産体勢が用水路の建設という形で目に見えるようになっているというのも興味深い。



 一農村にすぎなかった月寒が活気を呈するようになるのは、明治29年に第7師団の設置が決まってからのことである。明治29年12月1日に入営式が行われ、歩兵、砲兵、工兵の独立大隊(同32年10月からは歩兵第25連隊)が入った。兵営は、食糧、被服、諸雑貨日用品、軍馬などの大消費施設であり、兵営への新たな仕事が生れ、兵営の周囲には日用品店や飲食店なども開かれていった。(p.269)


札幌の歴史的な銘菓「月寒あんぱん」(大原屋本間商店、明治39年創業)もこうして生まれた「新たな仕事」の一つである。



月寒種羊場は、大正8年4月10日、畜産試験場北海道支場用地の一部を移管して設けられた。これは、日清・日露戦争を経て、国防上、官服などの原料となる羊毛の自給を目指したもので、月寒のほか、北海道の滝川、茨城県の友部、兵庫県の北条、熊本県の熊本の5ヵ所に種羊場が設けられた。(p.273)


国防のため→官服を国産→羊毛の自給→羊の飼育 という流れなのだが、ここから北海道の名物ジンギスカンも生れたという説が有力のようである。すなわち、羊を多く飼育するようになったことで、羊の肉も消費する必要に迫られ、羊肉を消費するための調理法が模索される中でジンギスカンが生れた、という。

いろいろなものが一連の連鎖をなしているのが見えてくると、何を見ても面白くなってくる。



 澄川の地名は精進川の清流に由来するが、この一帯はかつてトドマツの森林におおわれていた。開拓使は、札幌本府建設の木材の供給地として、この木を切り出していたが、その伐木もほぼ終わり、明治15年(1882)、福岡県(かつての筑前)から9戸が入植し、澄川の開拓が始まった。……(中略)……。その後、大井上輝前が所有したが、明治29年、小樽の茨木与八郎が取得し、約63.8haの茨木農場を開設した。初代茨木与八郎は、山形県出身で、船頭の手伝いからたたき上げで魚場を持つに至ったが、2代目は、定置網のほか鰊漁場などを経営し、一時、ロシアのウラジオストック間の海運業にも乗り出した。農場も、澄川のほか手稲軽川に約30ha、上川比布に約200haなどを所有した。澄川の茨木農場は田畑が中心であったが、大正14年(1925)からはリンゴの苗木5,000本を植え付け果樹栽培にも力を注いだ。北海道庁産業部が調査した北海道小作事情によると、昭和8年の茨木農場の状況を田22.7ha、畑38.5ha、果樹その他12.9ha、計74.1ha、小作20戸と記している。(p.284-285)


小樽の茨木家というと、鰊の有力な網元だったのだが、農場経営にも手を伸ばしていたとは知らなかった。ウラジオストックとの間の海運業を行ったとしても意外性はないが、田畑のほか果樹栽培までやっていたということには、少し驚いた。

鰊の網元たちがどのような事業をどのように展開していったのか、そして、鰊漁が不漁となった後、どのように業態変更していったのか、といった問題には関心があるのだが、なかなかよい資料が見つからないでいる。



 札幌の路面電車は、大正7年、札幌市街の主要な地域に路線網を広げていた馬車鉄道(馬鉄)を電化する形で発足した。(p.289)


馬車鉄道は(路面電車に取って代わられるまで)どのように発展していったのか?ということも気になる。



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