アヴェスターにはこう書いている?
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山内景樹 『鰊来たか 「蝦夷地」と「近世大阪」の繁栄について』(その1)

 北海道のニシン漁場は日本海側に集中していた。これは沿岸の海底地形と関係する。地図を眺めると、オホーツク沿岸および十勝平野、勇払平野の太平洋沿岸はきれいな弧状の海岸線がのびているが、ここは遠浅の砂浜海岸がひろがっている。他方、日本海沿岸は、松前から稚内までバスに乗って北上するとすぐ分るが、切り立った崖の隆起海岸が多い。急深の岩礁海岸が連続しているのである。岩礁海岸へは高塩分の外洋水の波が打ち寄せるので、コンブ、ワカメ、ホンダワラ、ヒジキなどの褐藻類が繁茂する。そして、ニシンは褐藻類に卵を産み付けるのである。(p.19)


本書を読む少し前に石狩市の浜益地区にある「はまます郷土資料館」(旧白鳥家番屋)や寿都町の鰊御殿に行ってきたのだが、これらの地域に向かう時に私が気付いたのは、この地形のことであった。積丹半島もそうだが、海岸が切り立った崖になっているところが多く、地図では海岸に近いのに水辺に出られるところが少ないことに気づいたのだった。
また、鰊漁場であった場所はいずれもそうした中にあって水辺に近いところに若干の平地がある場所であることに気づいた。

ちょうどこうしたことに気づいた直後だったため、本書の記述は非常に納得できた。



明治の初めに東京の染井村(現豊島区駒込)の植木商がヒガンザクラとオオシマザクラをかけあわせて作った新品種がソメイヨシノである。花は一重で大きく華やかであり、木の成長がはやいので、明治いらい公園や堤防などいたるところに植えられて日本中に普及した。そのせいでか、桜といえばパッと咲いてパッと散るソメイヨシノの花姿を思い浮かべるのが普通になった。いわばソメイヨシノによる桜の「近代化」のおかげで、自分を含めて日本人の「桜花観」がかたよってやせたものになっていたことを認めないわけにいかなかった。桜花の個性と品種の多様性を追求した松前の「花守り」は、それとは別な「近代化」の道があったことを私に教えた。(p.22-23)


なかなかうまいことを言うもんだ。松前の桜は是非一度見てみたいものだ。

なお、桜と日本のイメージを重ねる発想が、明治以後に「創られた伝統」であるということは、今さら指摘し直す必要はないだろう。



館あるいはチャシを開設して運用管理する者は館主(たてぬし)あるいはエゾの惣大将(そうだいしょう)である。そこは権力者の「居城」であり、「政庁」であり、戦いの時には「砦」になる。しかし、それだけではない。館およびチャシは部族にとって「祭祀場」であるとともに、異部族と交易活動をおこなう「市場」としても機能した。この仮説は、近年の研究のなかで有力になっている。昭和43年(1968)、函館市郊外の「志苔館(しのりだて)」付近から約40万枚におよぶおびただしい埋蔵古銭(主に北宋銭)が出土して、「館」と交易の結び付きを裏付けた。(p.25)


蝦夷地にあった「館」や「チャシ」と呼ばれた城が、祭祀場や市場としての役割を果たしていたという。具体的にどのような活動がなされていたのか、少し興味がある。



 ニシンを獲る「場所」を「鰊場(にしんば)」と呼んだ。網を立ててニシンを漁獲する地先水面の漁場と漁獲物を陸揚げして漁体処理をし水産加工作業を進める浜の施設の両方を総合した生産拠点(プラントサイト)が、ニシン場である。(p.30)


なるほど。単に魚を獲るというだけではないところは一つのポイントかもしれない。



 北海道西岸のニシン漁業の発展形態は一様ではなく、各地のニシン場は地域ごとに異なった展開を示した。それはニシンの生物的特性による漁場形成パターンとニシン場の地理的条件の二つと密接に関係していた。冬の日本海は北から下がる冷水塊が発達するので、北上する対馬暖流の勢力は南へ後退する。だが春三月中旬から対馬暖流はしだいに勢力を増し、北海道の日本海沿岸の水温は上昇し出す。この頃、太平洋を回遊して成長し日本海へ回帰してきていたニシンは、対馬暖流の最前線まで南下して、そこで接岸し、産卵する。性成熟するのは高年齢魚が早く、若年魚は遅い。北海道西岸沿いでは、まず松前、江差から積丹半島までの道南地方に高年齢魚が現れる。漁期が進むにつれてしだいに若いニシンに主体が移るが、同時に対馬暖流の卓越におしもどされて、主漁場は松前、江差方面から銭函、石狩の内湾や浜益、増毛、留萌、苫前、天塩、宗谷の北部海岸へ移動する。ニシン漁場を、松前、江差方面から積丹半島までを「走り場所」、積丹半島から石狩湾までを「中場所」、増毛・留萌方面から天塩・宗谷までと天売・焼尻・利尻・礼文の離島を「後場所」と呼んで区別した。走り場所では漁体が大きく、文字どおり漁期初めの走り物が獲れたので、手早く粒ニシンで送り出すか、さもなければ丸干ニシンや開きニシンの食用品に加工して出荷した。中場所は会場の難路で有名な積丹半島をひかえるので、輸送がやや困難である。食品加工は保存性の高い身欠きニシンと数の子の製造に重点が置かれ、あわせて胴ニシン、白子、笹目の肥料を製造した。そして掛けニシンに処理できなかった分を〆粕加工に回したのである。だが漁期が進むと気温が上昇して魚体処理がいそがされる。食用加工と肥料製造の両面作戦は不可能なので、〆粕作業に没頭することになる。そして漁期がいちばん遅い天塩、宗谷などの後場所は、漁体が小さく、しかも交通不便な奥地であり、ニシン漁業は最初から粕玉加工の魚肥生産に専念した。
 ニシン漁は松前、江差地方の走り場所で興り、はじめ漁法は刺網漁を主体としたが、場所請負制の普及とともに走り場所から中場所へ、さらに後場所へとニシン場の開拓が進展し、その過程で生産手段は刺網漁法から漁獲能力のより大きな建網(定置網)漁法へと発達した。主として中場所、後場所のニシン場に、漁獲・沖上げから水産加工・出荷までの海陸一貫生産体制をとった一種の「工場制手工業(マニュファクチュア)」が形成されたのである。江戸中期以降幕末にかけて北海道ニシン漁は増加の一途をたどり、天保年間(1830~43)の漁獲高は15万石に達している。ニシン15万石というのは生産量で約11万トン、〆粕干し上げ重壁で約2万2,000トンの大きさである。明治時代に入って漁場制度が解放されると、さらに飛躍的な上昇をとげ、明治十年代から「ニシン百万石」の時代が約25年間つづいた。西海岸の漁村にはニシン漁全盛期に建てられた豪壮な「番屋」が建ちならんでいた。その一つ、留萌郡小平町の「花田家番屋」は建坪270余坪の建物で、最盛期には定置網18カ統を営み、漁夫約200人が番屋に寝起きした。(p.32-33)


走り場所など南部ほど漁体が大きく、輸送面でも有利だったため新鮮さが要求される食用とされ、中場所は保存がきく食用加工品と肥料との併存状態で、後場所は魚肥生産に専念していたこと。

場所請負制導入で漁場が北へ広がり、刺網から建網へとシフトして大量の漁獲が可能となり、漁獲高も増えていったこと。

こうした流れがまとめられており参考になる。

花田家番屋は重要文化財に指定されており、是非見てみたいと思っている。現在小樽にある田中家番屋(鰊御殿)でも120人ほどの漁夫が(周辺の施設もあわせて)寝泊まりしたというが、200人の漁夫を使っていたということは、田中家番屋以上の規模なのかもしれない。


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