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アヴェスターにはこう書いている?
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藻谷浩介 『デフレの正体――経済は「人口の波」で動く』(その2)

 ちなみにここでご紹介した小売販売額や課税対象所得額、あるいはこの先で使う国勢調査のような、確固たる全数調査の数字は、現場で見える真実と必ず一致しますし、お互いの傾向に矛盾が出ません。一致ないのは、得体の知れない世の空気だけです。こういう空気というのは、数字を読まない(SY)、現場を見ない(GM)、空気しか読まない(KY)人たちが、確認もしていない嘘をお互いに言い合って拡大再生産しているものです。(p.69)


全数調査の絶対数を確認すべきだという点は非常に重要。ただ、どの数字を調べるべきか、ある統計の数字を見たとき、それがどのような調査方法による、どのような意味をもつ数字なのか、といったことは、それを読み解く知識がなければ分からないことが多い。そもそもどのような数字があるか、ということすらわからなかったりする。

本書では「事実」にもとづいて物事を判断すべきだということがしばしば言われるが、以上のように、その数字を見つけだすためには実は、「広い意味での『理論』」がかかわっているという側面も無視できない。そうした素養を人びとに身につけさせることが大学などでの高等教育の役割の一つであるように思われる。



 確かに日本では、マスコミもシンクタンクも、場合によっては学者までもが、有効求人倍率や失業率という数字ばかりを使い、就業者数の増減をチェックしていません。理由は「学校でそう教わった」「日本では皆がそれを使っている」という以外には考えられないわけですが、それではなぜ米国経済の基本指標には「非農業部門の雇用者数の増減」が使われているのか(なぜ失業率がメインとして使われないのか)、なぜ「有効求人倍率」が使われていないのか、彼らは考えたことはないのでしょうか。
 それは第一に地域経済を左右するのは何と言っても雇用の増減(就業者数の増減)であり、第二に失業率だの有効求人倍率だのは定義上も現実にも必ずしも雇用の増減とは連動しないものだからです。(p.84-85)


基本的には絶対数を示す指標は「率」で示されるような指標よりも信頼度が高いようだ。確かに、率で示されるような指標は、それだけ間接的なものに過ぎず、それだけ多くの操作を経たものだということに気づかされた。



 このように青森県の経済の問題は、単に景気循環に伴う失業者の増減や、若者の流出だけで説明できるものではありません。今世紀になっての不振の背後には失業者の増加ペースや若者の流出ペースを大きく上回る就業者数の減少があり、その背景には総人口減少のペースを大きく上回る生産年齢人口の減少がある。同時に高齢者の激増も進行している。この事実を踏まえてこそ、日本で何が起きているのか、本当のところがわかってくるのです。
 ちなみにここでお示しした、「生産年齢人口減少」と「高齢者激増」の同時進行を、「少子高齢化」というズレた言葉で表現する習慣が、全国に蔓延しています。ですが「少子高齢化」というのは、少子化=子供の減少と、高齢化=高齢者の激増という、全然独立の事象を一緒くたにしているとんでもない表現であり、「子供さえ増やせば高齢化は防げる」というまったくの誤解の元凶にもなってしまっています。さらにはもっとも重大な問題である「生産年齢人口減少」を隠してしまってもいますね。従って私は「少子高齢化」という言葉は絶対に使わないようにしていますし、この語を口にする「識者」やこの語が書かれた論説は、事柄の全体像がよくわかっていない人(が書いたもの)ということで信用しません。(p.96-97)


確かに「少子高齢化」という言葉への批判は妥当である。

例えば、「少子化」の方は合計特殊出生率に目を向かせる傾向があり、出生率を上げるにはどうしたらよいか、といった「対策」を考える方向に向かう。これはこれで重要なことではあるが、現在から近未来に直面する経済の問題を解決する志向を持つものではない。

また、「高齢化」の方は医療や介護や年金などの財政需要にばかり目が行くことになり、そのための負担をどうするかといったような話に向かう傾向がある。これも経済の問題ではなく財政や福祉の問題にシフトしてしまうことになる。

さらに「生産年齢人口」である現役世代だけが隠されている、というわけだ。



 首都圏で起きているのは、「現役世代の減少」と「高齢者の激増」の同時進行です。そこでは、企業に蓄えられた利益が人件費増加には向かわない。現役世代減少に伴い従業員の総数が減少しているので――もう少しわかりやすく言えば定年退職者の数が新卒採用の若者の数を上回るので――少々のベースアップでは企業の人件費総額は増えません。となれば、企業収益から個人所得への直接の所得移転のチャンネルは、配当などの金融所得しかありません。事実、企業に多額の投資をできる富裕層は大きな利益を得たわけです。
 が、不幸にして?その多くは高齢者だった。彼らは特に買いたいモノ、買わなければならないモノがない。逆に「何歳まで生きるかわからない、その間にどのような病気や身体障害に見舞われるかわからない」というリスクに備えて、「金融資産を保全しておかなければならない」というウォンツだけは甚大にある。実際、彼ら高齢者の貯蓄の多くはマクロ経済学上の貯蓄とは言えない。「将来の医療福祉関連支出の先買い」、すなわちコールオプション(デリバティブの一種)の購入なのです。先買い支出ですから、通常の貯金と違って流動性は0%、もう他の消費には回りません。これが個人所得とモノ消費が切断された理由です。(p.101-102)


首都圏で「現役世代の減少」と「高齢者の激増」が同時進行しているというのは、一般に流布しているイメージとはズレがあるところ。絶対数で見ると見えてくる部分。

企業から個人への所得移転が人件費ではなく金融所得という形になってしまい、その配当を手にする者の多くは高齢者であり、高齢者の貯金は「将来の医療福祉関連支出の先買い」であるためモノ(やサービス)消費には回らないというのは、非常に明快な説明であり、その通りだと思う。

ちなみに、小野善康などはこうした流動性選好の高まりを「成熟社会」という観点から説明しようとしているようだが、成熟社会というイメージを使った説明よりも、「医療福祉関連支出の先買い」や高齢者は日用品や耐久消費財などの消費も少ないといったところから導く方が妥当であると思われる。小野理論は、貯蓄が消費に回らないことがある、ということを一般的な理論として説明している点で非常に優れた理論だと思うが、現代日本社会を説明する際に理論を適用して、現代日本ではどうしてお金ばかりを持っておこうとするかという説明としては、藻谷氏の説明の方が説得力がある。



首都圏や愛知県といった産業地域には、30年代後半生まれの方々が、高度成長期の前期に中卒の「金の卵」として大量に流れ込みました。だから、00~05年の間に65歳を超えて行った人が多い。若者を出す側だった地方よりも、受け入れる側だった首都圏の方が、より急速な高齢者の激増に直面しているわけです。(p.108)


なるほど。



 戦後復興の中で、たまたま数の多い団塊世代が生まれた。彼らが加齢していくのに伴い、そのライフステージに応じてさまざまなものが売れ、そして売れなくなっていく。この単純なストーリーで説明できてしまう、そして予測できてしまう物事がいかに多いことか。(p.125-126)


このストーリーはなかなか興味深かった。ちなみに、団塊ジュニア付近の世代でもかなりの説明ができる。彼らが若かった80年代に流行したものが何度かリバイバルしたり、彼らが40歳前後の頃に「アラフォー」などという流行語ができたり、といったことが想起される。



 さらにその先も、生産年齢人口の減少と75歳以上の後期高齢者の増加が続いていきます。団塊世代が75歳を超える25年には、75歳以上人口が今の五割増しくらいの水準にまで達してようやく横ばい傾向になりますが、それでも生産年齢人口の減少は止まりません。団塊ジュニアまでもが75歳以上に達する50年、40年後には、75歳人口は再び史上最高を更新、他方で生産年齢人口は現在の六割程度にまで減っています。(p.138)


団塊ジュニアがいなくなるころになれば、人口構成はかなり大きな波がなくなるのかもしれないが、それまでの40~50年間が、ある意味では日本の経済や財政の正念場と思う。



証明はできなくとも、反証があるかどうかは簡単にチェックできる。反証のないことだけを暫定的に信じる、明確に反証のあることは口にしないようにすることが、現代人が本来身につけておくべき思考法です。実際には世の中の事象の多くは証明されていない(証明不可能な)ことなのですから、反証があるかどうかを考えて、証明はできないまでも少なくとも反証の見当たらない命題だけに従うようにしていれば、大きな間違いは防げるのです。
 ところがこと社会的に何か動きを起こそうとすると、反証の有無は無視されて、証明の有無だけが決定的に重要とされがちです。最悪の例が水俣病でしょう。水俣病の原因は、工場から垂れ流された廃液の中の有機水銀化合物だったという事実は、今では社会的に広く認知されています。ですが当時そのことは、学問的には証明できていませんでした。そこをタテに、つまり「水銀が奇病の原因とは論証できていない」という口実で、当時の通産省は廃液への規制をなかなか行わず、その間も被害が拡大したのです。ところが実際に廃液垂れ流しを止めてみると、水俣病の新規発生も止まりました。つまり、有機水銀化合物が水俣病を起こすということは「学問的には論証できなかった」のですけれども、「有機水銀化合物がなければ水俣病は起きない」という反証は成立したわけです。このように実際の世の中には、論証を待たずとも反証を検証して実行に移すべき政策があります。そこを認めないでぐずぐず論証を待っていると、ヘタをすると人の命まで失われてしまう。(p.231-232)


「社会的事実の多くは証明されておらず、できないものが多い」ということを踏まえ、「反証がないことを信じ、反証があることは口にしない」という格率に従って行為すべきというのは参考になる。

水俣病が事例として挙げられているが、私がここを読んですぐに想起したのは、いわゆる「従軍慰安婦」の問題であった。右派的な言説などでは「旧日本軍が強制連行した資料はみつからなかった」といった主旨が強調され、そうした人びとは「強制はなかった」「軍の関与はなかった」などとして騒ぎ立てるが、上記格率からすれば、その手の議論は、過度の(すなわち不必要な水準の)証明要求をしているのであり、「軍隊が外地にいることは、そうした事件が生じる必要条件すら準備したことにならないのか」という程度の反論だけ出しておきつつ、相手をせずに通り過ぎればよい



 正確には政府は、「○○年までに外国人観光客○千万人達成」というような目標は掲げていますし、今般の世界同時不況さえなければ、10年度に一千万人という目標は確実に達成されていました。でもいい機会ですので、同じく政府の目標になっている「××年までに外国人による国内での消費×兆円達成」にもっと注目せねばなりません。そうしないと、イベントか何か、とにかく人数だけを容易に増やせるような策に走るのが現場の人情です。人数は増やさずとも、滞在日数や消費単価を上げて最終消費額を増やすことが重要なのです。
 ……(中略)……人数だけを増やす策の方が滞在日数や消費単価を増やすよりも簡単です。そういう逃げ道を最初から用意しているのでは、楽な方策ばかりが取られまして経済効果が増えません。(p.238-239)


日本に外国人観光客を呼び、消費を増やすことで内需を増やそうという論点だが、これはもっと小さな地域の観光を考える際にも同じことが言え、参考になる。


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