アヴェスターにはこう書いている?
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好川之範、赤間均 編著 『北海道謎解き散歩 アイヌ地名・土方歳三・日本ハムファイターズまで』

実は、時計台には最初から時計がついていたわけではなかった
 札幌農学校の敷地は、北一条通と北三条通の間、西一丁目と西三丁目の間にまたがる二丁四方で、時計台は、その中心となる建物であった。
 明治十一年(1878)十月十六日に演武場(ミリタリーホール)として開業した時計台は、一階に土木専門教師の研究室、講義室、各種の標本展示室を置き、二階に大ホールを設け、軍事教練や全学集会を行う中央講堂として利用した。
 建物の上には搭屋(鐘楼)が設けられ、鐘を吊るし、綱を引いて時を知らせた。北海道大学の中央ローン北側にある古河記念講堂の搭屋のようなものであった。
 開業間もなく、鐘の音が建物中に響きやかましいので、黒田清隆開拓使長官は時計を設置せよという指示を出し、農学校の教師ホイラーはアメリカのハワード時計会社にタワークロック(塔時計)を注文した。
 ところが、翌十二年に届いた時計は、搭屋に全くおさまらないとてつもなく大きなものであった。取り付けるには新築したばかりの正面玄関を壊し、基礎から骨組みを造り直さなければならない。すったもんだしたが、ようやく改造が決まり、明治十四年、現在の時計塔が完成し、翌年、工部省赤羽工場製の金がつけられ「時計台の鐘」が鳴り始めた
 時計台ははじめから現在地(札幌市中央区北一条西二丁目)にあったのではない。明治三十六年、札幌農学校の新校舎が完成し現在の北大の地に移転したので、時計台と校地は札幌区に貸し出された。三十九年には時計台は1000円で区に移管となり、北二条通敷設のために妨げとなったので、農学校敷地の南西端に移築されたのである。(p.43-44)


時計台という建物を理解する上でのポイントのいくつかが簡潔にまとめられている。

一つは、鐘楼を壊して大きな時計塔を付けたこと。もう一つは、かつての札幌農学校の敷地の中央にあり、施設としても中心的なものであったこと。最後に、札幌農学校のキャンパスの移転と北二条通敷設のために移築されたこと。

もちろん、この他にもバルーンフレームであること、下見板コロニアル建築であること、演武場(ミリタリーホール)が設けられた理由など、いろいろなポイントがある。

しばしば、大方の人が写真で見て予想するよりも小さく、迫力がないと感じらせるせいか、「日本三大がっかり」スポットなどとして不名誉な評価を受けることが多い時計台だが、その歴史的な意義などを繙いていくと、なかなかの深みや意義深さを持っていることがわかってくる。




 植物園が開園したのは明治十九年(1886)。札幌農学校の初代教頭クラーク博士の進言による。東京大学の小石川植物園に次いで、日本で二番目に古い植物園である。(p.181)


現在の北海道大学植物園(正式名称は「北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園」)。日本で二番目に古いとはあまり知られていないのではないだろうか。

個人的には、この植物園や札幌農学校と偕楽園との関係なども、もう少し知りたいテーマではある。




 大正十一年(1922)の春。札幌・北海道帝国大学前の和食堂「竹家」に、一人の中国人がやって来た。名は王文彩といった。食堂を切り盛りしていたのは大久昌治・タツの夫婦。王はロシアで北京料理の調理人をしていたが、尼港事件の戦火を避けるため、樺太を経由して北海道にやって来たのだという。
 ……(中略)……。いちばんの支持を得たメニューは、ラードの効いたスープに歯ごたえの良いちぢれ麺からなる「肉糸麺」。中国語で「ロウスーミェン」と発音するのだが、日本人にはなかなかに難しい。日本人客のほとんどは「支那そば」、中には「チャンそば」などと中国人を蔑視するような呼称で注文をする客もいた。
 タツはそのたびに心を痛めた。店には祖国の味を求めて、多くの中国人留学生が足を運んでいたからだ。思案のあげくに、こんなアイデアが浮かんだ。
 王は料理が出来上がるたびに、いつも大声で「好了(ハオラー)」と発していた。タツは、「出来上がったよー」を意味するこの中国語の「ラー」の音を、いつも印象的に聞いていた。「ラー」と「麺」を組み合わせた「ラーメン」はどうだろうか?(p.186-187)


これが「ラーメン」という呼称の由来に関する説の一つらしい。



 日本に綿羊が導入されたのは明治時代で、官員に制服を支給するために羊毛の自給が目的だった。……(中略)……。
 第一次世界大戦(1914~18)の時に輸入が止まったことから、急きょ「綿羊100万頭自給計画」が立案され、大正八年(1919)全国五ヵ所に種羊場がつくられた。月寒(札幌市)と滝川(滝川市)の種羊場で増殖したコリデール種の成績が良かったので、北海道の綿羊はこの毛肉兼用種が中心になった。種羊場では羊の改良や飼育法の研究とともに、肉の利用法の研究も行われ、ジンギスカン鍋の原型が考案され、普及に努めた。
 しかし、種羊場の努力にもかかわらず、羊の飼育は広がらなかった。戦争によって繊維産業が衰退したためである。月寒種畜場は昭和24年(1949)に廃止され、北海道農業試験場畜産部が羊肉利用研究業務を引き継いだ。戦後の物資が不足した時に、綿羊は食糧・衣類を自給するものとして農家で飼われるようになり、試験場で開発したホームスパン技術で毛糸が作られたり、ジンギスカン鍋のタレ・レシピが農家に普及するようになった。(p.188-189)


明治期には官員(役人)への制服支給、戦時中の衣類の自給といった衣料の原料として羊の飼育が行われ、それに付随する肉の利用法として「ジンギスカン鍋」が考案されたという関係(この書き方ではやや単純化しすぎているかもしれないが)は興味深い。



 北海道の開拓初期は殺伐とした荒くれ男たちばかり。しかも腰が定まらず、少し稼ぐと故郷へ逃げ帰っていく。
 明治四年(1871)春、札幌本府に乗り込んだ二代目判官岩村は「男をつなぎ止めるには女の髪の毛しかない」として政府公認の売春街の建設を計画した。
 ……(中略)……。
 ほどなく太政官から建設許可がおりた。これが現在の南四条、五条通りの西四、五丁目の二丁区画のススキノである。(p.194-195)


政府公認の売春街としてススキノが建設され、現在の歓楽街へと発展してきたという流れは興味深い。歴史的な繋がり(連続性)があって現在がある。



 岩村は、開拓首席判官・島義勇の計画どおり、現在の大通公園の北側を官地、南側を民地と決め、民地の外れの南四、五条、西三、四丁目の二町四方を遊郭の地と定めた。高さ四尺(約1.2メートル)の土塁が築かれ、薄野の入り口には、高さ10尺(約3メートル)の木造の大門もあった。妓楼東京楼が建てられた。(p.204)



ススキノは建設当初は市街地の周辺であった。認識は当時の札幌がいかに小さかったか、ということを実感することに繋がる。



 当時、大通には大門を建て、土塁を築いた。防火線として実際に役立ったケースがある。明治25年(1892)5月4日、南三条西四丁目から出火、被災戸数887戸と全市の五分の一が焦土と化したが、大通が北への延焼を食い止めた。同40年(1907)5月10日、379戸が焼けた時も大通が、北への火魔を押さえた
 大通公園は、西一から十二丁目まである。明治時代から住民に開放された“歩行者天国”である。ここは第二次大戦中は畑になり、住民の飢えを凌いだ。(p.206)


大通公園が防火線としての役割を早期から担っていたことは割とよく知られていると思う。これが実際に役立った事例を見ても、「北と南の境界線」として防火線が置かれた意味がよくわかるように思う。北は官地で南は民地とされ、その間に防火線が置かれたということは、より燃えやすい建物が密集して建てられるであろう民地から官地への類焼を避けるというところにポイントがあると見てよいと思う。



 明治5年(1872)までに、南二条西二丁目に役所の下級官吏用の町長屋、同じく五丁目に高級官吏用の新長屋が建てられた。官舎の近くには当然、商店がボチボチと姿を見せ、狸小路の原風景を形成していく。
 ……(中略)……。
 引用が長くなったが、130人以上の女性が、青雲の志を抱いて未開の地に来た男性を化かしていた、というのである。近くのススキノの公娼に対して、私娼街だった


狸小路の歴史もいろいろ調べてみるとなかなか面白そうである。ススキノもそうだが、狸小路も開拓初期に設定された歴史的条件が紆余曲折は経ながらも、かなり直接的に現在の様子に繋がっているように見えて興味深い。

思うに、この傾向は、札幌で急速に人口が増加し、北海道の中では圧倒的な大都市となったのは戦後のことであるという経過と関わっているのではないだろうか。つまり、明治から昭和初期にかけて、それなりの変化はあったにせよ、札幌はやはり行政の中心であり、経済の変動は相対的に緩慢に推移した。従って、それぞれの土地は大まかには元々の機能を維持していた。戦後には多少の混乱はあったものの人口や経済的な資源の集中が加速していったが、短時間で大きな変化を必要としたため、それぞれの地域は(他の機能へと一から移行するのではなく)自らの優位性がある機能を伸ばす形で変化した。現時点では、なかなかうまく説明できないが、仮説としてこのような考えを持っている。最近は札幌の歴史にも興味が湧いてきたので、この仮説も検証しながら認識を深めていきたい。


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