アヴェスターにはこう書いている?
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初田亨 『百貨店の誕生 明治大正昭和の都市文化を演出した百貨店と勧工場の近代史』

政府の積極的な政策によって、明治初期に煉瓦街が建設された銀座を除いて、東京の店舗の多くが、それまでの伝統的な土蔵造りに変わって、特異な外観をもつようになったのは、明治39年(1906)からはじめられた市区改正の速成計画を契機としてである。(p.55)


都市の町並みがどのように変わっていったかという点には興味がある。明治30年代までは東京も土蔵造りの店舗が多かった、ということがわかる。これは地方都市ではいつごろ変化が起こったのか?という疑問につながる。



関東大震災以降、百貨店の客層が大衆化する頃まで、各百貨店はそれぞれ別なお得意先をもっており、百貨店によって異なる特徴があったという。松坂屋の塚本鉢三郎によれば、明治時代の東京の百貨店の勢力分野について、江戸時代以来の伝統的な特徴をもっていることを指摘しつつ、次のように述べている。

百貨店は今でこそ、いわゆる「大衆的」を標榜して、客ダネに著しい相違はないのであるが、江戸以来の伝統的な特徴を持っていて、客ダネの相違がハッキリ表われていたのである。
すなわち、白木屋が大名の御用が圧倒的に多く、爾来明治になっても、いわゆる「大名華族」の客筋を抑えていた。
三越はドウかというと、商工業の資産か階級や、京都出の公卿華族を抑え、大丸がいわゆる下町筋の今でいう大衆的な一般市民に人気を蒐め、高島屋が宮内省関係の各宮家の御用が多く、松坂屋は各宗派の僧衣、神官の装束を承わるという、際立った特色を持っていたように思われた。


 明治時代の百貨店は、江戸時代からの顧客を引き継ぎ、百貨店によって得意先の傾向が異なる特徴をもっていたようである。しかし百貨店が呉服店から脱皮し大きく成長していく過程で、各百貨店とも新しい顧客を開拓していく必要が生じていた。
 三越が新しい顧客として考えたのは、東京の山の手地区に生活する人びとであったらしい。……(中略)……。
 山の手は、江戸時代には武家屋敷が多く建てられていた地で、武士社会を中心とした生活が営まれていた。明治になり武士階級がいなくなって多くの空き家が出現したが、その地に入り住んでいった人びとには、地方から上京し新たに東京の住民となっていった官吏、軍人、銀行員、会社員などの俸給生活者が多かった。その後の日本の近代化過程の中で表舞台にたち、社会の中枢を司るようになったのも彼らであり、上級、中級階級を形成していった人たちである。(p.82-85)


明治時代はまだ一般的な大衆の購買力はそれほど高くなく、呉服店時代の得意先であった富裕層を主な客層としていたが、関東大震災以降、客層が大衆化していき、サラリーマンなどの新中間層をターゲットにしていった。その過程で客層などの相違はかなりの程度画一化していった、ということがわかる。

大正時代は日本において新中間層が成立した時期にあたり、生活の洋風化が進んだ時期だったことが想起される。

また、山の手という土地の住人の変遷も大変興味深い。



消費を取り扱う小売店の改革は、生産を円環させる輪の一部分としての役割をもち、次の再生産を促す上で欠くことのできないものであった。この点において小売店の改革は、日本の産業近代化にも繋がっていたのである。(p.92)


陳列販売方式や正札販売などによって商品の大量消費が可能となった。機械化などによって生産力が高くなり大量生産ができるようになっても、それに相応するだけの消費が行われないのでは生産力も無駄になってしまうし、収益も得られないので同じだけの生産を続けることもできない、ということだろう。



 日本を欧米に負けない近代国家に育てなければならないといった、天下国家を論じる考えと、三越を発展させる道を探るといった二つの考え方の接点から、「学俗協同」といった方法が導き出されてきたのである。じつはこの「学俗協同」の考え方を日比に教えたのは後藤新平であった。後藤新平が台湾総督府に勤めていた時、そして満鉄総裁の頃、彼はいつも学者を迎えてその所説に耳を貸したという。日比翁助に対しても、「学者を大切にしなけりやいかん」とよくはなしていたという。(p.92-93)


後藤新平という人物は、明治から昭和初期にかけての日本を理解する上でのカギを握る人物の一人であるかもしれない。私にとっては台湾への関心も手伝って、非常に興味を惹かれる人物の一人である。



当時日本において重要な建物を設計しようとする場合、建築家はそのためにわざわざ欧米に出かけ知識を得てくるのを常としていたが、帝国劇場でもそれが実行されたわけである。(p.113)


帝国劇場は明治44年に落成しているので、引用文中の「当時」とは明治末期(まで)ということになるのだろう。

どのような建物を建てた建築家が欧米に視察に行ったのか、具体例があるとありがたい。



日本の中流住宅が明治時代の中頃から、玄関の近くに客間として使用する洋間を付設する和洋折衷の住宅をつくってきたことはすでに指摘されているが、三越ではこのような和洋折衷の住宅に適合する室内装飾を積極的につくっていこうとしていたのである。(p.160)


こうした形の住宅はいつ頃まで建てられていたのだろうか?地方都市の事例だが昭和初期の作品(例えば、小樽の坂牛邸)は知っている。東京ではいつまでか?こうしたスタイルが廃れた後は何に変わったののか?疑問は尽きない。



 アール・デコ様式とは、もともと1925年にパリで開催された現代装飾工業美術国際博覧会(アール・デコ博)で成功した新しい様式のことで、以後こうした造形の様式を指して用いられるようになったものである。アール・デコの造形は、建築、衣服、家具、装身具など幅広い分野に及んでおり、あたかも鉱物の結晶を思わせるような幾何学性、対称性、直線造形、流線型、ジグザグの線、反射する光のイメージなどの特徴をもつ。博覧会の名称からも窺えるように、工業と装飾、そして商品が結びついた所に造形の回答を見いだしたのがアール・デコであったともいえる。……(中略)……。
 ……(中略)……。アール・デコの意匠にルネッサンス様式のような重々しい豪華さはないが、背のびをして手を伸ばせば辛うじて届くかもしれない、大量生産が可能な、近代化されたスタイルの華やかさはあった。(p.192-201)


つい最近、アール・デコ様式の邸宅(和光荘)を見学して来たばかりだったので、ここでアール・デコの造形の特徴として述べられている要素のほとんどがその邸宅にあったことに気づき驚かされる。例えば、「反射する光のイメージ」などは、食堂の奥に設けられた明かり取りの空間とその中で鏡を使用して取り入れた光を増幅していたことなどが想起された。

また、アール・デコの意匠に対する本書の評価は非常に参考になった。大量生産が可能であることはかなり重要なポイントであると思われる。



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