アヴェスターにはこう書いている?
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STVラジオ 編 『ほっかいどう百年物語 北海道の歴史を刻んだ人々』(その1)

 次に義勇は、札幌に基線、基本となる線を引きました。まず南北の基線を創成川、東西の基線を今の南1条通りと定め、この交点を起点としました。創成橋のほとりには、今もそれを示す石があります。
 南1条通りを境に、北部には官邸・学校・病院などの建築物を建て並べ、それからこれらの建築物を火事から守るため、幅100メートルの防火帯、現在の大通公園を設け、これより南を一般民家の用地としたのです。(p.29)


北海道開拓使の初代判官・島義勇の章より。

札幌という都市の歴史を見ていくとき、大通公園と創成川で区切られていたという話は必ず出てくるところで、このブログでも以前何度か取り上げている。ただ、この起点を示す石があるとは知らなかった。



 しかし、岩村は予算の使いすぎで解任になった島義勇を教訓に、予算難を理由にすぐには札幌建設に手をつけようとはしませんでした。……(中略)……。
 しかし、利益にさとい商人たちは、札幌が北海道開拓の首都になるらしいことをどこからか聞きつけて、全国から集まってきました。ところが、せっかく来ても何もない、と皆失望しましたが、少し様子を見ているとさらに次々と商人が集まってくる。するとそのうち商人のための宿屋が建ち、続いて飲み屋ができた。風呂屋まで出来て、それらは大繁盛したそうです。
 こうなると勢いがつき、雑貨屋、呉服屋、茶屋が次々と並びました。そんな状況を見ていた岩村は、札幌首都建設に着手しようと決めたのです。
 まず、建設工事の能率を高めるため、岩村は函館時代からの知り合いで五稜郭の建築を請け負った、中川権佐衛門を大工棟梁に置き、彼を通じて函館、東京などから千数百人を集めて作業にあたりました。
 次に区画を整えるにあたっては、市街地を4キロ四方とし、道幅も細く設定しました。(p.32-33)


島義勇の後任として開拓使の二代目判官に就任した岩村通俊の章より。

札幌の市街地が4キロ四方というのは、当時の人口などから考えると比較的大きいようにも思うが、現在の市街から考えるとかなり小さいとも言える。人口の割には大きめに設定されているのは、北海道の行政の中心都市としての繁栄が期待されていたからだろうか。



 岩村は開拓者たちに、「お金を貸すから燃えづらい家を建てなさい」と提案しましたが、誰一人その命令に従おうとはしませんでした。そこで明治5年、岩村は「草小屋を取り除く」というお触書を出した後、退官覚悟で、御用火事と呼ばれる放火を決行しました。……(中略)……。
 岩村がまわりの非難を振り払ってでも行った、この御用火事によって、街並みもきれいに整えられ、火事などの災害はほとんどなくなりました。延焼を防ぐ目的で札幌で初めての消防隊が誕生したのも、この御用火事がきっかけだといいます。
 こうして札幌の開発は急速に進み、岩村は次の事業に取りかかりました。それは、土木作業者のために北海道で初めて官庁公認の遊郭を、すすきのに設けることでした。……(中略)……。
 男の数が多かったため、毎日のように婦女暴行や人夫同士の暴力沙汰が起こり、札幌の治安は手のつけられない状態にありました。岩村はこのような様子を見て、大切な労働者をこのままにはしておけないと悩んだあげく、彼らに国の税金を使って娯楽の場を与えることを思いついたのです。
 岩村は開拓監事である薄井龍介之に、200メートル四方で歓楽地を作らせ、薄井の名を一字とって、「薄野遊郭」と名づけました。東京から芸者数十名がこのすすきのに呼び寄せられ、殺風景だった札幌の街並みが、一気に華やかになったのです。(p.34-36)


御用火事などという放火を開拓使が行ったというのには、正直驚いた。

ただ、確かに函館や小樽の歴史では明治時代には何度も大火があり、それが市街地を形成してきたという歴史を見てきたのに対し、札幌にはそうした傾向が希薄だとは思っていた。札幌の人口が増え始める時期が遅かったこともその原因だろうとは思っている(大ざっぱに言えば、防火建築が北海道でも建てられるようになってから札幌は発展した、ということ)。しかし、初期にこうした火事に対する配慮があったということは銘記されてよいように思う。

ただ、明治11年に建てられた札幌農学校演武場(札幌市時計台)なども木造であるなど、防火建築が普及したわけではないようである。

また、すすきのの遊郭に関する叙述も興味を惹かれる。遊郭だったという話は聞いたことがあるが、官庁公認だったとまでは知らなかったからである。また、範囲が200メートル四方で作られたというのも、今よりはかなり狭いが、市街地の拡大と比べると比較的現在も同じような範囲がすすきのと呼ばれていると思われる。

札幌という都市の歴史も調べてみると意外と面白いかも知れない



 原料の大麦は、屯田兵が栽培したものを買い上げ、ホップとビール酵母は輸入に頼り、開拓使麦酒醸造所は作業を開始しました。(p.41)


開拓使麦酒醸造所(現サッポロビール)の建設責任者であった村橋久成の章より。

産業政策としてビールの製造販売が行われていたわけだが、屯田兵の栽培していた大麦を原料として使っていたというのは、なるほどという感じがする。




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