アヴェスターにはこう書いている?
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フリードリッヒ・H・テンブルック 『マックス・ヴェーバー研究叢書4 マックス・ヴェーバーの業績』
「マックス・ヴェーバーの業績Ⅰ」より

最も有名で、最も頻繁に読まれ、かつ論じられたのはむしろ「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(以下、「倫理」論文と略記する。1904/05年の論文のことである。、つまりそれ独自の意義を持つとはいえ彼の業績を代表させることはできない、初期の論文であった。それにひきかえ『経済と社会』が全体を通読されるのはまれなことであり、一個の全体として解釈の対象とされたこともおよそなかったのである。たしかに多くの社会学者はこの大作のどれかの章、とくに支配、社会層、官僚制についてはなかなか詳しく知っている。多くの部分についてははたしかにレヴェルの高い解釈も出されており、若干の社会学者はすべての部分に習熟してもいよう。にもかかわらず全体解釈は真剣に試みられたことがない。むしろ個々の部分が取り出されて強調され、編成されていたのであって、個人的見解が幅をきかす余地がかなり残っていた。というのも『経済と社会』からは、諸部分の相互関連をより確実な規準に照らしあわせて一つの全体の中に位置づけることのできるような、説得的問題設定をなんら引き出しえなかったからである。全体理解に依存せぬ諸部分の自由な利用可能性――これこそ、われわれの『経済と社会』への態度を長いこと特徴づけてきたものである。(p.14)


1975年の論文であるため、現在は『全集』の刊行などの事情もあって、この時代よりは若干の進展がみられるとは言える。しかし、それでもウェーバーの思想が受容されてきた歴史を見るとテンブルックが指摘する傾向は妥当していると思われる。

なお、日本の場合は翻訳は第4版からのものだったと思うが、章ごとに訳者が異なっており、用語の利用などもそれほど統一的であるとは言えないことなどもこの傾向を助長しているように思われる。



国民経済学に対する反乱からドイツ社会学会は生れ出たのだが、もとよりこの反乱は、理性の進歩が決して自然法則ではなく、西洋合理性の成立も人間の理性から説明されるべきでない、という確信から生じていた。(p.82)


この指摘が事実であるかどうか、私には判断できないが、一つの仮説としては保持しておいてよいものだろう。私の関心としては、「ドイツ社会学会」がどのような組織だったのか、ということは科学史的な事実として知っておきたいと思う。



「マックス・ヴェーバーの業績Ⅱ――方法論と社会科学――」より

 他の論文集とならんで『経済と社会』が遺著として印刷されたとき、何年も前にすでに書かれていたマックス・ヴェーバーの業績はここに初めて白日のもとに現れた。それ以降、ヴェーバー解釈がいつしか独自の歴史をもって成立している。彼の業績の検討はまずドイツで始まり、ついで外国で最初の仲介者が現れ(ベネディット・クローチェ、レイモン・アロン、大塚久雄、テオドール・アーベル、フランク・K・ナイト等)、ドイツ人井儒者によって加速され(とくにハンス・H・ガース、アルバート・ザロモン、ラインハルト・ベンディクス)、タルコット・パーソンズによってアメリカ社会学のレパートリーに含まれることとなり、そのことから世界中に広まり、さらにこの十年の周知のヴェーバー・ルネッサンスにまで昂まった。(p.179)



私の場合、ウェーバーの思想の受容史に最近関心が高まっている。関心に合致する叙述であるためメモしておく。70年代から80年代前半頃の「ウェーバー・ルネッサンス」がどのようなものだったのかに興味がある。


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