アヴェスターにはこう書いている?
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藤森照信 『日本の近代建築(上)――幕末・明治篇――』(その1)

 19世紀半ば、ゴールドラッシュに導かれてカリフォルニアまで行き着いた下見板は、やがて太平洋を渡り、南に向ってゴールドラッシュに湧くオーストラリアに入り、西に向って明治初期の日本に上陸する。……(中略)……。
 日本のどこにいつ上陸したのだろうか。
 最初の上陸が観察されるのは明治元年の長崎(アメリカ領事館・図1-7)で、次に函館(トムソン造船所・M3頃)、札幌(開拓使本庁舎・M6・図2-3)、横浜、東京(毛利邸・M6、工部省・M7)と続くが、建設量と影響力の大きさという点では札幌が他を圧していた。(p.36)


下見板張りの古い建築が北海道には多いが、これはイギリスに源を持ちつつ、アメリカの西部開拓に伴って展開してきたコロニアル建築の一つのパターンだったという認識を得たことは、本書からの収穫の一つだった。



 その街づくりのシンボルとなったのが、開拓使本庁舎(M6・図2-3)にほかならない。二階建ての正面にペディメント――三角破風――つきのポーチコを張り出し、屋根の上に塔を立ててドームを乗せる姿は、19世紀前半のアメリカの州庁舎で広く採用されていた定型に従っており、様式的にはネオクラシシズムに属する。大きさといいスタイルといい、アメリカを含めて世界の下見板建築の代表作の一つに数えられるが、設計者の名はまだ明らかではない。(p.37)


開拓使本庁舎は、明治12年に火災のため焼失したが、現在、札幌の「北海道開拓の村」に(外観が)再現されている。

建てられる少し前の時代のアメリカの州庁舎の定型に従っているというのは、いかにも北海道開拓らしく、なるほどと思わされる。19世紀前半のアメリカの州庁舎で現存しているものはあるのだろうか?あるなら見てみたいものである。

それにしても、あの建物が「世界の下見板建築の代表作」とまで言われるほどのものだとは思わなかった。近々、再訪問する予定なので、少しじっくり見てみたい。



 彼(引用者注;ウィリアム・ホイーラー)が札幌滞在中に手がけた建築は、時計台(M8・演武場)、模範家畜房(M10)など農学校関係にかぎられ、開拓使直属の技術者たちがすでに作りあげた本庁舎などにくらべると数も少ないし、表現からいっても時計台以外は地味だが、しかし下見板西洋館の技術という点では画期的で、バルーンフレーム構造を日本ではじめて実現した。
 バルーンフレームというのは、構造に太い柱や梁を使わず、規格化された厚い板を多用して、壁体を構成する点に特徴がある。旧来のようにノミやノコギリの腕を振るって太材を組み立てる必要がなくなり、釘で打つだけで済み、開拓にこれ以上ふさわしい技術はない。当時は、その軽便さゆえ風船――バルーン――構造とかカボチャ構造と呼ばれて馬鹿にされたが、開拓とともに始まったアメリカ木造技術の頂点に立つものであり、現在日本で“ツーバイフォー”と呼ばれるのは元をただすとこれにほかならない。ホイーラーのバルーンフレームによって、アメリカの木造技術は本当に日本にもたらされたのである。
 先に着任したホルト他の顧問技師団と遅れてやってきたホイーラーの活躍によって、明治5年以後、札幌の原野には槌音が続き、明治10年代には、石狩平野のただ中に下見板で仕上げられた白い町が出現する(図2-4)。もし事情を知らない者が訪れたなら、開拓期のニューイングランドの州都にでもまぎれ込んだような感動を覚えたにちがいない。建築のスタイルから見ても、アメリカの下見板建築の歴史の一部がそのまま引っ越してきたような情景であった。(p.39-40)


時計台や模範家畜房など、札幌の古い木造建築を見ると、大抵、バルーンフレーム構造が採用されていると解説に書いてある。だから、その名はよく目にしていたが、ウェブ上でも意外とその意味や具体的な構造などをわかりやすく説明しているサイトが見つからず、この構造が用いられることにどのような意味があるのか、なかなかつかめずにいたが、本書の明快な説明によってかなり理解が深まった。

「規格化された厚い板」を釘を使って組み合わせることで、太い柱や梁を使わずに壁の強度で建物を支えることができ、建てるにあたっての労力的なコストも少なくて済む。この技術もアメリカの開拓に伴って開発されたものであり、その簡便さにコロニアル建築としての性格も表れており、北海道という植民地の開拓にも適した技術だったということだろう。



神戸の山の手を訪れると、異人館と呼ばれる西洋館がいくつも残っているが、それらはどれも前面にヴェランダを張り出し、壁には下見板を張っている。たいてい平気で眺めているけれども、ヴェランダは東回りでやってきた南方の工夫で、下見板は西回りでやってきた寒冷地向きの作りであることを知っていると、不思議な思いにとらわれる。どうして氏も育ちも違う二つがここで結ばれ、“下見板ヴェランダコロニアル様式”が生れたのだろうか。


数年前に神戸の異人館は行ってきたが、近代建築にはあまり知識がなかったこともあって、私も「平気で眺めて」しまった。近代建築で木造というと日本では下見板張りばかりという印象があり、「木造なんだから下見板だろう」くらいにしか思わなかった。ヴェランダが南方で発達したコロニアル様式であることは当時から知っていたが、下見板が寒冷地向きの技術だとは当時は知らなかったので、違和感を感じなかった。

下見板については、神戸訪問より前に、台湾に行ったときにも現地の友人が台湾の古い木造建築の多くで下見板張りが使われていると説明してくれていたので、南方でも使われていたんだなぁ、ということの方が印象が強かったこともある。

今から考えると、台湾に寒冷地向きの下見板が入ったのは、いつ、どのようなルートで入ったのかが気になってきた。北海道と台湾の比較研究というのが、私のここ数年間のテーマの一つなのだが、札幌農学校(北海道帝国大学)の卒業生が台湾の開発や台北帝国大学(現在の台湾大学の前身)に深くかかわっていたことなども考慮に入れると、下見板コロニアルが最も栄えていた札幌から台湾に入ったという仮説も成りたつ。是非この問題は今後調べてみたい。



 アメリカを経て日本に届いた西回りのコロニアルルートは、下見板のほかにもう一つ、少量ながら“木骨石造”という珍しい技法の西洋館をもたらした。木造の骨組の外側に石を積み、カスガイなどの金物でつないで一体化し、外見を石造のように見せかける。建築の構造は木による軸組構造と煉瓦・石による組積造に大別されるが、どちらにも属さず、一枚の壁の中で両者が背中合せに併存するという世にも稀な作り方で、ヨーロッパにはほとんどない。しかし、アメリカでは田舎の駅舎や倉庫などで使われ、現在も、木造の外側に煉瓦を張りつけたような住宅がたくさん作られている。おそらく、煉瓦や石が入手しづらかった開拓期に、せめて外見だけでも組積造に見せかけようとして発達したコロニアルな技術と考えられるが、しかし、同じコロニアルでも下見板のように独自な表現に到達できず、石と煉瓦の猿真似に終始している。コロニアルであることのマイナス面が現われた淋しい作り方なのである。アメリカ以外では日本の幕末・明治初期に例があり、香港でも使われたことが分っている。起源ははっきりしないが、影響力の点からいうと、アメリカの技術と考えていいだろう。
 世界的にはマイナーな作り方だが、日本の西洋館の歴史を考えるうえでは、避けて通れない重要性を持つ。現在、日本に残る木骨石造の西洋館はわずかしかなく、箱根の福住楼(M12)と、西本願寺大教校講堂(現龍谷大学講堂・M12)の二つと、小樽の石造倉庫が群として注目されているていどだが、明治の初期には西洋館の先進地を制しかねない可能性を秘めていた。
 一つは北海道で、下見板の代表作の開拓使本庁舎は、当初、木骨石造で図面を引かれながら、良い石材が採れなくて下見板に変更されたという事情がある。しかし、下見板の陰に隠れて札幌の町場には木骨石造が広まり、やがて小樽の倉庫群を産み出すほどになる。
 北海道では開拓使本庁舎で可能性をほの見せてあとはマイナーに終始した木骨石造だが、横浜と神戸の居留地では主流の木造漆喰塗りに互して健闘している。


木骨石造については、小樽の倉庫群でかなりの数を見ているが、どこから来た技術なのか解説してくれる本も今まで読んだ限りではなかった。本書からアメリカでこの作り方で建てられたものがかなりの数で存在し、恐らくそこから北海道に入ってきたという理解を得たのは収穫だった。

これがコロニアルな技術であるということは、小樽の倉庫群を見ても理解できる。外観は石造風なのだが、内部を見ると骨組が木造になっており、石を切り出して積み上げる石造などよりコストも安く、短時間で建てられることはすぐにわかる。小樽で倉庫を建てている商人も、その本拠地は北陸など本州にあることからも、植民地の出先で建てた建物という側面があり、こうした簡便な技術で建てることには合理性がある。

本書では、表現が「石と煉瓦の猿真似」であるとして否定的な評価が下されているが、美的な観点のみから低く評価するだけというのは、やや一面的だろう。既に述べた通り、出先に建てる倉庫などの用途で言えば、コストパフォーマンスは高いと言えるし、小樽で木骨石造倉庫が広まり、また残っているのは、大火で街が燃えた後も燃えずに生き残ったという事実があり、そのように耐火建築としての機能に注目して倉庫建築に広まったという面もある。安価で短時間で建造できる簡便な耐火建築という点では相当の合理性を認めることができるだろう。もちろん、耐震建築としては強くはなさそうなので、地震が多い日本にはあまり向かない面もある。ただ、だからこそ群として残っている小樽の倉庫群は貴重なのだ。

香港にも建てられ、横浜や神戸で健闘したというのは、やはり西洋列強の進出に伴って開港場にやってきた技術なのだというのが垣間見える。



さいわいヨーロッパには“三角形不変の法則”を利用したトラスという架構法があって、これを使えば、少ない材料で大スパンが可能となる(図3-8)。
 トラス小屋組のことを洋小屋組とも言うが、これと対比的に日本の伝統の小屋組を和小屋組といい、こちらの方は大スパンについてはまるで駄目だった。


近代の工場建築は複雑なレイアウトと激しい移動が必要になるため大空間が必要となり、そのためにトラスが使われる、という説明の部分より。

トラス構造も明治期の建築でよく目にしたことがある。先の引用文で出てきた小樽の倉庫群でも使われているし、一見和風の建物に見える鰊番屋(例えば、小樽の茨木家中出張番屋)でも使われているものがある。

大スパンを可能とする技術という意味付けがされているが、構造などについては、それによって何が実現できるか、といった意味を理解することもやはり重要だと思う。




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