アヴェスターにはこう書いている?
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片岡秀郎 編著 『札幌歴史散歩』(その1)

新渡戸稲造は、文久2年(1862)、南部(現・岩手県)藩士・新渡戸十次郎の3男に生まれる。6歳で父を失い、一時叔父の養子となり太田姓を名乗った。明治6年(1873)、東京英語学校に入学するが、明治10年、札幌農学校に進み、第2期生として内村鑑三、宮部金吾と終生の親交をもった。(p.16)


「イエスを信じる者への誓約」にも太田姓でサインされており、そこに記載されている「I.OTA」が新渡戸稲造のことであるということは知っていたが、太田姓を名乗る経緯はよく知らなかったのでメモする。

なお、札幌農学校は英語で授業が行われたこともあり、(少なくとも)初期には英語を学んだ学生たちを集めていたようである。第一期生や第二期生の経歴を何人か追ってみたが、東京英語学校の卒業生は結構多いように見受けられる。身辺が落ち着いたら、もっと詳しく調べてみたいとは思っている。



明治33年、英文の『武士道』出版。当時、日清戦争に勝利した東洋の小国・日本への関心が高まっていたため、刊行されると各国で翻訳されベストセラーとなった。(p.17)


『武士道』が国際的にベストセラーとなった背景には、明治27~28年に行われた日清戦争での日本の勝利が背景としてあったということは押さえておきたい。



 旧北海道庁本庁舎(赤レンガ庁舎)の北隣に国旗掲揚ポールが立っているが、その位置に開拓使札幌本庁本庁舎が建っていた。昭和43年(1968)4~5月の発掘調査で、本庁舎の基礎杭の穴や煙突の基礎石などが発見され、建物の位置が判明した。建物の輪郭は、芝生の中に線状に石を並べて示されている(写真)。……(中略)……。
 開拓使は、本庁舎などの官庁建築を石造またはレンガ造の洋風建築とする方針であった。……(中略)……。開拓使は、石材の発見を受けて、本庁舎の建築を木骨石造とする設計を検討したが、工事期間内に必要な量を確保することが困難と分かり、外壁は下見板張りに変更され、石材は基礎、煙突など一部の使用にとどまった。(p.22-23)


現在、開拓使札幌本庁舎の建物は、北海道開拓の村で外観が復元されており、藤森照信の『日本の近代建築』によれば、下見板建築を代表する作品であるとされている。しかし、これが設計段階では同じくアメリカ由来のコロニアル建築である木骨石造で建てられる予定だったということは興味深いものがある。

ちなみに、下見板の木造で建てられたこの建物が数年後に火災で焼失してしまったという事実を考えると、多少は耐火性の高い木骨石造の方が良かったのではないか、という気もしないでもない。

赤レンガ庁舎はここ数年間で何度か観光客(友人)の案内などで訪れているが、開拓使札幌本庁舎があった場所を示す史跡があるとは知らなかった。今度、雪が融けたら確認しに行ってみたい。



 知事公館はイギリス近世の田園住宅を思わせるハーフティンバーと呼ぶ様式の洋風建築である。……(中略)……。
 付近一帯は、明治8年(1875)、開拓使が養蚕を奨励するために桑園を開いたところである。養蚕事業は軌道にのらず、この敷地は明治25年に森源三が払い下げを受けた。……(中略)……。
 大正4年(1915)、三井合名会社がこれを購入して役員クラブ・迎賓館とした。昭和11年(1936)、現在の建物が新築され三井クラブ(三井家札幌別邸新館)として使用されていたが、昭和28年に知事公館となった。(p.41)


現在の北海道知事公館、昭和11年に建てられた旧三井クラブの建築についての解説より。

この建物がハーフティンバーであることは、藤森照信の『日本の近代建築』でチューダー様式の流行があったとされている時期等と関連がありそうである。そうした流行に沿って建てられたのではなかろうか。

また、この付近で桑園を開いたがうまくいかなかったというエピソードは、明治期の北海道開拓にまつわる農業振興とその失敗の数多くの事例の一端としても興味深いものがある。



 知事公館の場所は、かつて桑園開拓の事務所が置かれていたところである。……(中略)……。
 明治8年(1875)6月、開拓使は酒田県(現・山形県)松ヶ丘で開墾の実績をもつ士族143人を札幌に招き、開拓使本庁から西北にかけての原野約70haを開墾し、同県から購入した桑の苗14万株を植えつけ、その地を酒田桑園と名づけた。これが今も残る桑園という地名の由来である。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 開拓使は、養蚕は開拓の一環と位置づけて積極的に奨励した。明治3年、仙台から蚕種を購入し、山桑を採取して札幌で始めて[ママ]養蚕を試みた。……(中略)……。その後も、札幌近隣の村で養蚕が行われた。……(中略)……。
 ……(中略)……。また明治8年、開拓使は桑の苗1,400,000株を購入し、琴似・山鼻の屯田兵村や近隣の村へ植栽し、その後も園地の拡大を図り、一時期、一帯は一大桑園の観を呈した。
 しかし、このような開拓使の努力にもかかわらず、所期の成果を得るには至らなかった。(p.42-43)


開拓使は養蚕を北海道の産業の一つとするべく育成しており、蚕を飼うために桑を栽培する必要があるというわけか。桑園という地名はそうした試みの歴史を刻んでいるというわけだ。面白い。

開拓使の産業振興策はかなりの数が単発で見れば失敗に終わっているようである。ただ、それをそこで終りとして評価するのは早計であるかもしれない。北海道庁時代になると、いわゆる民営化路線的な方向に方針転換が進められていくが、開拓使が基礎工事を行った土台の上で明治後期の活動が行われていたとすれば、その土台を残すことは功績として評価されてもよいはずだからである。こうした仮説を一方では持ちつつ、開拓使が行ったことを検証していってみたいと思う。



 大通公園(写真)は、幅約65m、全長約1.2km、面積約7.9haの東西に長い都市公園である。……(中略)……。
 この公園は、明治4年(1871)5月、開拓使が市街地の区画測量の際、幅60間(実際には58間=104m)の火防線を設けたことに始まる。この火防線を基線として、市街地は南北に分けられ、北側を官庁街、南側を町屋街とした。
 ……(中略)……。
 明治11年、大通西3丁目で第1回農業仮博覧会が開かれた。……(中略)……。明治19年、屯田兵第1大隊本部が大通西10丁目に置かれ、その西は練兵場とされた。……(中略)……。大通が公園として整備されはじめるのは、明治30年頃になってからのことである。
 ……(中略)……。
 第2次世界大戦中は、自給用のイモ畑になるなど荒廃した。戦後、大通は畑地とごみ捨て場となっていた。昭和20年10月、GHQ(連合国軍総司令部)が北海道拓殖銀行本店2号館、3号館(現・北洋銀行本店の位置)を接収し、その向かいの大通西3丁目に教会堂を建て、スポーツ施設をつくった。(p.52-53)


札幌のシンボルの一つでもある大通公園の歴史的変遷も振幅が大きく面白い。



 豊平館は、開拓使工業局営繕課の主任技術者・安達喜幸(きこう)らがこれまで積み重ねてきた技術の集大成として設計した開拓使時代を代表する建築である。喜幸は、豊平館のほか、時計台、北大第2農場の模範家畜房など明治期を代表する建築を手がけた。
 ……(中略)……。防寒的な洋風建築の採用が決められ、開拓使は道民のモデルとなる洋風建築を建設し、その普及を図ることとなり、洋風建築技術者の雇用を急ぎ、陣容を整えることとなった。
 喜幸は、こうした開拓使の要請により、明治4年11月、開拓使に転じ、札幌本府の建設に従事することとなった。……(中略)……。
 明治5年から6年にかけた札幌本府建設では、札幌本庁舎をはじめ、病院、官舎、外人宿舎などが一斉に洋風様式で建てられた。これらはいずれもお雇い外国人の指導や助言のもとに設計、施工されたが、喜幸ら開拓使の技術者たちは、設計施工を繰り返す過程を通して、短期間に洋風建築技術を自らのものとしていった。(p.54-55)


明治期の北海道の建築を見るにあたっては、安達喜幸という人物にもっと着目してよいかもしれない。洋風建築が採用され、一斉に建てられる過程の中で、短時間で技術を習得していったというプロセスも重要だろう。



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