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アヴェスターにはこう書いている?
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片岡秀郎 編著 『札幌歴史散歩』(その2)

 札幌市資料館(写真)は、大正15年(1926)8月、札幌控訴院の庁舎として建てられたものである。……(中略)……。
 外壁は札幌軟石であるが、内側はレンガ造、2階床と階段など要所は鉄筋コンクリート造の構造形式で、組積造(そせきぞう)から新構造への過渡期を象徴するような珍しい建築である。
 レンガ造・石造・ブロック造のように塊状の材を積み重ねて造る建築を組積造建築という。組積造は幕末に西欧から導入された。しかし、明治24年の濃尾大地震、大正12年の関東大震災で組積造は大きな被害を受けた。地震国日本に不向きの構造とらく印を押され、大正末には大規模建築は事実上禁止されてしまった。
 石造の外装は大通西2丁目に向かい合って建つ札幌郵便局舎と調和させるために採用されたと伝えられている。建物の外観は左右対称に威儀を正し古典的な雰囲気を持つ。建物を特徴づけるのは中央部で、玄関庇には両眼を隠した正義の女神と左右に天秤が浮き彫りにされ、「札幌控訴院」の丸味を帯びた文字意匠、内部の回り階段や半円形に突き出した階段室のステンドグラスなど、抑制されたデザインの中に大正モダニズムを漂わせている。2階建(一部3階)、建築面積820㎡。(p.69-70)


旧札幌控訴院(現在、札幌市資料館として活用されている)の建築についての解説。

石造建築に見える外観で、実際上の構造はレンガと鉄筋コンクリートの混合という構造が珍しい。資料館の内部にも建築に関する解説が若干あるが、壁体の構造についての展示はあったはずだが、建築史的な意義(移行期の作例であること)についての解説はなかったと記憶している。こうした点についても解説を充実させる方が良いと思う。

控訴院というのは現在で言う高等裁判所にあたる建物ということもあり、やや地味で重厚というか(悪く言うと)鈍重な印象を与える建物である。引用文では大正モダニズムを漂わせていると書かれているが、確かに、例えば、「札幌控訴院」の文字のデザインなどは、パソコンのフォントで言うとポップ体風の可愛らしいもので、建物の雰囲気とは必ずしも調和しているとは言えないが、大正時代の華やかな雰囲気を反映しているように思われる。

札幌の市街の歴史的概観についての展示や司法制度に関する展示のほか、新渡戸稲造が貧しい子弟たちのために開校した遠友夜学校の記念室が置かれている。



 明治25年5月5日の大火で狸小路2丁目から4丁目一帯(当時の狸小路はこの区間だけであった)は一軒残らず焼失してしまった。この札幌大火以後、札幌では不燃建築として石造の家屋・倉庫が多く建てられるようになっていった。(p.92)


北海道の都市ではよく見られるパターン。明治後半の大火を契機に耐火建築が普及していく。ここでは石造と書かれているが、恐らく木骨石造のものが多かったのではなかろうか?



同6年初めは前年からの諸工事が続行されたので職工・人夫等は数千人に及び司教は繁栄を極めた。しかし、開拓使の財政が逼迫し、6月に黒田次官は、一切の新規事業の中止を命じた。かくて同年夏、諸工事が一段落すると、急に不景気が襲った。
 松本は、この6・7年不景気と称される時期に本庁主任として難局に当たり、黒田次官の意を体して粛正につとめた。……(中略)……。リンゴなどの果樹栽培、麻の栽培、養蚕等を奨励し、西洋農法の普及を図った。……(中略)……。琴似屯田兵屋の建築は、沈滞した札幌の市況に恵みの雨となった。(p.132-133)


札幌の市街建設が行われている間は、その建設需要で資材の生産や運搬の仕事が生じ、また、工事に従事する人びとが集まり、さらにそれらの人々の生活物資などを売る商人などが集まるといった具合に経済活動が高まっていたが、開拓使の財政逼迫により、明治6年頃には滞るようになった。この状況下で琴似屯田兵屋の建設という仕事が行われた。この兵村の建設需要はそれまでの札幌本府建設の需要の減少を補うことになったということか。

また、リンゴや麻の栽培、養蚕を奨励したという件も興味深い。養蚕はあまりうまくいかなかったという点については、前のエントリーで既に述べたが、リンゴや麻などがどのような展開を見せたのか、といった点も押さえておく価値があると思われる。



建築家・田上義也について。

大正13年から昭和10年(1935)頃までの第1期の作風は、ライトの強い影響が伺える。作品数800余といわれる内の500以上の住宅を、この時期に手がけている。しかし、37歳を過ぎる昭和8、9年頃から戦後までの10数年間は、壁にぶつかり、ほとんど設計依頼もないブランクの時期に入る。その後、独自の作風の模索へと大きく転換する。
 小熊邸は、第1期を代表する作品である。(p.139)


田上義也の作品と言えば、札幌にある小熊邸と小樽にある坂牛邸を訪れたことがあるが、いずれも昭和2年竣工の同じ時期の作品ということもあってか、デザインも比較的似ている。だから、私の印象としては田上義也と言えば、フランク・ロイド・ライトのプレーリースタイルから強く影響された水平性を強調し、大きな屋根と張り出した庇が特徴的な建物を建てる建築家というイメージが強い。

戦後の独自の作風への模索が行われた時期の作品は具体的には知らないので、どのように変化していくのか、また、なぜそのような変化が生じたのか、興味を惹かれる。(ウィキペディアで見る限り、戦前は個人の邸宅が多いが、戦後はより公共的な施設の設計が多いようである。こうした変化も含めてどのような背景があるのか興味が惹かれる。)



 参議伊藤博文の命により北海道の実情を視察した太政官大書記官金子堅太郎は、その復命書の中で札幌農学校についても触れ、札幌農学校は拓殖上不可欠ではなく、また、学理高尚に過ぎ実業に暗いと批判した。この時、佐藤は農学校廃校の危機を救ったと一般的に言われてきたが、この点について『北大百年史』は、「北海道庁官制に学務官として農学校職員が規定されていることや、間もなく農学校教師養成の目的で卒業生2名を3年間海外に留学させることが許可されたことなどよりすれば、政府に直ちに札幌農学校を廃止しようとの考えはなかったと思われる。」と記している。この年、農学校は本科への入学者は皆無であったうえ、金子の批判に対する明確な対応策も見出せず、道庁の政策転換で農場も大幅に縮小されるという状況にあった。
 佐藤が提出した意見書は、札幌農学校の制度・組織の改正に関し、農学校の機能を拡大し、北海道開拓に関連づけて提案するとともに、農場は営業主義をもって管理し、農場からの収入は国庫に入れず、農学校の資金として蓄積するような法を設けるべきであると説いた。佐藤は、米国ではモリル法に基づき各州に土地を交付し、各州は、その土地を売却した資金から生ずる利子をもとに、大学を創立、維持していることにならい、農学校でも財政基盤を農場経営に託そうとしたのである。……(中略)……。同年末から翌20年春にかけて、官制の制定、校則改正が佐藤の意見を採り入れた形で行われ、その後、農学校は広大な農場を有するようになっていく。(p.150-151)


佐藤昌介が金子堅太郎の視察に対して反論を提出し、札幌農学校存続の危機を救ったと言われてきたが、当時の政府には札幌農学校を直ちに廃校にする意図はなかったという点については、『北大百年史』の叙述の方が説得力がある。ただ、その後の農学校の改革が佐藤昌介が提示したものに沿って行われ、それが農学校の経営基盤を強化することに繋がったのであれば、佐藤昌介の功績も軽視されるべきものではないということになるだろう。



 北大の中央ローン西端に置かれているクラークの胸像(写真)は、大正15年(1926)、北大創立50年、クラーク生誕100年を記念して建てられたものである。台座には「Boy's, be ambitious!(少年よ、大志を抱け)」の言葉とクラークの家紋・大バスが刻まれている。
 当初、開拓使は札幌に開く学校には農・鉱・工の3学科を置く予定であったが、開拓顧問ケプロンから農学だけでも外国人教師3、4人は必要と聞かされ、とりあえず農学のみを開くことにした。(p.152)


3つの学科を設置する予定であったというのは、興味深い。ただ、農学校とはいっても、廣井勇のような有能な土木技術者も輩出しているという点には注目すべきと思われる。



 同校(引用者注;札幌農学校)は、農業専門教育だけでなく、全人的教育を目指していたので、当時の日本の高等教育機関としては特色あるものであった。特に、英語の比重が大きく、その中には弁論の科目があること、人文・社会科学の科目が少なくないこと、兵学が取り入れられていたことなどが大きな特徴と云われている。(p.155-156)


全人教育については、現在の北海道大学でも建学の理念として継承されている。札幌農学校の英語の比重が大きいことは、お雇い外国人が教師を勤めていたことが反映していると思われる。また、兵学があったことは、現在の時計台はかつて農学校の中心的な施設であり、演武場(ミリタリーホール)であったということを想起させる。


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