アヴェスターにはこう書いている?
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藤森照信 『日本の近代建築(下)――大正・昭和篇――』(その1)

 山本は市民に向けて夢を語る一方、建築界に向けては新しい住宅設計論を突きつけた。それが、大正14年、山本郎と遠藤との間で交わされた「拙新論争」で、ライトの愛弟子の遠藤新が、建築家たるもの中小住宅の設計に当っても、全体から家具調度まですみずみデザインし、その小宇宙を住み手に味わってもらうべきである、と主張したのに対し、山本は、

「私は住宅に於てはそれが住む人によって次第に成長させられ、完成されてゆくものであるということを信ずる。友人から贈られたテーブルランプが今の飾りになったり、叔父の遺愛の安楽椅子が書斎の宝となったりして、住宅の生活は成長を見、豊かになってゆくのではないだろうか」――山本拙郎『住宅建築と鑑賞 遠藤新氏の個展を見て』T14――


と批判した。
 住宅はたいていの建築家が考えているように出来上がった時点がゴールなのか、それとも山本の言うように、そこからスタートするのか。住宅は、芸術の作品なのかそれとも生活の器なのか。日本の建築家でこの問題に行き当り、はっきり“生活の器”と思い定めたのは山本拙郎が最初である。(p.77-78)


拙新論争の論点は、興味深い問題。建築家が建物自体をゴールとして設定しようと思っても、そこに人が住む限り、建物の完成は所詮スタートに過ぎない。

仮に人が住んだり仕事などに使ったりしなくなり、芸術作品として鑑賞されるようなものとなったとしても、その場合でさえ、それを鑑賞する人が何かを感じること、さらには、そのとき何を感じるか、ということによって、その存在意義が変わってくる。存在意義は存続可能性にも影響する。つまり、芸術作品のつもりで公開してもほとんど誰も興味を惹かなかったり、せっかく見に行っても見るだけの価値があると多くの人が感じないようであれば、その芸術作品であろうとした建築は廃れてしまうだろう。だから、やはり器が完成することは終わりではない、と考えるべきであろう。



 アメリカ派の住宅スタイルとしてスパニッシュが隆盛するのと期を合わせ、ヨーロッパ派ではイギリス起源のチューダー様式が負けずに栄える。
 もともとはイギリスの中世に成立したゴシック様式の一つで、19世紀後半のイギリスのゴシックリヴァイヴァル――ヴィクトリアンゴシック――の中で復活し、以後、住宅を舞台にして大きな影響力を振った。木造の場合の一番分かりやすい特徴はハーフチンバー――半木造――と呼ばれる作り方で、日本の芯壁構造と同じように壁面に柱や梁が露出する。ハーフチンバー構造はドイツやフランスにも見られるが、日本の例はほとんどイギリスのチューダー系で、ドイツやフランスとはちがい柱の間隔が狭く、斜材を多用しない。(p.92-93)


ここを読んでいて私は、現在「台北故事館」として公開されている建物を想起した。あの建物もチューダー様式のハーフティンバーだったはずだ、と。建設年代を改めて見てみると1913年(大正2年)となっており、台湾唯一のチューダー様式の住宅(茶商の別荘)である。

本書によると日本ではチューダー住宅は明治30年代後半に現れ、昭和に入ってから大流行し、昭和の洋館を代表するスタイルとなるというから、日本での大流行より前に建てられたことになる。設計図はオランダ東インド会社から取り寄せ、日本人に建設を委ねたというが、この建築は当時の日本の(大正2年当時、台湾は既に日本の植民地となっていた)チューダー住宅の中で、どのように位置づけられるのか興味があるところだ。



明治の世代は、個人的好みの強い辰野は、“意多くして力足りず”の結果に終り、腕の立つ妻木はドイツ様式を用途に合わせて巧みにアレンジすることは出来ても自分の好みは発揮しなかった。……(中略)……。
 第一世代は、学んだ国の様式の枠を越えることはなかったが、第二、第三世代は、自分の思想と好みの上に立って様式を選びデザインした。(p.98)


本書は辰野金吾に対しては結構辛口だが、明治の巨匠の作品は観光などで見に行くと、どれも「偉大な建築家」が建てたもの、として扱われているから、批判的な見方が紹介されていなかったりする。そうした一方的な宣伝を相対化するためにも、本書のようにはっきりと評価も示されている文章を読むことは有益であると思われる。



大正、昭和戦前の歴史主義建築はストリートを晴舞台とし、とりわけ銀行――保険を含む――の充実はいちじるしく、明治を官庁の時代というなら、大正・昭和は銀行の時代といってもいいが、その銀行建築のスタイルの動きに一点への収束性が認められるのである。(p.99)


明治は官庁の時代、大正・昭和は銀行の時代というのは、面白い指摘。北海道で見ても、開拓使本庁舎や北海道庁本庁舎(赤レンガ庁舎)は官庁だし、北のウォール街などと呼ばれる小樽の銀行街の銀行は大正期を中心に建てられたものである。明治は江戸時代とは政府が変わったことや欧化の志向が生じたことなどから、官庁の大規模な建て替えが必要だったこと、日本の産業もかなり発展してきたため金融業の活躍の必要性が高まっていたことが建築にも反映しているのだろう。そして、昭和初期には大恐慌があったことも付記しておこう。



以後、銀行建築は、列柱のクラシシズムとラスチカ積みのクラシシズムが大勢を制し、前者の例としては、日銀岡山(T10・長野)、三菱銀行(T10・桜井)、勧銀(S4・渡辺節・図9-12)、三井本館(S4・トロゥブリッジ&リヴィングストン)、明治生命館(S9・岡田・図9-7)、三井銀行大阪支店(S11・曽禰中條)などの大作群が生れ、後者では、鴻池銀行(T14・長野)、興銀(T12・渡辺節・図9-11)、三井銀行小樽支店(S2・曽禰中條)などが目立つ。列柱とラスチカ積みをくらべると、質量ともに前者の方がはるかに勝っているから、大正・昭和戦前の銀行建築をリードしたのは石の列柱のクラシシズムということになる。(p.99-100)


見たことがある建築をボールド体で強調しておいたが、三井銀行小樽支店については、あまり大きな流れの中に位置づけることができていなかったが、本書によれば、「銀行の時代」の大勢をなす「二つのクラシシズム」のうちの一つに属するといった位置づけられると理解できる。



アールデコはそれまでの煉瓦や石に代り、外壁においてはテラコッタやタイル、インテリアにおいてはガラス、陶磁器、合金、合板といった近代的な工業製品が多く使われ、その結果、表面の仕上げが金属質の光沢を帯び、まるで鉱物の結晶で作られた装飾のような印象を見る者に与えるようになる。
 ……(中略)……。工業製品を使って幾何学化した装飾を作ることはそれまでの手作りの歴史様式にくらべはるかにたやすく、経済効率を求めるビジネス街の貸ビルや町場の中小ビルに広がらないわけがなかった。(p.116)


アールデコの流行には、工業化が背景にある。

なお、鉱物的であるという指摘は本書のモダンデザイン理解の流れ(植物→鉱物→幾何学→数式)の中に位置づけるためのポイントとなっている表現である。



 パリ仕込みの作としては朝香宮邸(S8・図9-39)がある。
 パリを遠く離れた日本の地にフランスのアールデコの大輪の花が一輪咲いたのは、建て主の朝香宮鳩彦が、1925年のアールデコ博に日本代表として妻ともども訪れすっかり気に入ったことによる。……(中略)……。施主がアールデコ博日本代表の朝香宮、建築家が「早く日本に帰って自分の思う様に計画を進め」たい権藤要吉、そしてインテリアデザイナーが責任者のラパン、これ以上の組合せはおそらくパリでも期待できなかったにちがいない。(p.117)


朝香宮邸は現在、東京都庭園美術館として公開されているが、確かに一見の価値がある建築である。




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