アヴェスターにはこう書いている?
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山内景樹 『鰊来たか 「蝦夷地」と「近世大阪」の繁栄について』(その2)

コシャマインの戦争のあと約90年のあいだ、大きいものだけで前後10回エゾは蜂起して和人と抗争を繰り広げている。天文19年(1550)六月、檜山安藤家の当主安藤舜李は長年のアイヌとの争いを終結させるために松前に渡った。舜李立ち会いのもとに渡党の首領である蛎崎李広は西方アイヌ(唐子)の有力首長ハシタインと東方アイヌ(日の本)の有力首長チコモタインの二人を招いて協議をし、次のような取り決めを結んだ。
(1)渡島半島南西岸の知内から天ノ河(上之国町)までを渡党居住地として承認すること。
(2)ハシタインを西夷の「尹(いん)」(=長官)とし、チコモタインを東夷の「尹」となすこと。
(3)蛎崎氏は諸国商船から徴収した船役の一部を「夷役」として東と西のアイヌの「尹」へ納めること。
(4)松前へ往来するアイヌの商船は、知内または天ノ河を通過する際にいったん帆を下げて表敬すること。
 この「通商航海条約」の内容から推して、一世紀になんなんとするアイヌの和人に対する執拗な攻撃の主因が自由交易権の確保にあったことが分かる。圧政者である和人の暴虐、搾取と被支配者であるエゾの絶望的な反抗というような図式はあてはまらない。(p.86-87)


「自由交易権」というよりは、交易から生じる利益を上納させたということではないかと思うのだが?どうなのだろう?



 松前藩のエゾ交易独占体制は寛永期(1624~42)にほぼ完成する。これによって、北海道に居住するアイヌは奥州アイヌと分断され、北海道に封じ込められた。従来おこなっていた奥州各地との交易関係は遮断されたのである。前の(1)~(3)項を実行することで、家康黒印状に但書きされていたエゾの自由航行権は事実上空文と化した。「和人地」は「日本国」の植民地であり、松前はその総督府である。アイヌの眼に松前藩主は和人の侵略者と映ったにちがいない。だが徳川幕閣や諸大名から、松前藩主は「蝦夷大王」であると特別の目で見られていた。松前藩の二律背反的な性格は、夷ヶ島の「前近代変容期」の歴史を通して、主調低音として鳴り続けている。(p.90)


「藩」と呼ばれているため、現代から見ると幕藩体制の内部のものとして考えられる傾向が強い松前藩だが、当時の蝦夷地のアイヌや諸大名から見ると「蝦夷大名」という他の大名とは異なったものであるという認識もあったわけだ。このことは押さえておいた方が良いように思われる。



アイヌを簡単に狩猟・漁労民族と呼ぶことはできない。広大な北海道の地で彼らは採集・狩猟・漁労・原始的農耕および交易のすべてを生業として複合的に営んでいたので、地域によって独自の生産活動を自分たちの主業としたのである。五つの地域連合体が確認されている。それは「余市アイヌ」(惣大将・八郎右衛門)、「石狩アイヌ」(ハウカセ)、「メナシクル」(シャクシャイン)、「シュムクル」(オニビシ)、「内浦アイヌ」(アイコウイン)であった。石狩アイヌとメナシクルは大河川の漁労、内浦アイヌは内浦湾の漁労、余市アイヌは山丹交易、シュムクルは狩猟と若干の農業生産を共通基盤にして結合していた。
 一方、松前藩は「商場」における交易権を家臣に与えて「知行」とするとともに、藩主の財政を強化する目的で砂金採取の直接経営と諸大名の需要が多い鷹を捕獲する鷹場所の設置を始めた。商場での交易では、松前藩側は河川系共同体の首長である「大将」を直接の交渉相手にするので、「惣大将」の政治的立場を脅かす。また砂金採取と鷹狩りはアイヌの漁労権、狩猟権を保障しているイオルへの侵害行為となった。……(中略)……。イオルはアイヌにとって、生産基盤であるとともに自分たちの生存と自由を守ってくれる小宇宙(ミクロコスモス)であった。(p.94-95)


アイヌの生業が地域によって異なっていたという指摘はアイヌの生活を理解する上で重要であると思われる。ここからは、例えば、多様な生活文化があったことが予想される。

また、松前藩による砂金採取と鷹狩によるアイヌの「イオル」の侵害などは、シャクシャインの戦いへとつながっていく流れとして重要であると思われる。



 図書館で北前船に関する文献をあれこれ読み漁っていると、天明の飢饉(1782~87)が全国的な海商活動を活性化させて北前船の興隆をうながしたという記述に出会って、意表を突かれた。斎藤善之氏(日本福祉大学知多半島総合研究所)の論文「流通勢力の後退と市場構造の変容」によると、五大北前船主の一人と称された越前の右近権左衛門家では天明7~9年(1787~89)の二年間に資産額を急激に増やしている。同家の資産状況を見ると、取引先商人に対する貸越金・売掛金である「残金」の残高が増えだしているが、それにもまして手元に保留した現金資産である「有金」の残高の急増が目立つ。「万年店おろし帳」の天明6年の有金額は20両に満たなかったが、天明7年90両、8年190両、9年280両と倍増の勢いである。天明期に獲得した資本蓄積で右近家は数年後の寛政7年(1795)に新造船を建造し、「一杯船主」を脱却して有力船主へ成長する足がかりをつかんだ。さらに、この50年後に起こった天保の飢饉(1823~36)が回船経営にさらなる飛躍をうながす画期となった。飢饉が終息した嘉永2年(1849)から右近家では毎年のように持ち船を新造しており、明治元年には回船数が10隻を越えた。この船団増強の好景気は明治20年頃まで続く。これは特異な事例ではない。江戸時代中期の宝暦~天明期から、北前船ばかりでなく各地に地回り船が族生しているのである。
 ……(中略)……。私は飢饉という言葉から日本全土が「飢餓列島」と化してもだえる地獄絵図を思い描いていたが、北前船の歴史は私の「常識」を砕いた。何事も半可通でいると危い。(p.103-105)


飢饉が海商活動を活性化したというのは大変興味深い。「飢饉」のイメージは筆者の指摘するような「飢餓列島」の地獄絵図であり、私も常識を砕かれた。

右近家にも個人的には若干興味があるので、その点からもメモしていた。



 越前や加賀の船乗りと近江商人との親密な関係は長年続いたが、18世紀後半に大転機を迎える。近江商人以外に能登、飛騨、紀伊、陸奥から有力商人が進出してきたため、エゾと本州との交易構造に変化が生じた。新規参入者たちは近江商人を経由しないで独自のルートで藩政に食い込み、留萌、増毛、天塩など奥エゾ地の場所を請負ったので、これによって近江商人の特権的地位が弱められた。さらに近江商人が請負い場所を持つ松前周辺のニシン漁が不漁になった。これらの状況変化で両浜組の近江商人はしだいにエゾ地から撤退し始め、両浜組と荷所船主との定傭関係は徐々に崩れていったのである。越前、加賀の船乗りたちは新たな対応に迫られた。彼らは両浜組の雇われ船から独立し、自力で商業活動を営む買積船への転換を図った。その背景に、各地の問屋商人との結び付きを作ることによって買積船経営が成り立つほど広汎な商品流通が、畿内ばかりでなく西国一帯に形成されていたのである。ここから北前船の歴史が始まる。北の国の船乗りたちを立ち上がらせたのは、彼らの冒険精神だけではなかった。独立へ踏み切った彼らを成功へ導くチャンスが熟していた。
(1)魚肥需要の拡大。江戸時代の最大の商品作物である木綿の栽培は、18世紀に入ると寒冷地を除いてほぼ全国に広まった。また木綿の普及にともなって、それの関連産業ともいうべき青色染料をとる藍の栽培が発達した。藍作は阿波、摂津を中心にさかんにおこなわれたが、そのほか筑後、備前、伊予、薩摩、長門にも産地を形成した。綿作、藍作は、どちらも畑に多量の肥料を投入する。
(2)マイワシの不漁期。魚肥の主宗は干鰯(マイワシの感想品)であった。ところが、享保期(1716~35)あたりから文化・文政(1804~29)の頃までの約100年間、マイワシは長い不漁期に回りあわせている。魚肥需要が拡大するなかで干鰯に替わるものとしてニシンの〆粕が脚光を浴び、魚肥供給の前面へ押し出された。(p.110-111)


北海道への本州資本の進出の嚆矢ともいうべき近江商人も、意外と早い時期に撤退を始めていたようだ。それに代わって近江商人に雇われていた北陸の船乗りが独立して北前船の交易を行った。

ただ、北海道の中でも小樽には近江商人の勢力が比較的長く残っていた。明治になっても右近家などが倉庫を建てていることにもそれは現れていると思われる。この問題についての詳細は後に調べてみたい。



 北陸沿岸には、かつての北前船主屋敷がいくつか一般公開されている。加賀市橋立町の「北前船の里資料館」、「蔵六園」、福井県河野村の「北前船主の館・右近家」である。(p.114)


右近家は現在の行政区としては南越前町にある。

これらの場所は是非とも訪れてみたいと思っている。



明治に入っても北前船は活躍を続けたが、汽船の出現、鉄道の発達、電信の普及などが一つずつ北前船の存在根拠を奪ったので、明治20年代に凋落の陰を濃くし、明治時代の終末とともに歴史から姿を消して行った。北前船主のなかにはカムチャッカ漁場へ進出して漁業に新活路を求めた平田喜三郎、西出孫左衛門汽船を購入して買積み輸送から賃積み輸送へ転換した広海二三郎のような人物もいたが、多くは酒谷家や右近家のように「金銭貸付業」の道を選んで投資家に変じた。(p.120)


北前船主や鰊漁の網元などがそれらの繁栄の後、どのように業態を変えていったのかには興味を持っているが、なかなかまとまった資料がないため、よく分らないところが多い。

強調しておいた西出孫左衛門、広海二三郎、右近家が建てた倉庫が、小樽運河周辺の倉庫群に残っている。彼らはこの引用文によると別々の業種に変更しているようだが、いずれも同じような場所で倉庫業を営んでいるのが興味深い。仕事を変えるにしても単一の業種に変えたというわけではなさそうだ。



 木綿は、日本では応仁の乱(1467~77)以降戦国時代にかけて各地で栽培が始まった。文禄年間(1592~96)に耕作地帯が急速に広がり、江戸時代に入ると畿内を中心に木綿生産が一大発展を遂げた。これで日本の民衆の衣料は麻から木綿へ転換したのである。それは人々の暮らしを一変させる「材料革命」であったばかりでなく、社会の経済構造にも変革をうながした。国内産木綿の普及は、それを基軸にする商品経済を発展させ、中世経済から近世経済への転換を決定的にした。さらに近世中期から後期にかけての綿作と綿業の興隆は「産業連関」的な経済効果をもたらしたので、ここに「近代産業」の萌芽を見ることができる。明治時代に入って伝統的な「本邦綿業」は崩壊し、途絶したけれども、その歴史は日本の近代産業発達史の特質を考える上に、重要な意味を持つだろう。
 中国に南方から木綿が伝えられたのは遠く後漢の時代だったが、木綿栽培が本格的になるのは明朝初期の14世紀末から15世紀初頭にかけてである。また、中国で綿作が盛んになると時を経ないで朝鮮へ伝えられ、宋代末期に朝鮮半島南部で栽培が始まり、李朝が成立した14世紀末に本格的な展開期に入り出した。日本へは遣明船による勘合貿易で「唐木綿」がもたらされ、また西国の守護大名が李朝へ送る使送船が日本からの舶載品に対する回賜品として「朝鮮木綿」を受け取った。木綿は、はじめ貴族や僧侶の珍重する貴重品だったが、戦国時代に入ると兵衣や侍の衣服、陣幕、旗、幟および火縄、帆布といった軍事用に用途を広げていった。戦乱の世の合戦が長期化し広域化するとともに木綿の需要はますます高まったので、それが国産化を促進したと考えられる。そして徳川家康のもたらした「天下泰平」が日本の木綿を軍事用からさらに広い民需用へと導いていった。(p.157-158)


木綿の日本伝来とその産業的展開の概要がまとめられており興味深い。

木綿の栽培は中国では明朝初期に盛んになり、朝鮮でもほぼ同時期の李朝で本格的に展開されたという。それらが室町時代の勘合貿易で中国からもたらされたほか、西国の守護大名を通して朝鮮からももたらされ、戦国時代には軍事用に用途を広げ、戦乱の世が長期化・広域化することで国産化を促進し、江戸時代には民需用に転換したことでさらに大きな需要と供給が行われるようになった、といったところか。

そして、この綿作の拡大が魚肥の需要を高め、マイワシの不漁のため鰊の〆粕が用いられることとなったという繋がりは既に引用してきた通り。明治期にはこの木綿が日本の外貨獲得にとって重要な役割を果たしたのであって、明治日本の近代化にあたって綿や鰊の果たした役割は大きいものがある。

木綿が中国や朝鮮から入ってきたというのは、室町時代は日本の対外交易は活発な時代だったと思われるので、ありそうなことだという感じがするが、戦国時代に国産化が進んだというのは私としては意外だった。歴史には意外な現象が結構あるもので、そうした常識を覆してくれるような事実を知ること自体面白いものだ。


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