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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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立岩真也 『希望について』(その3)
「信について争えることを信じる」より

 以上がなんらかの「規範的」な立場を明示する流れであったとすると、それと少し異なって、「構築」だとか「脱構築」だとか言ってきた流れがある。・・・(中略)・・・。多くの場合、自然とされているものが実は構築されていることを暴くという手口が同じで粗筋が同じなので、移り気な人たちから既視感しか感じないと不平を言われることになる。(p.250-251)



「社会的――言葉の誤用について」より

 これはたしかに解放的なものであって、だからこそ今でも飽きもせずに行われている。それを放棄する必要はなく、肯定してよい、大切なことを言っていると思う。しかし、素朴に捉えれば不十分ではあり、それを繰り返しているなら怠惰ではないか。(p.258)



脱構築主義についてのこれらのコメントには全く同感である。

社会科学や人文科学系のことを少しかじった人間が、こうしたタイプの議論(脱構築主義)を初めて読み、知ると、大抵、世界観が変わるような経験をする人が結構いるだろう。つまり、それまで思い込んでいたものがガラガラと音を立てて崩れていったり、全く違ったように世界が見えてくるように感じたりすることがある。

または、漠然と何かおかしいと思っていたものを、はっきりと否定ないし相対化されることで、その虎われから解放されたと感じることがある。

そうしたことがあり、また、そうした世界の見かたの転換をもたらす指摘の内容も、それなりの正しさがある(ことが多い)。

だから、嵌る。面白くて嵌る。その上、嵌っている本人たちは、意外と気づかないというか、本人たちには気にならないが、それらの議論は立岩の言うようにワンパターンなものが多い。

繰り返しになるが、それでいて「そこそこ」正しい。その上、それが「そこそこ」でしかないことを明確に言うことは普通は難しい。だから、なかなか離れられない。そういう人が割合、多いと思う。

だから、他人には「その議論はもう飽きた」「いつまでそこにとどまっているのか」などと実際に言ったこともある。それらの議論の正しさを保持しつつ、別の次元に理論を移行させないといけない。次元が一つ足りないのが問題なのである。ポイエーシスという知を導入しなければならない、というのが私の現時点(何年か前から)での答えである。



「社会的――言葉の誤用について」より

 相対化とは「信じるな」という、あるいは「信じなくてもかまわない」と述べる行いである。そうしなければならないとされている時、こうするのがよいとされているときに、そうとは限らないと言われることには、実際上の効果がある。定まった解はないということ自体において、ときには治療的な効果がある。
 それは代わりのものを提示しないとも言われる。しかし、何かを壊したら代わりに何かを作らなければならないと決まってはいない。ただ壊してしまえばそれでよいものもある。信じないことは、代わりに何かを信じることを要さない。信じなくてもよいこと、他でもありうることを知ること自体が大きな意味をもつ。(p.257)



その通りである。後段のような短絡には要注意。



「ただ生きるのでは足りない、はときに脆い」より

 誰かのために犠牲になることは立派なことだ。だが、その人が犠牲になることを教えることは、その人の存在を(他の誰かの存在のための道具とし、事実上)否定することになるからその価値自体を裏切る。そして犠牲になることを教える側はそのまま居残るなら、それもまたずいぶん都合のよいことだ。だから、正しさの語られ方には注意深くならざるをえない。そして実際に何が何より大切にされているのか、それを考えることにならざるをえない。
 ・・・(中略)・・・。尊厳を保つためにと言われ、ただ生きているよりもという言い方で説明されるその行いは、なにか精神的に高い営みのように思うかもしれないが、それは違う。むしろ、手段であるものによって支配されていること、その支配を認めていることである。(p.295)



近年の「愛国心」を支持する人々には、こうしたことを明確に、それも人間に可能である限りの限界まで明確に、理解してもらいたいところである。

「国を愛する」ことを強要される場合、(その印として)「祖国のために」「お国のために」何かをすることを求められることになりうる。それは個人の側にとっては「犠牲」であることがある。そして、それを個人に強要する人は「そのまま居残る」。そして、居残った人間によって、そうした犠牲は「なにか精神的に高い営み」であるかのように奨励、称揚される。

「犠牲」を払わされる側の人にとっては、まったくいい迷惑であるというほかない。
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