アヴェスターにはこう書いている?
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STVラジオ 編 『ほっかいどう百年物語 北海道の歴史を刻んだ人々』(その2)
ウィリアム・スミス・クラーク

 37歳になっていたクラークは、「開拓が今盛んに行われているここ、マサチューセッツにこそ農業の専門学校が必要だ」と考え、周りを説得し、ついに4年後、当時アメリカにまだ2つしかなかった農学校を、もうひとつ増やすことに成功したのです。1867年、日本では新政府が幕府を倒し、明治維新という新しい国造りにとりかかった年でした。(p.72)


マサチューセッツ農科大学の学長であったクラークが、札幌農学校の教頭として赴任し、マサチューセッツ農科大学をモデルとして学校を作っていったという話はよく耳にしていたが、クラークが設立に関わっていたということや、アメリカでも農学校は当時は少なく、3件目の事例であったとは知らなかった。

農科大学の設立ということ自体、大学という組織自体が実学的な学問なども扱うようになるなど、変化しつつあった時代だったことも反映しているように思われる。



ホーレス・ケプロン

 本州の農家にみられなかったガラス窓が、早いうちに普及したのも、冬は寒いからと防寒設備を強化したケプロンの考えです。(p.83)


ガラス窓の普及が北海道では比較的早かったというのは、なるほどと思う。

明治39年竣工の旧日本郵船小樽支店(重要文化財)くらいの時期になると、二重窓や窓と枠の間の隙間風を防ぐような加工、雪や外部からの侵入から保護するための鉄製のシャッターなど、窓の周辺に寒冷地ならではの様々な工夫が凝らされていたのが想起された。



新渡戸稲造

 同じ年の明治9年、北海道開拓使長官、黒田清隆の案により、アメリカの大学を型どった農学校が札幌に設立され、マサチューセッツ農科大学のクラーク博士が経営を任されることになりました。農業の学校は日本で初めてのものでした。教授が外国人のため、政府は、東京外国語学校の優秀な生徒たちに、札幌農学校入学への募集をかけました。(p.90-91)


新渡戸稲造だけでなく、一期生の佐藤昌介も同じようなルートで札幌農学校に入学しているようだ(本書p.168参照)。



 しかし、この東京大学でもすぐに失望してしまいます。学問のレベルは札幌農学校の方が上だと思ったからです。「日本で最高の学者になってもたかがしれている。今広い世界にでなければチャンスは永久に失われてしまう」そう考えた新渡戸はアメリカへの留学を決意するのです。(p.92)


クラークは短期間で帰国してしまったため、新渡戸は直接教えを受けてはいないが、それ以外にも多くのお雇い外国人がいたことが、レベルの高さの要因だろうか?東京大学よりも札幌農学校の方がお雇い外国人教師の質や量が高かったのだろうか?



 札幌農学校は、明治15年に開拓使が廃止されてから、ようやく存続していたありさまで、わずか8名の教授で授業を担当しなければなりませんでした。新渡戸も、週20時間も授業を受け持ちしましたが、青年教育を念願としていた彼は少しも苦にならず、それどころか学生と話したさに、わざわざ学生のトイレに通っていたそうです。
 新渡戸の活動は、札幌農学校だけに留まらず、これと平行して現在の北星学園であるスミス女学校、私立北鳴中学校でも教頭として教壇に立っていました。これらの学校で新渡戸は、知識教育よりもむしろ人格教育に重点を置きました。(p.92-93)


前段は新渡戸の人柄がよく表れている逸話。北星学園大学という私立大学が札幌にあるが、この学校も意外と由緒があるらしい。



今井藤七(丸井今井デパートの創始者)

 こうして明治5年、札幌に着いた21歳の藤七は、さっそく現在の南1条西1丁目、創成川のかたわらに小さなかやぶきの小屋を買い入れ、日常雑貨の屋台を開きました。なぜこの場所を藤七は選んだのか。それは当時開拓使が置かれた札幌は、北海道の首都として、急激に人口が増加しており、大通公園をはさんで北側には官公庁、南には一般民家が建てられていました。そこで藤七は、人々が官公庁を行き来する際、必ず通る道というものを考え、店を創成川のほとりに開いたのです。(p.161)


丸井今井デパートは今でもこのすぐ近くに建っているが、札幌の街が建設中だった頃から、ほぼ同じような場所で商売をしていたことに驚いた。



 しかし、彼の事業は常に順調だったわけではありませんでした。開業2年目にして、開拓使時代最大の危機といわれる大不況に遭いました。札幌は、明治6年には開拓工事が一段落したため、大工や職人らが皆帰国し、開拓使も新事業を計画しなかったので、不景気になってしまい、逃亡者が続出したのです。(p.162)


北海道の行政の中心地とは言え、明治初期の札幌は人口も少なく、産業もなかったから、公共工事が終われば仕事が一挙に減るのは道理だろう。



 いよいよ店舗が狭くなったため、明治21年、丸井今井呉服店の西向かいの、南1条西2丁目、現在の店舗が建っている一角を買い取り、そこに「丸井今井洋物店」を開業しました。北海道は、黒田清隆開拓長官が、欧米式開拓法と生活様式を採用したため、その首都札幌には、本州より一足先に洋式化の花が咲き、洋品雑貨の需要がかなり多かったため、この洋物店の独立は、人々の足を次々と運ばせました。藤七39歳の勝負でした。(p.163-164)


明治20年代は北海道の開拓が徐々に加速しはじめる時期といったところか。その時期に洋品を売るとは、他より一歩先を行く商売をしていたように感じられる。

なお、北海道では本州より洋風の生活様式が広まったというのも興味深い。



佐藤昌介

 そして明治40年、ついに昌介が長年願ってきた大学が設立されることとなりました。同郷の友人、原敬の計らいで、古川財閥から校舎建設の資金が提供され、札幌農学校は東北帝国大学農科大学となったのです。(p.173)


明治19年と明治26年に札幌農学校の存続の危機があり、いずれにも佐藤昌介は関わり、学校存続に努めた。この功績は大きい。そうした困難な時期を乗り越え、ようやく大学になったというわけだ。なお、その背景には、北海道の人口や経済も急速に発達していた時期だったということもあるように思われる。

なお、この時建てられた校舎は、現在移築されて現在の北海道大学キャンパス内に移築され、「古河(記念)講堂」の通称で知られている。


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